16(`・⊝・´ ) recit : 4 フランソワ・ヴィドック──翼を持たないエンジェル
大男の家は路地裏にあった。石組みではあるが、その
「適当な椅子に座ってくれ」
古ぼけた木製の椅子が数席散らばっていた。少し大きめのテーブルが部屋の中央に鎮座し、小さなテーブルがひとつ壁際にあった。小さい方には一輪の黄色い花びらが花瓶に挿してある。
大男の一人暮らしにしては洒落てると思い花瓶に顔を近づけた。土器で出来た安物の花瓶だ。
「ああ、そこは弟の勉強机だったんだ」
なるほど、そういうことか。
「弟は黄色い花が好きだったの?」
「別にそういうわけじゃない。ただ、その花は弟が処刑された近くに咲いていたんだ。石畳の隙間から伸びていたのを引き抜いてきた」
部屋を見回すが、これといって目につくものはない。小さいテーブルに触れながら「貴族は酷いね」と口にしてみた。
大男は外にいた時と違い唇を噛み締めながら「あいつらは人間じゃない。人間の姿をした悪魔だ」と呟いた。
テーブルを観察しながら椅子を引くと下に本棚が収まっているのをみつけた。一冊抜き取ってみる。
「それも弟の本だ。おれは学がねぇから読めないが、弟は読み書きの勉強をしていた」
本のタイトルは「シャーロック・ホームズ」か。幼いうちから探偵小説を読ませるほど教育に金をかけていたのか。それ以前に本を買う余裕があるのか、見たところ貧しい暮らしのようだが。
「勉強……って、学校に通っていたの?」
「いや学校へ通わせてやる金はないよ。近所に学校の先生が住んでいる。エリックって青年だ。日曜日の午後にボランティアで、ここら辺の子供に勉強を教えてくれる。弟も毎週お世話になってた。その本はエリックが買ってくれたものだ」
そういうことか。推理小説を選んだのは教育者か。
「本を買ってくれた……ということは、弟はエリック先生のお気に入りだったんだね」
「そうさ、おれの弟は勉強が出来た。エリックも普通の学校に通わせるべきだと言ってくれた。だが私学校はどこもリンゴ売りの儲けじゃ入学金すら捻出出来ない。それで
「伯爵家の連中に言い掛かりをつけられて殺された」
「ああ、そうだ……いや、待て。おれは伯爵とは言ってないぞ」
「……ああ、感だよ。適当に言ったの。当たったんだ、僕の感もなかなかだなあ」
ゴリラ並の知能だと侮っていたけど意外と鋭いな。もう少し言葉に注意しよう。
「ミッシェルさんッ!」
大男の家に黒縁眼鏡の青年が飛び込んできた。安物だが清潔感のあるスーツを着た痩せた男だった。
「エリックかあ、どうしたんだ」
ほお、この金髪の色白男がエリック先生か。で、毛むくじゃら大男の名前がミッシェル。ミカエルからとった名だろうが全然イメージに合わんな。本人が知ったら気を悪くしそうだ。
エリックが眼鏡の奥の細い目でぼくを見やり「ルーシェが生き返ったとおもった」と呟く。
「随分早く戻ったとおもったらルーシェによく似た男の子を連れているじゃないか。驚いたよ」
「ああ、このぼうずは身寄りがないんだ。父親を探して巴里まで来たそうだ。今日は俺のところで泊めてやろうとおもってな」
「そうだったのか。良かったね、ミッシェルさんは見た目は怖いが優しい人だ」
「見た目も優しいだろ、変なことをぼうずに……ああ、そういえば名前をまだ聞いてなかったな」
大男あらため、ミッシェルが今さらぼくの名を聞いてきた。名前も知らない他人を平気で家に招くなんて、やはり子供の
さて名前か、コードネームを言っては怪しまれるだろうし、どうするか。
と、思案していると机の上のシャーロック・ホームズが目に入った。
ぼくの名前は、
「フランソワ・ヴィドックです」
「ヴィドックくんはじめまして、エリック・ジョルジョです。エコール・プリメールの教員だよ。日曜日には教会を借りて子供たちに授業もしているんだ。きみもここへ長く滞在できるなら歓迎するよ」
なるほど落ち着いた語り口には知性のようなものを感じる。これが人間の先生か。教育隊の教官とは少し印象は異なる。
年齢はミッシェルと
「ついでだエリック。おまえもヴィドックの歓迎会に参加しろよ。っていっても大した物を食わせてはやれんが、干し肉とワインくらいならご馳走するぞ」
そんな談笑を壊すように再び入り口ドアが開いた。今度は高齢の女だ。
「ミッシェル、大変だよッ!」
そう叫んだ次の瞬間には、視線はぼくに向いていた。目をまんまるに開けて驚愕の表情で「ルーシェ!」と叫んだ。
「違う、こいつはフランソワ・ヴィドックだ。父親を探して巴里まで来たらしいが身寄りが無いというから今夜は俺のところに泊めてやろうとおもってな」
「ああ、よく見れば確かにルーシェじゃない。そうだよね、あの子は……」
「それで、何かあったのか。血相変えて」
「そうだよ、すぐ逃げたほうがいいよ。ミハエル・ド・サンマール伯爵のとこの長男が橋を渡ってこっちへ向かってる」
「ダデルか」
しばらく黙って会話を聞いていたが好奇心から質問してみた。
「ダデルって誰?」
ミッシェルは押し黙り、血相変えて騒いでいた高齢女も大人しくなった。ぼくはエリックへ振り向き視線を送る。
「ミハエル・ド・サンマール伯爵はここら一帯の領主だ……いや、厳密には領主なんて役職は今は存在しない。けれど歴史的な、
「貴族の息子」
「そう、悪ガキだ。手のつけられない血塗れ野郎だ」
「そのダデルにルーシェは殺されたの?」
エリックは顔を覆った。躰が震えている。嗚咽が漏れる。
これ以上は無理か。でも状況はわかった。
わからない事はひとつ、
「なぜ、ミッシェルが逃げなきゃいけないのさ」
毛むくじゃらの大男は目を見開き、手を震わせ、それでも冷静を装いながら口を開いた。
「俺の大切な弟が奪われたんだ」
「何かしたんだね、伯爵家に対して」
「腐ったリンゴを大量に送りつけたんだよ、この男は」
高齢女が呆れたように、それでも愛おしそうに、ミッシェルの背を撫でながら答えた。
「すまない、ヴィドック。今夜ここへ泊めてやることは出来なくなったよ。エリック、申し訳ないがこの子を一晩預かってもらえないだろうか」
「ミッシェルさん、あなたはッ!」
「逃げてもすぐに捕まる。いや、もとより逃げる気なんてないさ。一発でいい、あの糞ったれ長男の頬を殴りつけてやりたい。それだけだ」
家の外に馬の蹄の音が響いた。大勢の男の怒鳴り声と、悲鳴。
「裏口から逃げてくれ、俺はここでヤツを迎える」
「ヴィドックくん、こっちへ」
エリックがぼくの手をひき、裏口から出ようとする。ふむ、これは貴族と呼ばれる種族を見学する絶好の機会だろう。ぼくは「行かないよ」と黒縁眼鏡のインテリへ告げた。
「な、なにを言ってる。殺されるぞ」
エリックの顔が引き攣る。
「……ころされる?」
ふふっ、笑った。
キミらは貴族から殺されるかもしれないがね……そうか、それなら、いつまでも芝居をする必要はないのだな。
「ヴィドック何をしているんだ、早くエリック先生と一緒に行け」
今度は毛むくじゃらが偉そうに、このぼくへ命令した。
「あのさぁ、」
高齢女は既に逃げ出していた。ぼくは室内に留まるふたりの男へ事実を端的に、明快に教えてあげた。
「ぼくは、最強なんだよ」
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