13(ΦωΦ) episode:10 地上に君臨せし最強にして最悪の獣──それは猫!
どろりとした密度の濃い空気が躰に伸し掛かる。
人間の気配が喪失した、まるで作りものめいた虚無の街。石畳のカビ臭さと下水から垂れ流される汚水の悪臭が、皮肉にも「これが現実だ」と認識させる──お嬢様、わたしはいったい何処にいるのでしょうか。
視界を覆っているのは猫の群れ。毛むくじゃらに包み込まれた
地面を、ダッと後ろ足で蹴り上げると何メートルも飛び上がる。長くて立派な尻尾はバランスを取るための舵。柔軟な筋肉の動き、収縮性の完成された骨格。
飛び上がった
その機能美はまさに芸術だ。
一匹、二匹じゃない。もう、無数。ほんとに、わたしの目が毛むくじゃら以外見えない程に、猫たちがヴィドックくんを四方八方から狙い撃つ。間髪入れず、息をつく暇もなく、次々に繰り出される猫パンチの連打。
「うあぁぁッ!」
ヴィドックくんが悲鳴をあげた。
「どこまで耐えられるかしら」
お嬢様が呟く。少し意地が悪いな、と思った。わたしは猫が大好きだけど、おそらくヴィドックくんはこれまで猫を見たことがない。そして、その第一印象は最悪。
「あのぉ、お嬢様」
「なに?」
「少し可愛そうになってきました」
後ろから少し怒気を孕んだ声がした。
「悠長なことを言ってられる状況では無い」
コゼットだ。
真珠のような白い肌をした背の高い
「でも、コゼット」
「どこまで耐えられるか、とわたくしは言った。セリシア、また誤解をしているわね。その意味はね、わたしくし達への戒め。わたくしたちが、どこまで耐えられるかよ。こんなことになってしまって、初陣なのにゴメンね」
「え、」
お嬢様の言葉通りだった。気づけばいつの間にか、ヴィドックくんと猫たちの関係性が逆転している。
「パターンどおりにしか攻撃してこないんだね、さすが
ヴィドックくんの表情が明るくなっていた。猫たちの攻撃をひらひらと交わしながら、その手にはナイフが握られていた。
「ふぎゃゃゃッ!!!」
猫たちの悲鳴!
柔らかな毛が漆黒の夜空に舞い散る。
「やめてッ!」
猫たちを殺さないで、そんなのは絶対に嫌だ。
切り裂かれ、削がれ、絶叫しなから死んでいく……嫌だ、嫌だ、嫌だ、そんな姿見たくない。もうやめて、もうやめてください。お嬢様、もしもあなたが猫たちをけしかけているなら、やめてあげて。
心が痛い。苦しい……それでも、まぶたを開いて闇の空を見つめる。
ポンッ、ポンッ、ポンポンッ……
そこに描かれた光景に目を奪われた。
何が……起こっているの?
ヴィドックくんにナイフで切られた猫たちが丸い毛玉に変化したのだ。切り口から一瞬、薄い煙を吹くと全体が霞んで次の瞬間には毛玉となって、今度はふわふわ宙を泳ぎ始めた。
わたしは自分の見ている光景が信じられず目をこする。おそらく口もあんぐり開いていたのだろう、コゼットから「はしたない」と注意された。
「だって、だって……」
言葉が出ない。この状況をどう説明すれば良いのかわけがわからない。
毛玉たちは宙を漂い、やがて一箇所に集まり、そうして、そうして……
「お嬢様?」
すべての毛玉がお嬢様のもとへ集結した。お嬢様の姿は毛玉たちに覆われた。
「セリシア、あなたの顔を見せて」
「はい、お嬢様」
とは、言ったものの、お嬢様は毛玉に覆われお姿が見えない。わたしは駆け寄ると「お嬢様のお顔はどこですか」と訪ねた。顔の変わりに二本の腕がニョッキリ、毛玉たちの隙間から白い肌が剥き出しで伸びてきた。
着ていたはずの、あの素敵なドレスはどうしたのだろう。まるで今は毛玉がお嬢様の服のようだ、と考えていたら両手でわたしの頬を擦ってきた。優しい手の感触に心がほだされる。
「……姫」
声に出したのはわたしじゃない、お嬢様だ。わたしは姫じゃない、セリシアだ。お嬢様の
「お嬢様、姫とは誰のことですか?」
「もう少し遊んでいたかったけど、そうもいかなくなりましたわ。ここから先はあなたが主人ですよ。おかえりなさい、わたしたちの姫さま」
後ろに立っていたコゼットが、サッと膝を折り、頭を深々下げてお辞儀をした。お嬢様にでは無く、このわたしに対してだ。
「無礼の数々、お許しください姫さま。お叱りはこの後に、しっかりお受けします、何でもする覚悟ですから」
「ちょ、ちょっと意味がわかりません。お嬢様、これはいったい。コゼットもやめて、どうしちゃったの?」
ヴィドックくんは、まだ残った猫たちと戦っている。数はかなり減ってきているが猫たちの奮戦は凄まじい。そして切られた猫から順番に毛玉へ変化すると、お嬢様へと合流する。そうやって次々と毛玉が集まり伸ばした両腕も段々と覆われていった。
「闇より生まれし者よ、神の名を騙る亡者よ、恐れを知らぬなら相手をしてやろう。我が名は
一瞬の静寂からの膨張。毛玉の群れは重たい空気を押し広げて一気に巨大化した。
闇に登場せしは、真っ白に輝く毛むくじゃらの物体。それは圧倒的なリアリティの否定。そして、既存の概念を突破する魂の咆哮。
そう、闇を切り裂く咆哮だ。怒りを込めた錆びた怒声が闇夜をどこまでも響き渡る。大きな耳と憂いを湛えた悲しげな瞳。
巨漢から繰り出される地響きが魂を揺さぶった!
「お嬢様!」
天空から雷鳴が叩き落された。街が一瞬明るくなり──ヴィドックくんは腰を抜かせて何事かを叫び散らしている。絶対的な恐怖。逆らってはならぬものへ手を出してしまった後悔。人はそれを『禁忌の存在』と呼んだ。
いま一度、凄まじい音量の遠吠え。
空気が震え、地を震撼させるほどの
──そうだ、思い出した。わたしは知っている、彼女の名前を知っている。
「……サクラ」
記憶の奥に眠っていた……そうだ、大切な名前だ。でも、思い出せない。思い出さなきゃいけないのに、あ……頭が痛い。
わたしは強烈な頭痛を感じて立っていられず倒れそうになった。そこをコゼットが抱きかかえた。
「姫さま、とりあえず、こちらへ」
姫さま……誰のこと?
コゼット、いったい誰のことを言ってるの?
お嬢様……わたしの、大切なお嬢様はどこ?
……そうだ、
「御常はどこにおるんどすか。サクラがまた外へ出てしもうたわ。御常、母上に見つかる前にサクラを掴まえてちょうだい」
薄れゆく視界の向こうに巨大な猫が見えた。
その二本の尾はさらに裂け九本になっていた。威風堂々たる姿は神々しくも美しい。こんなにも美しい生き物が、この世には存在したのだ。ああ、なんだろう、とても懐かしい気がする。
「……まあサクラったら、あないなところで、小鳥と遊んではるわ」
サクラの咆哮が天を地を揺さぶる。人知を超えた強烈なる力のまえにヴィドックくんは青褪め、泥に額をこすりつけながら泣き叫んでいる。
可愛そう。
そこまでしなくても、彼だって反省しているでしょうに……サクラったら、ほんに容赦があらへんどすなあ。
わたしは、そのまま気を失った。
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