第17話
七月も終わりかけた土曜日。私は初めて彼女の部屋を訪れた。
外で食事を摂るのもお金が掛かるからと、彼女に言われるまま首を縦に振ったのだが、私の懐を労るのとは別に、手料理を食べさせたいという理由があるように思えた。
「こんな格好で来ちゃった」
約束の八時──。
スーパーの駐車場に迎えに来た彼女は、車から下りるなり照れ臭そうに笑う。普段目にしたことの無いラフな格好に、
「いいんだよ。今夜はどこにも行かないんだから」
と、彼女を労い私はラシーンに乗り移る。そして、そのまま彼女の運転で五分程度走っただろうか。夜で、おまけにやや道が入り組んでいたため、正確な場所は把握出来なかったものの、そのコーポらしき建物に向かって歩き出すと、私の頭の中はすっかり初めて口にする手料理に気が傾いてしまっていた。ある面、それは幸いだったと言えよう。普段なら気になって仕方のない、周りの視線が半分程度に済んだからだ。
割りと新しそうなコーポの一階に、彼女が一人暮らす部屋があった。
招かれ足を踏み入れると、見覚えのあるパンプスや夏物のサンダルが目に留まる。客人が来るからかは別として、玄関にきちんと揃えられている様子に私はつい顔を緩ませた。そんな人目につく場所からでも、大凡きれいにしている部屋が垣間見えたからである。
正直ホッとしたのかもしれない。
「そんなにジロジロ見ないで・・恥ずかしいから」
物珍しい視線を遮るように、彼女は私の口にそっと触れ、
「いただいたお返しですよ」
と、涼しげな目を細める。これには私も出端を挫かれたと、薄いピンクに染まる口元を見つめ立ち尽くしていた。しっとりとした艶やかな色だった。
「おかしい?」
「いや・・良い色だなって・・・・ほら、サンプルっていうか、実際の色って見る暇なかったんでさ──」
いつもと違う勝手にやや戸惑い靴を脱げば、スッと彼女が腰を下ろし揃えてくれる。
「狭いでしょ?」
通された六畳足らずの部屋は、思った通りきれいに片付けられ、既に十分と言うくらい冷やされていた。
「涼しいね~。エアコンも買って付けたんだ?」
「いえ。これは初めから付いてたんですよ。ちょっと待っててくださいね。すぐ支度しますから──」
彼女はそう言いながら可愛らしい花柄のエプロンを纏わせる。
「へぇ~・・あ、ゆっくりでいいよ──」
徐に腰を下ろしながら、春の空のようなカーテンやシングルのベッド。そして小さなテレビと、私はゆっくり彼女の暮らしを目で追って行った。そこへ、
「ホントはビールでも出せると良いんだけど───」
と、冷たい麦茶を持って彼女が現れる。
「フッ・・俺アルコール駄目なんだよ──あれ!?話さなかったっけ?」
「ええ。いつも車だから飲まないんだろうなって」
「そう。もう一杯飲むだけでバタンでさ──」
彼女は意外ともいう表情で、私の話を微笑ましく聞いていた。
「そうそう。厚かましいんだけど、シャワーあったら借りてもいいかな~?昼間汗だくだったんで───」
和やかな雰囲気に汗ばんだ身体が気になり出したのか、それとない口調で彼女に尋ねると、少しして白一色のユニットバスに案内してくれた。
「脱ぐとき気を付けてくださいね」
そして、彼女はやさしく声を掛けそっと自分の唇に指を当てた。楽しそうな顔に気をとられてしまったのか、鏡に向かって笑いを浮かべるまでには少しだけ時間が掛かった。
小さな排水口に全身の汗を流し込み、ズボン一つ履いた格好でユニットバスから出ると、彼女がバスタオルを手に待っていてくれた。
「中、暑かったでしょ?」
「──でもお陰ですっきりしたよ」
そのままタオルを手渡すのかと思いきや、彼女は私の手を引くようにベッドの端に座らせると、背後に回って髪の毛を拭き始めた。私はただじっと揺れるタオルの中で目を閉じ、仄かな洗剤の香りに包まれていた。
「あ~。いい気持ちだ」
心地良さよりも幸せから出た言葉だろうか。床屋のそれとは違う感触につい声を漏らすものの、どことなく慣れた手つきに私は無駄口も叩いてしまう。
「昔の彼にも、こんなことを───」
すると、彼女は手を止め、
「イヤ・・そんな・・・・」
と、悲しげな声でひと言。
「ごめん。悪気があって言ったつもりじゃないんだけど───」
すぐ配慮が足りなかったことを反省し素直に詫びると、彼女は覆っていたバスタオルを取り去り、後ろからそっと私の首に腕を絡める。
「ううん・・いいの・・・・ねぇ?・・」
気を取り直して思い出したのか、それともずっと気になっていたのか、彼女は私が漏らした笑いについて尋ね始めた。それは二人でこの部屋に向かって歩いていたときの話である。唇が耳に触れそうな距離で、声と言うよりも息に近かった。
先ほどの件もあったため、話そうか迷ったのだが、結局怒らないからと彼女に言われ、私は控え目な口調で話し出す。
「いや・・手料理って言ってて、コンビ二の弁当が出てきたりしたら、おかしいだろうなって──」
「ひど~い!」
彼女はそう言って腕に力を入れる。
「いや・・・・ほら、人は見かけによらないって言うだろ?それにさっき怒らないって?──」
「だって~!私のことそんな風に見てたなんて~」
「いや、これは物の例えだって──」
もしこんなところを見られたらと思いつつも、私は彼女との一時の戯れに、見失っていた幸せと安らぎを感じるのだった。そして同時にある種の不安に駆られ、
「・・・・カギ閉めたよね?」
と、何げなくドアに視線を送る。
「フッ・・そんな不用心じゃありませんよ。それにどうせ誰も来ないし──」
「そう・・・・え!?確かお姉さんが居るって?」
「ええ。おねえちゃんは何度か来たことがあるけど・・・・たまにって言うか、滅多には来ないから──あ、おなか空いたでしょ?待ってて」
スッと彼女は私から離れ、既に支度の整った料理を目の前の小さいテーブルに運んだ。
うれしそうでもあり、緊張しているようにも見えた。
彼女が離れたからだろうか、私は身体の冷えを感じ慌ててシャツを羽織ると、テーブルの西に腰を下ろした。それからじっと忙しそうに動く手元に目を向けていた。
「何もないですけど・・・・」
正面からの声に姿勢を正した私は一言告げ、初めて見る彼女の手料理に箸を運ぶ。派手さの無い家庭的な料理は、彼女の人柄のように優しく温かい味がした。それでもやや味が薄れたのは、真新しい箸に気を奪われたからに違いない。それは彼女が私のためにと買って来たものである。
「──少しは見直したでしょ?」
「いや~。でもこんなに料理がうまいなんて知らなかったよ」
「も~。出来過ぎたお世辞はだめですよ。さっきはコンビニのお弁当なんて言ってたんですから──」
「いや、あれは───」
和やかな会話を交え、次々と料理を口に運ぶ度に、彼女との溝が埋められて行く気がしてならなかった。まるで空腹でも満たすかのように、スコップで土が掛けられて行く。そして、恐らくその土はきっと私と真由美との間から掘られているのだろう。
「お代わり出して、島さん」
差し出した茶碗を両手で受け取った彼女は、
「アハ・・なんだか、新婚さんみたいね」
と、恥じらいながら笑みを浮かべる。私も一緒に目を細めた。
狭い部屋には二人の声と箸の啄む音だけが似合っていて、映像も音楽も所詮は邪魔なものでしかないと思った。やがてテーブルの上が殺風景に戻ると、入れ替わるように冷たいコーヒーが目の前に現れる。
「ご飯のあとだから違うのが良かったかしら」
言い終わるなり小さなガラス製の灰皿をテーブルに置き、
「どうぞ」
と、私の目を見つめた。
「フッ・・しかしよく気が利くもんだね」
「・・・・良い奥さんになれるかしら?」
「ああ。フッ・・俺もこんな奥さんだったら良かっただろうな」
待遇の良さに私はつい本音とも取れる台詞を零してしまうが、ちょうどその頃、圭ちゃんが凄いことになっていたとは知る由もなかった。
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