第7話 やらかし
目が覚めた。
同時に激しく心臓が跳ねる。絶え間なく全身を巡っていく血液。それと冷や汗。腹の中がぐるぐるとかき回されているかのような錯覚。
すぐに身体を起こした。ジャンプする勢いだったせいか、身体のどこかが悲鳴を上げた。
一縷の望みをかけて時刻を確認するが、あったのはやはり絶望だった。
5時間目は20分ほど前に始まっている。
鼓動を間近に感じながら頭を動かす。
軽い眠りのあとなのに、思考は澱みなく進んで行く。未知の恐怖が止まることを許してくれない。
「とりあえずここを出るのが先か……」
意味もなく辺りを確認してから、素早く屋上を抜け出た。
昼休みもすっかり終わって、校舎内はひっそりと静まり返っている。ひどく不気味に感じるのは、きっと後ろめたさのせいだろう。
一つ息を整えてから、静かに歩き出す。周りが授業中なのに、俺は果たして何をしているのだろうか。
まさか、盛大に居眠りをかますなんて……
いくら心地よかったとはいえ、それはない。あまりにも間抜けすぎる。どれだけ気が抜けていたんだか。
いつまでも、終わったことを気にしていても仕方ない。
今はただ、どうやってこの窮地を乗り越えればいいか、だ。
とりあえず、授業に向かうのだけはナンセンス。何の手立てもなければ、質問攻めにされてハチの巣になるだけ。
もれなく、俺の悪事は露呈することになるだろう。
けれど、可能性はゼロじゃない。教科担任によっては、お咎めなしという可能性も……
「そういえば、5時間目ってなんだったっけ」
焦りからか、いまいち記憶を呼び起こせない。ただ、なにかきっとマズい授業だった気がする。完全に感覚の問題だが。
考えているうちに、自教室があるフロアを通過した。
それでも、一向に考えがまとまる気配はない。これはかなりの難問だ……。
いっそのこと、あのまま寝過ごせればよかった。タイミングよく、6時間目が始まるころだったら最高。
だって、ひとまずそのまま授業に出ればいい。少なくとも、迫る問題は棚上げにできる。
そうか、寝過ごす、か。
ふざけた閃きに、ようやく俺は目的地を設定した。
「失礼します」
「はぁい」
扉を開けると、慈愛に満ちた声が飛んできた。まさに、この部屋の主にふさわしいと言える。
遅れて、白衣を着た女性が顔を上げた。
笑顔だったが、あっという間にやる気のない表情へと変わった。
なんとも失礼である。
「……って、仙堂か。ふぅん、なるほどねぇ」
「あの、なにか?」
「いや、別にね。またかと呆れていたところさね」
女性はわざとらしく鼻を鳴らして、肩を竦めた。少しニヤニヤしながら、椅子に座るように促してくる。
その反応に引っかかるものを感じながらも、大人しく指示に従う。
机の上に載っている用紙を手っ取り早く記入していく。もはや、一部の項目は暗記できるほどだ。
「で、今日はどうした。頭痛か、腹痛か? それとも大穴で怪我とか?」
「ちょっと身体がダルくて」
「ついに症状をでっちあげるのまで放棄したわけ。じゃ、熱測って少し横になれば?」
ぶっきらぼうに言って、その顔がそっぽをむいた。何らかの仕事に戻ったようだ。
あからさまに投げやりで事務的な応対。
養護教諭としてどうなのかと思うが、平常運転なので気にしない。というか、むしろ今だとありがたみすら感じる。
身体はかなり熱っぽかったが、当然のように熱はない。
ちょっと過剰に報告して、俺は空いているベッドに潜りこむ。我ながら、もはや慣れたものだ。
睡眠のお替り――追い込まれた末、結局掴んだ結論がこれ。
思い至ってみれば、なんでもっと早く思いつかなかったんだろう。逆に言うと、これくらいしか取れる手段はないじゃないか。
ともかく、今は寝る……いや、本当に睡眠をとる必要はないが。
けれど、身体はしっかりと休息を求めているのだった。
◆
「それで? 行方不明の仙堂クンはどこへ行っていたんだい」
心の底から楽しげな口調。表情も心がぞっとするほどの笑顔。
けれど、その目は全く笑っていない。回転いすに盛大に踏ん反り返って、別の感情を如実に伝えてくる。
あれは、確かに虫の知らせだったのだ。
チャイムが鳴って教室に戻ると、その授業の支配者が待ち構えていた。それは、この学校で最も俺のことをよく知る人物。
「ええと、保健室に。伝え忘れたのは謝ります。すみませんでした」
「あー、そうだったの。それは仕方ないねぇ。それで、どこが悪いの?」
「ちょっと倦怠感が……」
「なるほど、身体がダルいってやつね。熱は?」
「平熱ではあったんですけど」
「ま、そういうこともあるよねー」
あはは、とわざとらしい笑い声が無人の英語準備室に響く。
「ところで、ワタシ授業が始まってすぐ保健室に向かったんだー。誰も、仙堂クンの行方を知らないから」
――ああ、そうか。
やはり初めから詰んでいたのか。
これは最後のチャンスだったのだ。正直に言えば許すとかそういう類いの奴。自分から言って欲しかったなー、なんてよくあるシチュエーションだ。
「すみませんっした!」
「それは何に対して謝っているの? 嘘をついたこと、それとも、このワタシの授業をサボったことかい?」
「……その両方に対してです」
「ま、いいや。知りたいのは真実。ユー、どこに行ってたわけ? ワタシ的には、図書室かなーって」
「え、どうしてですか?」
「……今のは聞かなかったことに。とにかく、どこでサボってた」
その件については、自ら詳細を確かめよう。
今はこの問題にどう答えるか、だ。
こんなことなら、寝ないでちゃんと考えておけばよかった。自分の思い付きを信じて疑わなかったなんて、なんたる慢心。高を括り過ぎた。
冷静に考えれば、素直に答える以外の選択肢は残っていない。
嘘に嘘を重ねるのは、まさに泥沼。2度目はないことは誰にでもわかる。
だが、とてもできなかった。
下手をすれば、あの人にまで迷惑が及ぶ。
「――それが、ええと、実は今日ひどく寝不足で。空き教室で寝てたら、そのまま寝過ごしました」
嘘を述べるときは、本当のことを混ぜた方がいい。と、どこかで聞いた覚えがある。
まあでも、これは明らかに無理筋だよなぁ。向こうも、言葉を続ける
「それはどこの教室?」
「さあ。本当、ぶっ倒れるくらい眠かったので、よくわからないです」
「…………へぇ」
やや身を乗り出して、担任が真顔のまま目を下から覗き込んでくる。無言でじっと、心の内を透かすように。
息苦しさを感じながら耐える。
時間感覚が盛大に崩壊していく。この睨み合いはいったいどこまで続くのか――
「とりあえずはわかった。以後気をつけるように。そんな調子だと、帰りに交通事故とかね」
「はい。本当迷惑かけてすみません。じゃあこれで」
「待ちなさい」
そそくさと逃げ去ろうとしたら腕を掴まれた。
担任の顔には、すっかり悪魔的笑みが戻っている。
完全に話が終わったかと思ったのに。
「放課後残って、反省文と英語の課題ね」
「……はい」
甘んじて受け入れるしかない。客観的に考えて、今日の一件はヤバすぎる。どうかしていると思う。
「まったくサボるにしてもうまくやんなさい。あんま好き勝手やってると、特待取り消されるぞ」
「……マジっすか」
「まあ、それもよほど、だけどね。一応、今のところ成績は文句なしだから、仙堂」
さすが去年も担任だけあって、痛いところをよくついてくるものだ。
温情に感謝する気持ちを兼ねて、深々と頭を下げた。
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