第54話

 月曜の朝のこと──。


「昨日来たんですか!?」


 私を見るなり圭ちゃんはそう言ってニヤッと笑った。挨拶代りの声にすぐ私はタバコの吸い殻を連想したが、わざわざ口に出すこともせず、引っ越しを始めとした日曜の行動を話して聞かせた。気を遣わせまいとしたのか、一晩という時間を過ごしたからか、私の口調はさばさばとして明るかった。圭ちゃんとしても多少それで気持ちは紛れたのかもしれない。


「───誰も居ない家ってのも寂しいもんですね」


「まぁな。ひっそりしてて、妙に広々しててさ!」


 私は昨日見た光景をそのまま笑い話に置き換えて話した。


「───あそこも売りに出すようかな~!?」

「・・・・やっぱり住み辛いですかね!?」


「フッ‥。世間体もあるからな~!しばらくはアパートか何かに住むよ」


 例え家族の香りが失せたとしても、思い出という記憶までは消し去ることは出来ない。またそれを断ち切ることによって私は新たなスタートが切れるのだとも思った。


 結局、それ以降は圭ちゃんも私もその話題を口に出すことはなく、いつものように今日の予定である仕事を淡々とこなして行った。夕方───。


「───打ち合わせ!?」

「ええ。でも片付けてからでも間に合いますから!」


「何言ってんだよ!あとは俺がやるから、早く行ってやれ!」


 たまたま耳にした言葉から、圭ちゃんをけしかけるように送り出し、笑いながら再びピットに向かって歩き始めた私は、


「あれ!?忘れてっちゃったよ」


 と、カウンターの上に置かれたポップに足を止める。それは今日の午後、浅利が自ら作ったと言って持参したものだった。


「出来は悪くね~んだけどな~」


 水曜から売り出される新商品の広告はそれなりには良く出来ていると思った。しかし、店内のすべてを手掛ける自称ポップ職人の圭ちゃんには、ダメ出しの対象にしかならなかったようで、明日までに新しく作成するポップの原案としてそれを持ち返ることになっていたのである。相手が式の打ち合わせでは無理もない。私は誰も責めぬと言った笑みで仕事の後始末を続けるのだった。


 サニーは行く途中で引き取ればいいと、予め自動車屋には六時頃に行くと連絡しておいた。片付けが多少手間取ったこともあって、恵理香のところへは七時十分頃に到着したのだが、部屋に向かって歩き始めた私はふと首を傾げた。いつものコーポの隅に灯っている明かりが無いのである。駐車場には確かにラシーンは止まっていた。あるいは姉と食事にでも出たのかと、すぐに携帯に掛けるが聞こえるのは呼び出し音だけ。そこで不意に頭を擡げたのが、具合が悪くて寝ているのではないかということだった。ただそれが薬の影響と結び付いてしまったのだろう。ゆったりとした足取りは次第に早くなり、扉の前に立つのとチャイムを押すのはほとんど同時だった。



 ピンポ~ン♪・・・・ピンポ~ン♪・・・・。


 チャイムの余韻の後でドアを数回ノックし、


「恵理香!?・・・・」


 と、やや控え目に名前も呼んでみるが、応答らしき声は何も返ってこない。ならばともう一度携帯を取り出した時である。鍵を開けたと思われる音に私は視線を向ける。



 居るじゃないか───。


 僅かな音にホッと表情を緩めたものの、今度はいつまで経っても開く気配のない扉に、私は疑問そうな顔でしばし立ち尽くしていた。気を取り直して気配を伺うかにゆっくり扉を引くと、通路の明かりが徐々に部屋の内部を照らし始め、見覚えのある暮らしが様々な色を取り戻して行った。目を凝らしながらドアを半分ほど開けた時だったろうか。


 恵理香らしき人影が視線の先に映し出された。


 光の届きにくい隅の方に立ち、恵理香はじっとこちらを見ている。はっきりと顔など見えなかったが、ただならぬ雰囲気だけは十分に伝わった。足を踏み入れて扉を閉めると目の前に映るすべてのものが形と色を失った。



「・・・・居ないんかと思っちゃったよ」


 暗がりに包まれてからようやく私は口を開いた。恵理香は黙ったままだった。


「ちょっと寒くないか?」


 外とあまり変わらぬ温度に思わず声を上げた時、



「嘘つき‥」


 と、突然、恵理香が冷ややかに呟いた。


 呆気に取られる私に恵理香はまた同じ台詞を繰り返した。



「嘘つきって!?・・・・何のことだか!?」


「惚けないでよ‥」


 暗がりの先に居るのは本当に恵理香なのか。ついそう思わざるを得ないほど、恵理香の口調は冷たく凍り付いていた。


「いや、惚けるも何も!?・・・・」


「離婚したって言ったじゃない‥」


 恵理香の静かな声は独り言のようにも聞こえた。


「ああ‥‥言ったよ。それは嘘じゃない」




「‥この前、気晴らしにウインドショッピングでもすればって・・・・島さんに勧められたでしょ?・・・・」


 土曜日の帰り際、確かに私はそう言って恵理香を元気づけた。


「だから私・・・・思い切って出掛けてみたの・・・・そうしたら───」


「そうしたら!?」


「見ちゃったの・・・・」


「見た!?」


「『レインボー』で・・・・」



「!?」


 円満この上ない真由美との光景が瞬時に頭を過った。その直後スーッと血の気が引くのがわかった。


「・・・・騙してたのね」


「いや・・・・あれは・・・・ほら‥」


 説明しようとしたその時である。身体に強い衝撃を受けた私はそのままよろけるように壁にぶち当たった。一瞬の出来事で面くらいはしたが、即座に『レインボー』のことを怒って恵理香が体当たりをして来たのだと、私は強く恵理香の肩を抱きしめた。


 しかし、穏やかな私の顔はすぐに一転した。


 意識のすべてが一カ所に向くに従って、私の身体は熱を帯びたように火照り出し、何か味わったことのない感覚が脳に伝わり始めた。泣きながら崩れ落ちる恵理香の声を耳にした時、私は直感的に悪い事態になったと頭を白くさせた。絞り上げられる痛みに耐えながら、本源となる部分に恐る恐る手を運ぶと、コツンと何かの柄のようなものが触れた。


 夢だとも思った。恵理香の悲痛なまでの声が頭に木霊した。



「恵理香!・・・・電気!?・・・・電気を点けてくれ!」


 声を絞り出しながら私も壁をまさぐった。


 探し当てたスイッチで明かりを灯すと、強烈な光が私の視界を奪った。その数秒後、目の前にペタリと座り込んだ恵理香が映し出された。



「わ‥私・・・・何を!?」


 痛ましい姿に恵理香は改めて驚きを露わにしたが、私にはそれが正気に戻った瞬間にも見えた。



「は‥早くお医者さんに!」


「ああ‥いや、行くのは・・・・」


「じゃ・・・・救急車!?」


 あたふたと電話を取りに向かう恵理香を制止すると、


「だって‥駄目よ~!そのままじゃっ・・・・」


 と、恵理香は私の側に駆け寄って涙をポロポロ落とした。


「わかってる!だけどここに呼ぶわけにはいかねぇだろ!」


「いかないって!?・・・・どうしてよ!」


「馬鹿野郎っ!そうなったら俺達の結婚はどうなるんだ!?」


 と、私は空いた手で恵理香の肩を強く揺らした。


「・・・・結婚!?」


「結婚するんだろ?」


 泣きながら恵理香はうんうんと頭を揺らした。私とてまさかこんな時に打ち明けるとは思ってもみなかった。


「だったら、ここに呼べない理由もわかるな?」


 恵理香は私の言葉にまた大粒の涙を零した。そこで私は咄嗟に思いついた考えを伝えた。


「ああ、だから恵理香は何もなかったようにしていろ」

「でも、そのままじゃ・・・・」


「そ・・そうだな・・・・」


 と、大きめのタオルを用意させた私は、それを宛がうようにして息を止める。そして握り締めた右手をゆっくりと手前に引き始めた。柄が離れるにつれ再び私の身体に激痛が走った。その光景に恵理香はわなわなと震え顔を左右に振った。


 抜き終えるなり私は大きく息を吐き出した。果物包丁は熟したトマトでも切ったかのようで、心臓のポンプがドクドクと脈打つのを感じた。タオルで押さえた傷口をブルゾンで隠すと、私は手にした包丁を流しに運んだ。


「あとで・・・・洗っといてくれ」


 恵理香は小さな声で応えた。



「そうだ・・・・日曜に『レインボー』に行ったのは───」


 ここを出る前に誤解を解いておこうと、私は懸命に穏やかな表情を繕った。


「子供たちに!?・・・・そんな・・・・」


 恵理香は私の言葉に改めて崩れ落ちた。


「もう良いって!それに思ってたより・・・・大したことなさそうだから・・・・」


「し‥島さんっ!・・・・早くっ!」


「いいか!何も無かったんだぞ」


 言い聞かせるようにして部屋を出たものの、実際この痛みは尋常ではなく、店に辿り着く前に医者に飛び込みたかった。厚手のトレーナーとその下の肌着が血を吸い込んでいるのか、滴るほどの出血は無かったが、運転するのもままならぬほど私の顔は苦痛で歪んだ。


 恵理香との結婚。私を支えていたのはその言葉だけだった。


 なんとか店に着くと早々にシャッターを押し上げピットへと急いだ。目に付いた工具を手に取り血を付着させる。ブルゾンの下の白かったタオルは既に赤い染物が施され、私の手は絵の具遊びでもした子供の手のようになっていた。



 どこで間違えたんだ・・・・・・。


 打ちのめされたようにズルズルと座り込んだ私は、タバコに火を点け恵理香との思い出を辿り始める。おかしくもないのに笑いが込み上げ、悲しくもないのに涙が零れ落ち、その中に楽しげに笑う恵理香が幾度も映し出された。


「そうだ・・・・電話を・・・・」



 携帯を取り出そうと思うのがやっとで、長くなった灰も落とせぬほど、私の身体に力は残されていなかった。

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