目覚めたのは誰のせい

灰野海

第1話:マゾ・ミルクティー・マシュマロ

前略中略、いろいろ略して天国のお父さんとお母さん、聞いてください。私が初めて好きになった男は、最低の男でした。


私の名前は満月と書いて、みつきと読む。だがその性格や行動は月とは到底結びつかないものであった。小学生の頃は男子と殴り合いのケンカなんて当たり前。中学に入って少し大人しくはなったが、活発な気質は消えることはなかった。高校生になって漸く猫を被るということを覚え、教師の前では勉学に励んでいたが、友人の前では荒っぽい気質は完全に隠しきれることはなかった。

そんな満月が初めて恋をしたのが、大学に入って数カ月経った頃だ。本当に、少女漫画のようだった、とその頃はうっとりと語ることができたが、残念なことにもうそれは叶わないのでさっくりと、生クリームと苺たっぷりのケーキではなく、柿ピーナッツのピーナッツだけを食べるように説明する。

講義が終わり、さぁさっさと帰ろうと歩きだした満月は、学生証が入った定期ケースを机の上に忘れていることに気が付かなかった。それを呼び止めて、渡してくれたのが彼だ。ああなんてラブロマンス。その時に彼は、定期ケースからはみ出した満月の学生証を見てしまったのだろう。どうぞ、と彼は手元の学生証を見てぽつりとこう言ったのだ。

「ん、綺麗な名前」

と、ただ一言。

十九年間も「満月」という名前と付き合ってきたのだ、「似合わねえ!」と言われたこともあったがもう慣れてしまっていたし、母親がつけくれたその名前を嫌に感じたことはなかった。だが、綺麗だと、そう素直に零したのは彼が初めてで。その時、満月は初めて恋をしたのだ。

あとになって、彼は堂上三明という名前で、顔良し性格良し、頭良し、そしてどうやら、家柄……というか、金も良し、らしい。三点どころか四点揃った人だということを知った。そして、彼にふられて泣く女性がたくさんいたことも、その目で見て知った。

毎週毎週決まった時間、講義が始まる十分前と、講義が終わって別れるとき、そのときだけでも、話をできるのが嬉しくて、泣いたっていいから、この思いを伝えたいと、思ったのだ。思ってしまったのだ。初恋なんて、九割は衝動でできている。それが来るのが、満月の場合、少々遅すぎたというだけなのだ。

そして、後期の終わり、試験最終日に堂上を学舎の中庭に呼びだして、ただ一言、「好きです」とだけ伝えることに成功した。付き合いたいとか、そういう先のことまでは思っていなかったのだ。ただため込んだ初めての思いを、何とかして吐き出したいとそう思っていただけだ。

それを、なんとなんと。満月の初めての告白を。あいつは鼻で笑ったのだ。

「この俺を?好きだと?お前もそういう類か。女というのは顔が良くて金があって、少し優しくしてくれる男なら、誰でも落ちる。ばかみたいだ」

思わず、目が点になる。初めての荒っぽい口調に一瞬目の前の男が誰だか分からなくなった。

「おい……、聞いているのか?お前。また騙されたとか泣きだすんじゃないだろうな?飽きた、その反応は」

今まで見たこともない、本当に何の感情も籠められていない瞳。足元でせっせと働く蟻を見るようなその目に。反射的に、半歩身を退いて、構えた。

「は。なんだその目は。ビンタでもする気か?構わんが、あまり痛くしてくれるなよ。痛いのは嫌いだからな」

恐らく、すでにビンタはされたことがあるな、と満月は判断した。――甘い、砂糖とミルクを大量にぶち込んだミルクティーより甘い男だ、堂上三明!

その勢いを殺さないまま、満月はその左手を繰り出した。久々に握ったにしては上出来な拳は、これまた久々にしては上出来に堂上の右頬にヒットして、これこれまたまた上出来に、彼の体はよろめいてそのまま地面に倒れた。

いぇす、くりてぃかるひっと!あいむうぃなー!!

この拳は、自身の初めての恋をぶっ飛ばすにはちょうど良かったのだ、うん、仕方ない。

ふぅ、と息を吐き、拳を解いて、何かを払うように手をぶんっと振った。さようなら私の初恋。頼むから歴史から消えておくれ。

「――あー、うん、私があほやったな。そこのところは同意。けどな、金でも顔でもなくて。あんたの外面に惚れてしまったあほや、私は。そこんとこ、間違えんといて。私に失礼やろ」

痛かったならごめんな、非力な女の左手のことなんて忘れてくれ。尻もちをついて呆然としている彼に吐き捨てるようにそう言って、満月は中庭を後にした。

「――――いい」

彼が呟いた、小さな単語に気付かないまま。


「……やらかしたぁあああああああ!!」

そして今。満月は失恋に泣くでもなく、騙された!と怒り狂うわけでもなく、父と母の仏壇の前に正座して頭を抱えている。ちーんと鳴らす鐘は、アニメに出てきそうなくらい、効果音としてはぴったりだった。

堂上は前述したとおり、とにかくお金持ちなのだ。対して満月は奨学金でなんとか大学へ通う、六畳一間……じゃない、八畳一間のアパート暮らしの苦学生だ。そんな満月が彼にかましたのは渾身の左ストレート。

「ど、どどどどないしよお父さん、お母さん。私退学になったりする?今このアパートの周りを黒服の男たちが囲んでたりする!?どないしよ!?」

両親の写真を両手でひっつかんでそれを揺さぶるも、当然のことのように答えは返ってこない。だがそうせねば暴れ出してしまいそうだった。

元々、満月の学力は底辺でとても悪いという程でもないが、そう良いものでもない。それでも両親との約束のために、と必死で勉強して大学へ入学したのだ。それをもし退学なんてされたら!?退学にされるほどでなくとも、嫌がらせを受けて残りの大学生活が暗黒生活になったりしたら!?

「やばい、やばいって。まだ今からでも土下座とかすれば間に合う?あぁぁでもそれだけはまじで嫌!」

結局その日、満月は仏壇の前から動くことができなかったが、誰もアパートを訪れる人はいなかった。


後期の試験も終わり、春休みをバイト一色食事一食の何とも侘びしい生活で乗り切った満月も、大学二年生になった。何とか今回も全ての単位をそれなりの成績で取得できていたことに安堵していた満月は、後期試験期間最終日に起こった出来事など、きれいさっぱり忘れていた。数日は怯えていたものの、春休み期間中は特に何も変わった出来事は起こらなかったのだ。それに、やってしまったことはやってしまったこと。悔いてもどうしようもない。堂上もビンタするのは構わないと言っていたんだ、グーかパーの違いなんてそうない……だろう。顔を合わせたときにでもさっさと謝ろうと思っていた。

きっと私も、あいつに騙されたばかな女の一人として認識されたんだ。そうだ、だってふられた女の人数的に考えて、一人一人に報復するとかありえないしな!それはそれでむかつくけど、平穏万歳!謝るだけ謝って、今後一切関わらなければ良い話!

そう。そう思って、春休みを過ごしてきた。だが。まさか向こうから関わりを持とうとしてくるとは。

「……ほんまに、予想外なんやけど」

新学期初めての講義。彼とは同じ学部なんだから、講義が被ることは覚悟していた。

だが、何故わざわざ隣の席に座ってきたくそ堂上!?

「予想外って……そんな驚くことか?こっちは久しぶりに会えて嬉しいけどな。話したいことあったし」

うげぇえええ声のトーンを上げるな気色悪い!と、悲鳴をあげそうになるのを何とか堪える。もう満月は、堂上の前では繕うことをやめていた。大人しく、可愛こぶる必要もないので、盛大に顔を顰める。

「……話したいことって」

「それは講義が終わってからで。昼休み、空いてる?というか、空けておいて」

この場で土下座するからそれは許してくれ。その言葉は、講義開始のチャイムで掻き消された。これ幸いとばかりに、堂上は五月の風のようにほほ笑んだ。もう九月だが。

つーかお前絶対この距離なら聞こえてただろうが!


「申し訳ありませんでした!」

先程の態度とは打って変わって、二人きりになった瞬間頭を下げた。うっかり語尾に、お客様!とつけそうになったのは内緒だ、バイト戦士の性だ。堂上が不思議そうにしている気配を後頭部で感じ取る。

「……?なんで謝るん?」

「私がおま……堂上……さん、を、殴ったから。あほやったから。停学も退学も正直嫌やけど、されても仕方ないとは思ってる」

「ひどー、んなことするように見えてるん?」

ええ、正直。その言葉を何とか飲み込む。ごくりと喉が鳴ってしまい、ええい落ち着けと首元に手を伸ばす。そんな何気ない仕草も、堂上は猫のように見つめてくる。その視線に耐えきれず、こちらから本題を切り出した。

「ところで……話したいことって、何?……何、ですか?もう私、ふられたんやから関係ないやろ」

「敬語はやめようや」

にぱっと天使のように微笑む堂上。

「荒っぽい方が、俺好み」

にっこりと、どこか不敵に笑う堂上。

「――え?」

その、ただ黒い瞳に吸い込まれる。墨を落としたかのような黒い瞳。

そこに、私は映っているのか――?ふと、そんな不安を抱いてしまう。

あと、ふられたというのは君の勘違いだな。

何か堂上が小さく言った気がしたが、今の満月の耳には届かない。

「……俺の家のことは知っているか?」

疑問符に漸く我に返った満月は、なんとか口を開いた。

「え……えっと、お金持ちだってことくらいは」

「そう、お金持ち。おぼっちゃん。求めるもとは全部手に入ったし、手に入らないものなんてないと思っていたんだ。親に叱られたことなんてなかった」

はあ、と適当に返事をしつつも、きちんと考えてみる。子どもの頃、親にねだったお菓子やおもちゃ。買ってもらえないことの方が多かったけれど、それが全て手に入っていたら、彼のようになったのだろうか。自分ならならない、とは言い切れない。なってもまあおかしくはないだろうとは思う。こうなるのは正直勘弁願いたいところではあるが。

「全て親のせいだとは言えないが、まあそういうこともあってな。自分がわがままであったことも知らなかったんだ。……この間までは」

そこで堂上は俯いて、拳を握った。

え、なに。何この展開。

彼は彼なりに、あの件で反省したというのだろうか。

――なんや、ひょっとして、根は悪いやつってことはないんとちゃう?

方向性を変えて、何とか和解とかそういった雰囲気に持ち込もうと満月はぱたぱたと顔の前で手を振り、気にしてないことを伝えようとした。

「あ、あのさ、別に私はそんな気にしてないし、むしろ謝らんとあかん側やし……」

「――――っていたのかも……しれないんだ」

言葉を遮られて、思わず彼の口元を凝視する。俯いていてよく見えないが、それでも何かを言おうとしている。

「俺は……待っていたのかもしれないんだ……」

あの!容赦ない拳を!!

……聞いた事実を抹消したい。視界が霞んだような錯覚を受けた。

「あー……あ、あははは、ごめん、何て?」

「あの容赦ない拳で私をもう一度、いや、これからもずっと殴り続けてくれないか!!」

あ、うん、何か台詞変わってるよね、っていうか酷くなってるよね、聞きたくなかったなー。

とりあえずあれだ、前言は撤回しよう――堂上は根が悪いどころやない、根っこ完全に腐っとる!!

「付き合ってほしいと思っている」

「嫌という感情しかなくて圧倒されるレベルで嫌」

「先に付き合ってくれと言ったのはお前だろう」

「付き合えとは言うてへんわ!……す、すきとは言うたけど、この前までの話!」

勢いに任せ、ざっと半身を退く。たったそれだけの動作で彼の顔はぱぁっと輝いた。

……甘い。キャラメルフラぺチーノよりも焼いたマシュマロよりも甘い。私の武器が、拳だけだと思うなよ。

「にやにやしとんちゃうぞ……」

手加減をする構えではない、咄嗟に、足を出すのははしたないかも、という考えがギリギリ浮かんだため、出すのは拳でもなければ、足でもない。

「きもい!!」

率直な感想を額に乗せ、満月は彼の額にその思いを全力でぶつけた。正直、勢いつけすぎて少々星が見えたし、堂上の額にしばらく白いガーゼが貼られてちょっとした話題になった。

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