第40話

「そうそう。ご飯はどうします?家で?それとも──」


「フッ・・今夜はどうせすぐには帰れないと思ったし、水月さんもそのつもりだったんだろ!?」


 そう言うなり私はメニューを催促しようと振り向いた。


「ね!?お店を変えません?なんとなく気分も変えたいし」

「それも・・そうだね」


 込み入った話の後だ。私もその意見に賛同するとばかりに、伝票を手に足早に席を立った。


「──ごめんなさいね。お呼びだてしたのは私の方なのに」

「良いよ。そんなこと」


「おまけに車までお願いしちゃったりして、厚かましい女よね」

「でも珍しいね。用意周到の水月さんがガソリンが無いなんて。ま~、二台で連んで行っても何かと面倒だから構わないけど」


「嫌ね~、用意周到だなんて──」


 これも言うなれば慣れの一つだろうか。こうして姉と一つの車で移動することに、少なからず違和感を覚えなくなって来ている。姉から漂う香りもしかりだ。


「でもそれじゃ悪いから、食事の方は私が払いますから──」


「フッ・・良いって。・・・・あとで身体で払ってもらえば」



「!?・・・・」



 ただ慣れというのも時には怖い。店内で見せた挑発的な態度のお返しと、軽い冗談のつもりで言ったのだが、懲らしめるにしては言葉が過ぎたようだ。


 一変した冷ややかな空気に後悔したところで、隣の姉からは動揺が犇々と伝わって来る。


「フッ・・ちょっと冗談にしちゃ、きつかったかな!?」

「そうね・・・・」


「ま、いつも苛められてるから、たまにはこんな冗談もと思ったんだけど──。反省するよ。さ~て、どこへ行きますか?」


 気分を新たに笑ってみせると、姉も気持ちを切り替えたのか、


「お任せしますわ。何でしたらシャワーのあるところでも結構よ!!」


 と、変わりつつある空気をまた一変させる。これには思わず私も声を上げて笑った。控えめながら姉も笑いを振り撒いた。これで異様な空気は一掃された。


 そう思ったのもつかの間、なぜかそれからの会話は途絶え、静寂にも似た空気が新たに漂い始めた。とは言え、どちらかの声ですぐに消え去るほどの、自然な重さにしか感じなかったため、私はフロントガラスの景色に行き先をダブらせていた。


 先に口を開いたのは姉の方だった。


「でも・・驚いたわ」

「あ~、さっきの!?」


「誤解されるわよ。いつも女性にあんなこと言ってるのかなって」

「フッ・・その後のやつもけっこう負けてなかったけどな」


「それはお返しで言ったまでよ。でも考えたら冗談を真に受ける方が馬鹿よね」

「いや~。いきなり言われりゃ誰だって驚くだろ?」


「ううん。どうせ女になんか見られてないってことくらいわかってるから」

「・・・・そんなこと」


「いいの・・やめて。下手な気休めは却って惨めになるわ」

「・・・・・・」


 哀れな自分をさらけ出すかの口調に、私は次第に言葉を失って行った。どこか冷ややかだったのは、同情心に苛立ちが同居していたからだろう。


「それに・・こんな性格でしょ。男をいたぶって楽しんでるような女じゃ駄目よね。いくらこんな格好して見せたって──」


 否定も肯定もせず、ただ私は黙ってハンドルを操っていた。あるいはそうすることで自分を押さえ込んでいたのかもしれない。


「ハッ・・島田さんだって、どうせそんな目で見てるんでしょ?」


 目指していた店を通り過ぎた瞬間、私の手は俄に汗ばみ始めた。


「ねっ?そんなに私って魅力ないかしら?」


 それはこれから起きることが頭の中に広がり始めたからに違いない。賑う街並みがミラーの中へと消え去り、視界に映る明かりが疎らになると、姉のお喋りはピタリと止んだ。それでも静まった空間からは不安という色は感じられない。恐らく、黙りを決め込む私に話すのが無駄に思えたのだろう。


 橋の明かりが目の前に浮かび上がっても、姉の態度に変化は見られなかったが、車が脇道へ向かって下り始めると、さすがに不思議に思ったのか、



「・・・・どこへ行くんです!?」


 と、やや不安そうに私を見つめる。私は無言のままだった。


 河川敷へと続く道は悪路そのもので、船でも乗ってるかのように、車が上下に激しく揺れた。跳びはねる身体をシートに抑えつつ、ヘッドライトの明かりに照らされた雑木林の中を、私は右に左に突き進んだ。無論、自分でも目指している場所などわからなかった。


 時折、河原の石が床を激しく打ち鳴らし、轍の中央に生えた雑草が次々と足元を通過して行く。エンジン音が途絶えたのは、橋の全景が視界に収まり始めた頃だった。


 すぐにヘッドライトとエンジンを止めた私は、暗がりの中で続けざまに二つのシートベルトを外し、覆いかぶさるように助手席に足を踏み入れた。シートのレバーを引く寸前に見た、姉の目は恐怖で脅えていた。



「な・・なに!?・・」


 シートが倒れ込んだ瞬間、車内には悲鳴とも取れる声が響いた。



「いや~っ!!」


 足をばたつかせながら激しく抵抗する姉を力づくで押さえ込むと、私は徐々に顔を寄せて行く。顔を左右に揺らし必死に逃れようとする姉。車内はまさに修羅場と化していた。


 もちろん、唇を奪うつもりなど毛頭なかったので、ものの数分で私は車から降りたが、既に力尽きたかの姉はすすり泣いていた。

 吹き抜ける風の中で、悪びれた様子も見せずに、何度となくライターの火を灯していると、姉の声が背後から聞こえた。



「・・・・けだものね・・・・妹に飽き足らず私までこんな──」


「・・・・・・」


 思惑どおりの台詞を耳にしつつ、私は話すタイミングを計っていた。そんな互いの声を妨げまいとしたからこそ、降りる時にわざわざ窓を開けたのである。


「恵理香もどうせそうだったんでしょ!?」


「・・・・・・」


「いいわ!そんなことどうでも・・・・このことをすべてあの子に打ち明けるから」


「フッ・・してやったりってとこだろうな?」


「!?・・・・・・」


 暗くて表情こそは見えなかったが、振り返って呟く私の目には姉の動揺する姿がありありと映し出されていた。


「な・・なんのこと!?」


「いまさら惚けなくてもいいだろ。こんなことになれば、別れさせるいい口実になるってことくらい俺にだってわかるからね」


「・・・・・・」


「ま、誘惑したまでは良かったけど、さすがに好きでもない男に抱かれるのは無理だったってとこかな」


「それは・・・・いきなりだったから・・・・」


「フッ・・だからこんな場所を選んだんだよ。ここなら向かってる途中に心の準備なんかも出来ないだろうからね」


「・・・・・・」


 姉は視線を落とすように頭を傾けた。


「言いたければ・・・・言えばいいさ」


 しみじみした口調で呟くと、姉は乱れた衣服を整え始めた。正直そんな光景を見てるのが辛く、つい車に背を向けてはみたが、ふと姉の取った行動も自分がした悪態も、どちらも同じ過ちのような気がしてならず、吐き出す煙にため息が混じるのだった。


 ドアが開いたのはそれから間もなくのことで、姉はゆっくりと私の元へ歩み寄り、


「嫌な人ね」


 と、言って座り込んだ。私は声のする方向に何げに顔を向けた。


「最初から知ってて、態とあんなこと言ったりして」


「いや・・別にそんなつもりじゃ──」


「いいのよ。どうせこんなこと話したって私の言うことなんか信じやしないわ。あの子にはあなたしかたぶん見えてないですもんね」


「・・・・・・」


「それが私には不安でたまらないの。あなたを愛すれば愛するほど、あなたの子供をって思いが強くなって行くんじゃないかって・・・・。もちろん私だって女ですから、好きな人の子供を欲しいと思うのはわからないでもないけど、あの子の場合はね・・・・」


「まぁ・・」


「ううん、それよりももっと怖いのは、あの子、思い立ったら行動に移すところがあるでしょ・・・・・・。だからもし突然歯止めが効かなくなって、妊娠なんて道を選んだりしたらって・・・・・・」


 姉のシルエットは岩のように黒く丸くなった。

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