第5話


「それって……どういう……?」


「ん? ああ、最初に言ったろ? 三年に一度、夢を見ているって。夢は続いているんだ。俺が拒否しているだけで……おそらく、あの村はいつだって俺を呼び寄せることが出来るんだろうな」 


 暗く翳る部屋の中で自嘲気味に笑う千加良ちからの頬を、暖炉の温かな色味が、まるで何かの慰めのように撫でている。

 暫くそのまま暖炉の方を見ていた千加良ちからだったが、空になったカップを手の中で転がしながら僕に向き直る頃には、その眼の奥に微かに悪戯な光が見えた。


「二度目の夢の話は、また今度にしよう。と、なれば……なあ、史堂しどう? 責任持って今夜は俺と朝まで一緒に居るってことで間違いはナイよなぁ」


 その形の良い唇の端には、不思議な笑みが浮かんでいる。


「せ、責任って何ですか。僕には何の責任も……」


 思わず狼狽える僕に向かって千加良ちからは首を傾げると、斜め下から鋭い視線を投げて寄越した。


「何って、俺が思い出したくもない夢を、お前に話すことになった責任だよ」


 分かっている癖に、と言外の意図を滲ませてみせる僕の眼の前に居るのは、完全にいつも通りの千加良ちからだった。


「えっ? それって、どうすれば」

「……分かるだろ」

「わ、分かりません……って言わせてくださ……い?」

「ふうん?」


 禍々しくも美しい千加良ちからのその唇が、今度こそはっきりと愉快そうに歪むのが見えた。

 濡れて艶を含んだ千加良ちからの眼が、ひたと僕を据える。

 逸らすことが赦される筈はない。

 甘さを滲ませるその眼差しに絡め取られた僕は、しなやかな美しい獣のような千加良ちからにじり寄るまま、ぎこちなく固まる身体をソファに預けるしか出来なかった。

 ソファの軋む音が、部屋に響く。

 ゆっくりと僕に向かって伸ばされた千加良ちからの片方の手は、身体に触れるか触れないかのところを通り過ぎ、ソファの背凭せもたれを掴んだ。

 その瞬間、ふわと千加良ちからの薫りが漂い、それを吸い込んだ僕の身体は内側からくすぐられ崩れ落ちそうになる。

 アンバーやムスクに加えて、千加良ちからの自身の匂いが混じったその甘く熱の籠った官能の薫りのする腕の中へ囚われた僕は、その麗しい顔を間近にして、恐怖によく似た胸の高鳴る興奮に自分が恍惚と酔いしれているのを知って、おののくのだった。


 あゝ抗うことは、もはや無意味だ。


 観念した僕は、眼を伏せる。

 衣擦れの音と共にソファがたわみ、身体が微かに浮く。耳元に千加良ちからの息を感じ、続く快感を期待してぞわと背筋が粟立つ。

 …………、……。

 …………?

 

「…………おい」


 その突然の突き放すような声に、それまでの甘い雰囲気に蕩けるような響きは、露ほども無い。

 夢から覚めたように、はッと眼を開けると、少しも悪怯わるびれる素振りのない千加良ちからの、揶揄う僕を見る口角に笑みを滲ませた涼しげな顔があった。

 

「まあ、お前がそのつもりなら、俺は別に良いんだが……ふうん? 良いんだ?」


 また、やられた。

 どうして僕は……。


「良くない、良くないです」


 少し遅れて我に返った僕の必死すぎるその様子に、千加良ちからは驚くほど優しい眼をして笑う。

 それを見て僕はまた、容易く勘違いしそうになる自分を諌めるのだった。

 千加良ちからが僕を? まさか。


「ははッ。俺もそんなつもりは、ねぇよ」

「えっ?」

「おい……何を残念がっているんだよ」

「ざ、ざ、残念?! そんなことは、思っても……千加良ちからくん、ホントもう勘弁してください」

「ふふん」


 その傲慢な笑顔も千加良ちからには良く似合うなどと、先ほどの毒気に当てられたままの僕が思ってしまった事だけは、決して悟られないようにしようと固く心に誓うのだった。


 結局、千加良ちからと一夜を明かすことを違う意味で了承させられた僕は、この『鬼灯ほおずき』には居たくないからと言う千加良ちからの我儘に、場所を移動することになった。


「僕の家で構わないですか?」

史堂しどうが良いなら、俺は何処でも構わない」


 夕食を外で済ませた僕と千加良ちからは、自宅までの通い慣れた道を歩きながら、そう云えばこうして夜に二人でこの道を歩くのは、あの時以来二度目だと考えていた。

 なつめを夜に一人にはさせられないと、帰ったあの日。

 もう誰も、待つ者の居なくなった家。


なつめチャンは、どうだ?」


 玄関の鍵を回す僕に、それまで黙ったまま家まで歩いて来ていて突然、何を思ったのか、あるいは道々僕が考えていたことを気づかれてしまったのか、千加良ちからは静かな声で尋ねるのだった。


「変わりません。相変わらず、眠ったままです。なつめも夢を見ているのだとしたら、どんな夢を見ているんでしょうね」

「そうだな、どんな夢だろう」

「……千加良ちからくんは、夜はずっと起きていて、寝ないんですか?」

「いや、寝るよ。誰かが傍に居ると、不思議とあの夢は見ないんだ。だが、長く続けては眠れない……恐ろしいんだな」

「へぇ……そうなんですね。じゃあ、それに気づいたきっかけがあるんですね?」

「ああ、そうだ。夢は怖いが、あの頃はまだ三年に一度という決まりがあったから、普段は忘れていることの方が多かった。で、すっかり忘れていた三年ぶりの十五歳のその日」

「その日?」

「俺は偶々たまたま、女と寝てた」

「それで……?」

「違う夢を見ていたその中に、あの老人が紛れていて、それに気づいた俺に向かって悔しそうに言ったんだよ」


 まさか、独りじゃないとは……。

 次こそは、必ず……。


「……で、俺は飛び起きた。それからずっと誰かと寝てる。相手は別に誰でも良いんだ。あの夢さえ見なけりゃな。誰もいない時や独りで居たい時は、起きたまま夜を彷徨い明かす。公園で、あの爺さんが言ったように俺は独りじゃ夜、寝られないんだよ」


 そうして酒を飲みながら、映画を観て朝まで時間を潰すことにした僕と千加良ちからだったが、床に座って観ていた筈の映画は既に終わり、気づけば僕はいつの間にか寝ていたことに慌ててソファに座っている千加良ちからを仰ぎ見た。

 千加良ちからもまた、ソファに寝そべり微かな寝息を立てている。その穏やかな横顔に、あの夢は見ていないようだと、安堵しつつ上体を起こしかけたその時、千加良ちからの顔の傍に一人の美しい女性の顔が現れるのが見えた。ぎょっとする僕と眼が合うと一瞬だけ微笑み、消えた。

 驚いた僕は、千加良ちからに異変は無いかと立ち上がる。

 まじまじと見下ろされている気配を感じたのか、寝ていた筈の千加良ちからは薄目を開けると突然、僕のシャツの胸ぐらに手を伸ばした。

 次の瞬間、寝ぼけているのだろう千加良ちからは、不意に甘く艶めいた笑みを浮かべるとシャツを掴む手に力を込め、ぐいと強引に僕を引き寄せて唇を奪ったのだった――。


 


 

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