prologue

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 額に玉のような汗が滲む八月二十一日。制服に袖を通し、慣れない革靴のかかとに痛みを覚えながら地面を踏みしめた。


「なんか、信じられねぇよな。また普通に、夏休み終わって学校で会うもんだと思ってたからさ」


 半月ぶりに会った苗木なえきが、茶色の短髪をくしゃりと触ってため息を吐く。僕も同じ気持ちだ。まだ心の整理が出来ていない。

 担任である日南ひなみすみれの葬儀は、親族と学校関係者に見守られて密やかに終わりを迎えた。

 母親による喪主もしゅの挨拶で、『娘は生徒に一番近い教師だった』という文章があった通り、菫ちゃんと呼び名でしたっていた生徒も少なくない。


 鼻をすする音や嗚咽おえつを交えた声を上げる女子の横で、僕は複雑な表情を浮かべる。

 もちろん悲しみもあるけど、それより戸惑いが大きいかもしれない。

 日南菫が亡くなった実感が湧いていないのと、あの日、僕に告げた言葉はまやかしなどではなかったのだと、身に染みて思い知らされたからだ。


 蒸し暑さが落ち着き始めた夕方。僕たちの心とは対照的に、まだ明るさを残す空は清々すがすがしささえ感じた。

 日南先生の亡骸なきがらにお焼香を上げて、しっかりとした足取りで家路に着く。

 人の死に対してむなしさというか、あまりにあっけなく終わるものだと実感させられた。

 何も食べていないはずの喉に何か詰まっているような、気持ちの悪い違和感を感じる。


 肉体的にも精神的にも疲れていたのか、風呂を出てから何もしないで、すぐにベッドへ入った。

 右、左、また右へと寝返りを打つ。暑苦しさと胸焼けのような苦しさに襲われて、なかなか眠りに付けない。


 高校二年の時に転任して来た日南ひなみ先生は、美術教師であるため授業を選択していない僕は接点がなかった。だから、担任になった時、どんな人なのかよく知らなかった。

 思い出すのは、三年に進級したばかりの四月。嫌味なくらい空気が気持ち良かった天色あまいろの空の下。胸あたりの高さまであるフェンスに、腰を下ろしているところ。


「直江くん、君の生きる時間を私にちょうだい?」


 恋愛映画のプロポーズみたいな台詞を浴びせられて、僕の思考は数秒停止した。

 笑ってスルーしたけれど、日南先生の表情は至って真面目で、頭のネジが取れているとしか思えなかった。

 生徒相手に、この教師は何を言っているのだと。


 放課後、生徒指導室へ呼び出されたこともあった。

 普段と変わらない穏やかな表情で、日南先生が差し出したのは進路調査の紙。記入するのを忘れたのかと、真っ先に希望欄へ視線を落とした。

 違う、ちゃんと書いてある。

 今にも浮き出しそうな〝四乃森しのもり歯科大学〟という文字が、第一志望の横に礼儀正しく並んでいる。


「直江くんは、将来歯科医師になるのが夢なのね」

「夢、というのか分からないけど、そのつもりです。もう、小学生の頃から、ずっと」

「そう、凄い意思ね。先生なんて、高校生になっても将来のこと迷っていたのに」

「悩む選択肢は、なかったです」


 一番古い歯科医院での記憶は、小学三年生。消毒液や薬品の独特な匂いに緊張しながら、ただひたすらに口を開け続けた。

 手には汗と拳を強く握り締め、目を固く閉じていたから、治療中は目の前にどんな光景が広がっていたのかは分からない。

 でも、終わった瞬間に飛び込んで来た父の笑顔は、一生忘れないと思う。

 あの時、気付いたんだ。恐怖と忍耐から解放されたあとに残るのは〝無〟なのだと。

 進路調査の紙を眺めながら、日南先生は静かに唇を開く。


「直江くんが継いでくれるから、きっと、親御さん喜んでくれてるのね」

「……はい」


 この拭い切れない違和感はなんだろう。

 掴んでも掴んでも口に入った髪の毛が取れないもどかしさのような、歯切れの悪い前置きを聞かされている感覚は。

 そうだ、呼び出された理由だ。

 こんな世間話をするために、僕の前に座っているとは思えない。彼女は何を、確認したいのか。


 チクタク、チクタク。

 時計の秒針だけが空間に音を鳴らしている。時を刻む音と合わせるように、呼吸が浅くなる。

 これ以上、無意味な沈黙に耐えられない。


「あの……先生。特に何もないなら、もう帰っていいですか?」


 立ち上がろうとすると、唇を震わせた彼女が何かを呟いた。


「えっ? なんですか?」


 あまりに小さな声だったから、反射的に聞き返していた。


「直江くんは、何をしてる時が一番楽しいの?」


 彼女は数秒前と違う言葉を選んだ。

 だから、僕は少し動揺しながら、ふと頭に浮かび上がった文字を口から出した。


「勉強してる時です」


 率直な言葉だった。

 昔から、趣味は勉強だと挨拶代わりに言ってきた。言い聞かせて来た部分も大いにある。

 用意していた返答でもあったのか、彼女はなんと答えようか戸惑っているように見えた。

「そう、それは模範回答ね」と笑った日南先生の目は、期待で出来上がっていた城を崩された色をしていた。


 生徒指導室のドアを閉めて、誰もいない廊下に立ち尽くす。

 彼女が最初に漏らした声は、「いつなの?」だった。さっきの状況からは話が繋がらないため、ただの独り言だったのかもしれない。

 なぜか、切なそうに眉や唇を歪ゆがめていた彼女の表情が脳裏にこびり付いて、校舎を出てもしばらく離れなかった。


 それから度々、日南先生は屋上へやって来ては、僕の右腕を掴んだ。もちろん、フェンスに腰掛ける僕が落ちないようにするため。


「どうして先生は、いつも屋上ここに来るんですか?」


 自由な足がゆらゆらと動く。少しでもバランスを崩せば、命綱のない僕は約二十メートル下の地面に叩き付けられて仏となるだろう。

 足がつかないジェットコースターと同じで、緊張しても怖いと思ったことは一度もなかった。

 生きることに、それほど執着がなかったのかもしれない。


「ふらっと消えちゃいそうだから。この手を掴んでないと、奪われちゃうでしょ? この綺麗な青空に」


 身投げしないか見張っていると、はっきり言えばいいじゃないか。


「先生ね、もうすぐ死んじゃうの。だから、直江くんと……みんなと、出来るだけ一緒にいたいのよ」

「……死ぬ?」

「上手く言えないけど、最近持病……みたいなものが悪化しててね。あっ、このことは誰にも内緒よ。直江くんと先生だけの、ふたりだけの秘密ね」


 人差し指を唇の前で立てて、日南先生は微笑んでいた。

 向日葵のように明るい表情をしていたからなのか、彼女と死を結びつけることが、どうしても出来なかった。


 ゆらゆら、ふわふわ。しばらくして、体中が冷んやりした空気に包まれるような心地よさで目を覚ました。どうやら知らないうちに眠っていたらしい。

 体が浮くように軽くて、子猫ほどの体重もないような感覚。

 見渡す限りに広がる青い空は、ずっと幻想を抱いていた世界に似ている気がした。

 ここは見慣れた学校の屋上であるはずなのに、目の前にある景色はあちら側の世界にいるように美しい。青に滲むピンクや黄色、紫の絵の具は、空の涙になったように水を含んで地上へと降り注いでいる。


 これは、夢の中での出来事なのだろうか。


「こんな雨が降るなんて、すごく綺麗だね」


 驚いて隣を向く。自分だけが佇んでいると思っていたのに、突然人が現れたからだ。


 ーーこの子は、誰だ?


 茶色く柔らかな肩丈の髪をした女の子。同じ結芽岬ゆめみさき高校の制服を着ているから、おそらくここの生徒なのだろう。

 その子は僕が座るフェンスに足を掛けると、綱渡りをするかのように、幅の狭い鉄格子てつごうしの上に立つ。


「えっ、ちょっと、危ない……」


 言いかけた言葉は小さく空へ消えて行く。

 夢なのだから、まあいいか。そんな気持ちが胸の中に沸いたからだ。


「これって、夢なのかな?」

「えっ?」

「君の夢、それとも、私の夢どっちかな?」

「さあ、どっちもなんじゃない」

「ふふっ、それって一緒に同じ夢を見てるってこと? すごく素敵な回答だね」


 次の拍子に、彼女の体がくらっと揺れた。

 あっ、落ちる!

 現実でないと頭では思いながら、衝動的に伸ばした手。だけど、次の瞬間には僕の手を引っ張る女の子の姿が、空を背景にして飛び込んで来た。

 フェンス越しに必死に引き上げようとする彼女と、今にも落下しそうな僕。

 いつの間に状況が反転してしまったのか。

 理解するよりも先に、汗ばんだ指先が滑るように離れた。

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