第43話

 恵理香のところへ・・・・いや、今夜は真っすぐ・・・・。


 その日の夕方、圭ちゃんを送り出すと、私は一人思案に暮れていた。タバコの煙を吐き出しては、ぼんやりと店内に漂う煙を眺めている。埒があかないとわかっていても他にすることがないのか、知らぬ間に灰皿は吸い殻で溢れ、時間だけが悪戯に過ぎて行く。


 とにかく腰が重かった。いっそのこと今日はここで・・・・。


 半ば開き直ったかに出た案とは言え多少気が紛れたのだろう。ようやく腰を上げると足を引きずるように窓へと向かった。やがて白く煙る水銀灯が瞳に映し出された。


「雨か・・・・」


 ポツリ呟いた後で私はいつもと違う朝を回想した。ドタバタするほど慌ただしい光景から、コンビニで調整しなければならない早朝という時間。そして圭ちゃんとの朝のやり取りまで頭に巡らせると、私は突然クスクスと肩を揺らし笑い始める。実際は何がおかしいのか自分でもわからなかった。あるいはもうじき笑えなくなることを薄々感じていたのかもしれない。


 意を決するかに自宅に向けて走り出せば、秋の雨がヘッドライトを冷たく遮り、なぜか心まで濡らして行く気がする。不吉な予感とでもいうのか、アクセルを踏む足が妙に重く感じてならなかった。


 それから数時間後───。


 とある公園のブランコに私は一人佇んでいた。何をするわけでもなく、ただしとしとと降り注ぐ雨に打たれている。冷たいとか、ここがどこの公園であるとかは、意識の片隅にも存在していないほど、今の私は何かを考えるという動作を放棄してしまっている。


 絶望と言うよりは無気力に近い状態だろう。



───「あら!?今日はお帰りが早いのね」


 案の定、私に対する真由美の第一声は皮肉たっぷりだった。もちろん、それは予想範囲のことと顔色も変えず振る舞うが、これからどんな展開になるのか考えると、まともに顔を合わせることが出来ない。後ろめたさよりは、不安と緊張の織り混ざった独特の空気が、私の足を一段と重くさせるのだ。ここが慣れ親しんだ自分の家かとも思えた。


 そんな私を真由美は二階へと呼び寄せる。すぐに子供に聞かれたくない話であることを察した。部屋に入るなり真由美は静かに口を開いた。


 下の子供に配慮してか、口調は至って落ち着いている。私はじっと黙ったまま、真由美の言葉に耳を傾けていた。それはある面、最終通告とも取れる台詞でもあった。


 言葉が途切れた瞬間、急に近くに居る真由美との距離がスーッと空いたように感じ、私は徐に顔を上げる。すると、真由美は無言のまま一枚の薄い用紙を差し出した。


 白地の中に赤い色が怖いほど鮮やかに映っている。・・・・ついに来たか。


 これが率直な感想で特に驚きもなかった。恐らくいつの頃からか頭の片隅にこんなシナリオが少なからずあったのだろうと、私は黙って用紙に手を伸ばす。重さも無いほどの薄い紙切れが厚く、そしてずしりと重く感じた。それから間もなく、私は再び雨の中へと車を繰り出した。


 どこをどう走ったのか定かでないが、気が付くと『ナポリ』のカウンターに腰を落ち着けていた。何を話す訳でもなく、ただタバコをプカリと吹かしては、注文もせずに出されたコーヒーを口に運んでいる。思えば、店の扉を開けてから、マスターと私は声一つ交わしていない。意志の疎通とでもいうのか、こんな店は苦労してでも探しておくものだと思った。窓際に居た客が立ち去ると、マスターは外の看板を店内にしまい込み、


「──そういや、島さんとの付き合いも長くなったね」


 と、思い出したように口を開いた。


「え!?あ~・・・・そうですね」


 私もしばらく振りともいえる声を発した。


「よく覚えてるよ。土砂降りの晩だったっけ」

「フッ・・圭ちゃんとね」


「そう!も~二人ともずぶ濡れで、おまけに顔中ボコボコでさ~」


 マスターの言葉に私は照れ笑いを浮かべた。


「いきなりそんな客が来たんだから、びっくりしたでしょうね?・・・・普通だったらあれこれ訊くんだろうけど、マスターはただ黙ってコーヒーを淹れてくれて──」


「訊けなかったんだろ・・・・あんまり凄かったんで」


「フッ・・確かに。でもそれからしばらくして来た時、ケンカだったんかいってマスターに訊かれたじゃないですか?あの時のマスターの声は心に沁みましたよ──」


 そう言って私は遠く過ぎ去った昔を思い浮かべた。


 人助けで一肌脱いだとはいえ、もともと当事者でない自分たちが、なんでそこまでと思った。結局、理由なんてなかったのかもしれない。


「若いときのケンカなんてそんなもんなんだよ。それに二人が行ったお陰で結果的には良かったみだいだしさ。ま~うちにとってもか。フッ・・未だに顔見せてくれるよ」


「川畑!?」

「そう!忘れた頃にだけど」


「そう・・たまには会いてぇな」

「今度話しておくよ。でも世の中何がどうなるかわからないもんだね。助けてやった奴の兄貴が隣の会社の社長ってんだから──」


 もっともだという笑みを漏らす私に、


「なんか同じ顔してるんだよな~」

 と、マスターは熱いコーヒーを差し出す。


「え!?」


 私は驚いたようにマスターを見上げた。


「あの夜と今の島さんさ」

「顔!?」


「あ~、もっともあの日の顔は今と比べ物にならないほど凄かったけどね。雰囲気とでも言うのかな~」


「・・・・」


「何か悩んでるかどうかってことくらい、付き合いも長いんでね。ま~力になれるかはわからないけど、何か零すことによって楽になることもあるだろうし」


 私は軽く頭を下げ、コーヒーを口に運んだ。喉から流れ落ちるコーヒーが心にまで届く気さえした。やがて、笑って店を後にする私だったが、足を一歩踏み出すと、すぐに現実に包み込まれた。目の前に次々と現れる雨に煙った交差点のように、真由美や恵理香の行く末が交錯し、それに輪を掛けて圭ちゃんに隠し続けるウソが私を苦しめた。


 マスターの優しさも然りである。


 代わる代わる変化して行くシグナルに、自分の進むべき道をダブらせるが、赤なのか青なのか答えは一向に見出せない。どこまで行ってもそれは同じで、走ることが無意味に思え始めた時、私の目に見知らぬ公園が映し出され、夢遊病者のように歩み寄った後は、何もせずただ腰を降ろし時を刻んだ。小雨とは言え、既に髪も衣服も肌に重々しく張り付いている。無論、そんなことすらも今の私には気にも止まらなかった。



 ──ピンポーン♪


 ようやく腰を上げたところで、他に行くところなど無かったのだろう。ずぶ濡れのまま車を走らせると、私は恵理香の部屋の前に立っていた。扉はすぐに開き、驚いた恵理香が私を慌てて招き入れる。タオルを抱えて舞い戻る間にも、畳み半分にも満たない小さなスペースには雨水が滴り続けた。懸命にタオルを動かしながら、恵理香はあれこれ問いかけたが、その言葉の大半は耳から耳で私はほとんど等身大の人形に近かった。


 引っ張られるようにユニットバスに連れられ、細い腕に力を入れ私の肌に張り付いた服を脱がせると、恵理香はシャワーのコックを勢いよく捻る。お湯を全身に浴びることで、私は徐々に人間らしさを取り戻し、ふと急にそれまでの寒さを感じ震えたりするのだった。


 そんな私に恵理香は身を寄せる。何も纏わない女性の肌の温もりが背後から私の身体に伝わった。


「こんなの買ったんだ」


 男物のTシャツと下着を身につけた後、私はポツリと口を開いた。


「・・ええ。いつかこんな日が来るんじゃないかって思ってたから」

「こんな日!?・・・・」


 そう言ってキッチンに居る恵理香に目をやると、


「ええ。こんな日よ」


 と、マグカップに注がれたコーヒーを持って現れる。


「それに・・さっきまでの服は着られないでしょ?」

「フッ・・用意が良いんだな」


「そうよ」


 と、恵理香は得意そうに笑みを浮かべた。


 コーヒーはインスタントだったが、その味と温かさは『ナポリ』にも劣らないと思えた。二度三度と口に運んだ頃、恵理香は改めてずぶ濡れになった理由を尋ねた。


「あ~・・・・それ・・・・」


 はっきりした理由は自分でもわからなかった。口籠もった返事はまさにその象徴だろう。


「ま~いろいろあって・・・・というか」


 何か話さなければと口を開いたものの、所詮気の利いた答えには程遠かった。

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