【Session14】2015年10月08日(Thu)寒露
季節は秋になり暦の上でも寒露。先月までワイシャツ姿で通勤していた会社員や学生さんも、スーツやブレザーなどを羽織って通勤や通学をするひとが多いのを、学は新宿にある自分のカウンセリングルームへ向かう途中の電車の車内で観た。
今日の午前中はカウンセリングの予約がびっしり詰まっていたので、学は少し遅い昼食をカウンセリングルームで済ませ、午後15時からの彩とのカウンセリングに備えていたのだ。そして何時ものように30分ぐらい、学は瞑想を行った。そして彩は、約束の時間の15分ぐらい前に学のカウンセリングルームに訪れた。
木下彩:「倉田さん、宜しくお願いします」
倉田学:「こちらこそ、宜しくお願いします木下さん」
木下彩:「まだ約束の時間の15時より少し早いですが…」
倉田学:「そうですね。では、ちょっとゲームをしましょう」
そう言って学は自分のディスクのところに行き、何やら小さな玉を6個ぐらい持って来たのだ。そしてこう言った。
倉田学:「これ何だかわかる木下さん」
木下彩:「えぇーと、お手玉ですか?」
倉田学:「そう、せいかーい。このお手玉、カウンセリングなんかでも使ったりするんだけど…。ちなみに木下さん、お手玉できる?」
木下彩:「いちおう出来ますけど、片手で3個は出来ませんが…」
倉田学:「じゃあ、お遊びだと思って、片手3個でやってみよう」
木下彩:「えぇー、やるんですか?」
倉田学:「まぁー、最初から誰でも出来ることなんて無いんだから。これもカウンセリングのひとつだと思って!」
木下彩:「そうですか、じゃあやってみます」
倉田学:「そうそう、何事もチャレンジしてみないと! 自分は何が得意で何が苦手なのか。自分を知るって、ものすごく大切だと僕は思うんだよね」
そう言って学も、お手玉を3個取り、片手で最初は2個のお手玉をした後に、3個のお手玉をやって彩に観せたのだった。
木下彩:「倉田さん上手、それに倉田さんは左利きなんですか?」
倉田学:「僕…。僕は両利きかな? 小さい頃は左利きだったんだけど、おじいちゃん、おばあちゃんに育てられるようになってから右利きに直されたんだよね。でも、字を書いたりお箸を持つのは右だけど、それ以外は左の方が多いかなぁ」
倉田学:「自分でもどっちを使っているか、あまり意識したことないんだけどねぇ。僕は、ひとそれぞれ個性があっていいと思うんだよねぇ。でも今の世の中って枠からはみ出たひとをあまり評価しないし、そのひとの個性をルールで押しつぶしてしまっているように感じるんだよね。木下さんはどう思う?」
木下彩:「わたしですか? わたしは小学生までは両親の仲が良く、決して裕福では無かったけど…。とても幸せだったかなぁ」
木下彩:「でも中学生になり、父親が他の女性と浮気したことで家族がバラバラに…。わたしはそんな両親を観るのがすごく辛くて、だから自分がもし結婚して子供が出来たら、絶対に子供には悲しい思いや寂しい思いだけはさせたくないかなぁ」
倉田学:「木下さんは、家族や子供たちを大切にしたいんだね。そうそう、このお手玉って僕のおばあちゃんが作ってくれたお手玉なんだよ。だから僕は木下さんよりたくさん練習しただけで、ただその違いだけで、僕も最初からうまく出来たわけじゃない。ほんの少し他の子より一生懸命練習し、いっぱい楽しんだだけなんだ!」
そう学は彩に告げ、彩のカウンセリングが始まった。そしてまた何時ものように催眠療法でひとみを呼び出し、お香と瞑想をひとみに行なっていったのだ。少しずつではあるが、学の編み出したこの催眠瞑想療法が、彩とひとみを統合させて行くのに効果があるように学には感じられた。そしてこの日のセッションは終了したのだ。
木下彩:「倉田さん、今日はありがとう御座いました」
倉田学:「いえいえ。少しずつだけど、木下さんともうひとりの人格の綾瀬ひとみさんは統合していっているように僕には感じます。でも、それは個人差が物凄くあります。また前にも話しましたが、統合することにより今の木下さんでは無くなる可能性もあります。そして、そのことに苦しむかもしれません」
木下彩:「わたしは前にも手紙に書いたように、倉田さんを信じてます。だから、わたしは大丈夫です」
倉田学:「そうですか。わかりました」
そう言って彩は、次回のカウンセリングを11月3日(火)の15時から入れたのだ。そしてこの後の予定を学は彩に訊いたのだった。
倉田学:「木下さん、この後って何か予定はあるんですか?」
木下彩:「ええぇ、まあぁ。19時からじゅん子ママのお店『銀座クラブ マッド』で仕事ですが…」
倉田学:「そうですか、僕も19時からじゅん子さんのお店『銀座クラブ マッド』で、じゅん子さんと合う約束をしているのですが…」
木下彩:「えぇー、そうなんですか。じゅん子ママと何の約束なんですか?」
倉田学:「それは教えられないけど…」
木下彩:「じゃあ、一緒に行きませんか?」
倉田学:「僕は構わないけど…。また、じゅん子さんから同伴なのに、ご馳走とかプレゼント貰ってないのって言われてしまいますよ」
木下彩:「大丈夫です。銀座のお店でご馳走して貰いますから、お茶を…」
そう言って彩は学を観てにっこり笑った。学はその時の彩の「明朗でおしとやか」な姿がとても瞳の裏に焼きつき、それと同時に自分の手で、今の彩の性格や表情を綾瀬ひとみと統合することにより変えて行くことに対して、こころ苦しい部分があった。
木下彩:「倉田さん、何考えごとしてるんですか? さあ、準備出来たら一緒に行きましょう」
倉田学:「わかりました。では行きましょうか」
こうして学と彩は、前回と同様に一緒に銀座へと向かったのだ。そして銀座8丁目にある喫茶店に入っていった。
木下彩:「わたし、この喫茶店に前から入りたかったんです」
倉田学:「そうですか」
木下彩:「このお店の前に、大きな猫の置物があったでしょ! あれが気になって外からお店を覗いたら、このお店の窓越しに沢山の猫の置物とかイラストがあって入りたかったんです。倉田さん、こう言うお店入ったことありますか?」
倉田学:「僕ですか!? 僕はひとりじゃ、こう言うお店入れないよ」
木下彩:「何でですか? 倉田さん、ひょっとして猫嫌いですか?」
倉田学:「猫は嫌いじゃないけど…。お店の客さん観ればわかりませんか? 男性の僕がひとりで、こういうお店に入るの抵抗あるんですよ」
木下彩:「倉田さん、駄目じゃないですか。今日のカウンセリングの前に何事も経験だ、『やってみろ』って言ってたの倉田さんですよ」
倉田学:「僕、そんなこと言ってたっけ」
木下彩:「倉田さん、ごまかさないでください」
倉田学:「変だなぁー」
この二人のやり取りを見たお客さんは、この二人がまるで恋人であるかのように見えただろう。そしてこの時の学も彩も、とてもこの空間と二人の距離感が心地よく、自分の素の姿を出せるそんな場所だったのだ。少しして、若いお店の店員さんが注文を取りに来た。
店員さん:「『喫茶キャッツ♡あい』へようこそ。ご注文はお決まりでしょうか?」
木下彩:「えぇーと、わたしホットミルクティー。倉田さんは?」
倉田学:「僕はブレンドコーヒーで」
店員さん:「あい、ご注文は以上で宜しいですか?」
倉田学:「木下さん。僕がご馳走するからケーキも食べていいよ」
木下彩:「本当ですか?! やったー、じゃあマロンケーキで」
店員さん:「あい、ではケーキセットになりますね。あい、かしこまりました」
木下彩:「店員さん、『あい』だって! 倉田さん、面白いねぇー」
倉田学:「あい!」
木下彩:「倉田さんまで、倉田さんって面白いひとだったんですね」
倉田学:「あい!」
こうして二人は喫茶店で19時近くまでお茶をしたのだ。そしてじゅん子ママが待つ『銀座クラブ マッド』へと向かった。
倉田学:「こんばんは倉田です。じゅん子さんはいらっしゃいますか?」
若いホステス:「はい、ちょっとお待ちください」
木下彩:「倉田さん、わたしお店の中に行くからね」
じゅん子ママ:「あら倉田さん、お待ちしていました」
倉田学:「こんばんはじゅん子さん。宜しくお願いします」
少しして彩が学とじゅん子ママの元に姿を現しお辞儀をした。それを観たじゅん子ママは二人にこう言ったのだ。
じゅん子ママ:「さっき、うちのお店の若い子から聴いたんだけど…。今日も彩ちゃん、倉田さんと同伴して来たんだって?」
木下彩:「あい!」
じゅん子ママ:「彩ちゃん、その『あい』って何なのよ。ねぇー、倉田さん?」
倉田学:「あい!」
じゅん子ママ:「おかしなふたり。で、同伴で何かいいことでもあったの?」
木下彩:「あい!」
倉田学:「あい!」
じゅん子ママ:「ふーん。良かったわね彩ちゃん、倉田さん」
こうして二人は別れ、学とじゅん子ママは何時もの部屋でカウンセリングが始まった。
じゅん子ママ:「倉田さん。宜しくお願いします」
倉田学:「こちらこそ。今日はもう一度、地下鉄サリン事件(オーム真理教)の時に遡って、当時の状況を再現してみましょう。そして前回のときと今回で違いがあるか、またじゅん子さんの様子を確認させて頂きたいと思います」
じゅん子ママ:「また、あの当時の出来事を振り返るのですね。わたし大丈夫かしら?」
倉田学:「その為に僕が傍についているんですよ。何か問題があれば、いつでも僕が助けに入ります」
じゅん子ママ:「わかりました。その当時を振り返ってみます」
そしてしばらくすると、じゅん子ママの苦しそうな表情を観ることが出来たのだ。学はすかさず、じゅん子ママに問い掛けたのだった。
倉田学:「いま何が見えますか?」
じゅん子ママ:「ひとがたくさん倒れていて、叫び声やうめき声があちこちから、そして人波に押されホームに倒れ込むひとも」
倉田学:「その時、あなたは何をしていますか?」
じゅん子ママ:「ハンカチを口にあてて、呼吸が苦しくて。それからは良く覚えていません」
倉田学:「大丈夫です、今あなたは安全な場所にいます。そして呼吸をしても楽にできます。ゆっくり深呼吸してみましょう」
倉田学: 「吸ってー吐いてー、吸ってー吐いてー」
じゅん子ママ:「吸ってー吐いてー、吸ってー吐いてー」
倉田学:「そうです。普通に呼吸しても苦しくありませんよね。あなたはもう昔のあなたではありません。今こうして普通に呼吸もできるし、幸せに生きています。過去の自分を受け入れ、そしてそれが今の自分の幸せに結びつくのです。さあ、過去の辛い経験をした自分をたたえ、受け入れることはできますか?」
じゅん子ママ:「少しは…。でも、その経験を受け入れることが怖いです」
倉田学:「全てを受け入れる必要はありません。自分のペースで少しずつ受け入れて行きましょう」
じゅん子ママ:「はい、わかりました」
こうして学とじゅん子ママのカウンセリングは終わったのであった。そして次回のカウンセリングを10月19日(月)の19時からで約束し、学は店を後にしたのだ。
帰りに彩とお茶をしたお店『喫茶キャッツ♡あい』を覗いたら、お店の店員がお店を閉めようとしていた。学は店員にケーキの持ち帰りが出来るか訊いてみた。そして売れ残ったたったひとつのケーキを買って、家へと帰ることにしたのだ。
お店を出た学は、お店の前にある大きな猫の置物に向かって「あい」って呼び掛けてみた。何だかとても温かいものが、学の中に湧き出てきた感じがしたのだ。何だかとても懐かしい、そしてこころ温まるそんな時代にタイムスリップしたかのような、懐かしく嬉しい気持ちでいっぱいになった。そして家に着き、学は売れ残ったマロンケーキをひとりで食べたのだった。
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