第36話 ポトフリス神話

「しかし、困ったな」


 感情のままにアルカミアを飛び出してしまったが、このまま午後の授業をサボって屋敷に帰ってしまえば、ほら見たものかとユニに何を言われるか分かったものではない。


「少し時間を潰す必要があるな」


 そこで仕方なく町にやって来たのだけれど、行く宛などはなかった。


「くそっ。あの太ちょっ君のせいで腹が減って力がでないではないか」


 思い出すのは食べそこねたかぼちゃのキッシュ。


「思い出しただけで腹が立ってくるな」


 空腹で今にも座り込んでしまいそうな体を引きずり、俺は人気のない裏路地を彷徨い歩いた。


「あいつに言うとけや! うちは絶対にお前を赦さんてなッ!」


 薄暗い路地を曲がった先で、印象的なイントネーションが耳朶を打った。

 新任教師ブランの声だ。


「誰と話しているのだ?」


 俺は咄嗟にサボりがバレないように角に身を潜めながら、声の方角に目を細めた。


 修道服に身を包んだ赤毛な彼女が、外套を頭からすっぽり被った黒ずくめに怒声を放っている。


「誰なんだろう?」


 ここからでは黒ずくめの顔も、性別も確認できない。


「一体何を揉めているんだ?」


 気になると我慢できない性分ゆえ、俺は相手の顔を見ようと身を乗り出した。


「誰やァッ!」


 初歩的なミスを犯してしまう。足下の空瓶に気づかず蹴り飛ばしてしまったのだ。

 敵意をむき出しにしたブランの鋭い声音が、路地裏にこだまする。


「………」

「ここはもうええから、お前はさっさとうちの前から消えろ」

「…………」


 路地裏から足音がひとつ遠ざかっていく。

 だが、依然として肌を突き刺すような殺気は消えておらず、こちらに向けられたままだ。

 刹那の緊張が全身を貫いていく。

 まるで極寒の雪山に裸一貫で放り出されたような寒さを、不安を覚える。


 息苦しい上に暴れまわる鼓動の音がうるさかった。相手に聞こえているのではないかと思い、ギュッと胸の辺りを掴み取った。


「出てこうへんちゅうことは、やましいことがあるからでええんやなッ!」


 鞘から杖剣を抜き取る物騒な音が、風に乗って流れてくる。

 というか、なんで俺はこんなにもビクついているのだ。ただ授業をサボって町をフラついていただけではないか。

 いや、まあ……褒められたことではないが、教師に剣を向けられるようなことはしていない。


「ほな、こっちから行くとしよかぁッ!」


 殺気が強くなった!?

 どうやらブランは本気のようだ。


「……くっ」


 さて、どうする?

 全力で引き返して逃げるか。

 幸い路地裏は複雑に入り組んでいるのだけれど、困ったことに俺には土地勘がない。

 果たして無闇矢鱈に走り回って逃げ切れるものなのだろうか。


 可能性は大いにあるも、その逆もまた然り。

 やむを得んな。


「待ってくれ! 俺だ!」


 俺は逃げることは得策ではないと判断し、苦笑いを浮かべながら両手をあげてゆっくり前に出た。


「!?」


 俺の顔を見たブランは一瞬目を見開いて驚いたが、すぐに険しい表情で眉根を寄せた。


「リオニス……グラップラー。なんで自分がこないな所に居るんや。五時限目はどないしたんや? まだ学校は終わってないはずやろ」

「ブランこそ……先生こそどうしてこんなところに? まだ勤務時間内だろ?」

「うちは……午後の授業あらへんからな。今は教師やなくてシスターや」

「そっか。ちなみに俺はただのサボりだ」

「ただのサボりって……それを教師のうちに堂々と言うってのはどないやねん」

「懺悔の気持ちを込めて打ち明けてみたのだが、ダメだったか?」

「あのなぁ……。たしかにうちはシスターやけどな、別に歩く教会やあらへんねん。こないな路地裏で告解されても困るっちゅうもんやろ」

「だがしかし、神は寛大だと聞いている。赦しを乞う者を拒んだりしないだろ?」


 ブランはすごく不服そうな顔で俺を見た。


「神はたしかに寛大やからな、大きな懐で自分の罪も赦してくれるやろな」

「それは助かる」

「けどなッ。神は赦してくれても教師のうちが赦すかは別の話とちゃうか?」

「なら、それも助かった」

「は……助かったぁ? 何を訳のわからんことを言うてんねん」

「だって、今は教師のブランは勤務時間外なのだろ? シスターブランが相手で助かったと言っているのだ。何か間違ったことを言ったか?」

「………」


 ひどく酸っぱいものを口の中に含んでしまったときのように、ブランは顔をしかめた。


「それより、さっき誰かと話してたみたいだけど?」

「………チッ」


 短い舌打ちを一つ打ち、ブランは鋭い視線を向けてきたが、直ぐに完璧な微笑みを顔に貼り付けた。


「教師のプライベートに生徒が首を突っ込むもんやないよ」

「それは、たしかにそうだな」

「へぇー、随分と物分かりがええんやな」

「しつこい男が趣味か?」

「アホ抜かせ。うちはダンディズムあふれる髭の似合う男がタイプやねん」

「ヴィストラールみたいな?」

「長すぎやな。髭引きずって歩いとるん見たばっかやわ。なにより相手は老人やないか。うちはまだ18って知っとるか? なにが悲しゅうて半世紀以上も年の離れた老人に恋心抱かなあかんねんな」

「人を好きになるのに年の差は関係ないだろ?」

「いくらなんでも開き過ぎやとは思わんか? 限度っちゅうもんがあるやろ」

「しかし、貴族社会では高齢な男と若い女が婚姻を結ぶことは別に珍しくない」

「そりゃ銭持っとるからやろ? あるいはただの道具としての政略結婚やな。何れにせよ、自分ら貴族の腐った常識で世の中を語るもんとちゃうかもな」


 なるほどと俺が頷けば、この腹もぐぅーと一緒になって返事をする。


「ハッ………!?」

「なんや、腹減っとんのか?」


 盛大に鳴った腹の音に、俺は焼け死ぬのではないかと思えるほど赤面した。

 恥ずかしすぎて顔面が発火しているのではないかとさえ思えてくる。


「キッシュ……食べそこねたからな」

「日替わりキッシュか? 食堂はビュッフェ形式やろ。別にキッシュ以外にもぎょうさんあるんとちゃうんか?」

「俺はキッシュが食べたかったのだ」

「せやったらちょっとうちに付き合ったらええわ」

「なんで俺が怪しさ満点のお前に付き合わねばならんのだ!」


 こいつは聖職者だが、非常に胡散臭い。

 モルガンのことを知らない振りして実は知っていたり、ヴィストラールに呼ばれていると嘘をついたりと、信用ならない相手だ。


「昨夜この町に着いた際に寄った店の、長ネギとベーコンのキッシュが絶品やったんや」

「長ネギとベーコンのキッシュだと!?」

「な、なんや自分そないに鼻息荒く」


 長ネギとベーコンの絶品キッシュ。

 考えただけでよだれが、興奮が抑えられない。


「う、旨いのかッ!」

「せやから絶品やったって言うとるやろ。うちも昼まだ食うとらんねん、この際やから一緒にどうかと思ってな」

「そうか! 教師とはいえ一応は女子、女性の誘いを無下に断ったとなればグラップラー家の恥となりかねない。うん、すぐに行こう! 走って行こう!!」

「言動が無茶苦茶やんけ。つーか自分、今のその顔鏡で見たことないやろ。ごっついキラキラしとんで。どんだけキッシュ好きやねん」




 ◆◆◆




 さっくりした食感の生地が、香ばしく焼かれた具材を包み、表面はチーズが焦げてカリッカリ。さくっ・とろっ・さくっ。さまざまな異なる食感がリズミカルに踊り、次々迫りくる食のパレードやあああ!


「う、旨いッ!」


 我ながら実に情けないと思う。

 大好物のキッシュに釣られて、怪しさ満点のブランとランチを一緒にしているのだから。

 しかし、分かっていても止められないのがキッシュの魔力だ。


「せやから絶品やって言うたやろ」

「嘘つきのくせにやるではないかッ!」

「嘘つきって……ま、ヴィストラールが呼んでるって嘘ついたからいい訳はせんけどな」


 ブランに連れられてやって来た店は、何処にでも在りそうな酒場だ。

 活気あふれる店内には、腕っぷしに自信ありといった感じの男たちが、昼間から杯を重ねている。


 円卓を囲んでカードゲームに打ち興じる者、吟遊詩人の歌に合わせてステップを踏む者など、店内は昼間から大賑わい。

 まるでお祭りのようだった。


「おっ。きたきた!」


 運ばれてきた杯に、ブランの目が嬉しくてたまらないというようにキラキラ光る。ウエイトレスから杯を受け取ると、もう我慢できないと一気に喉の奥に流し込んだ。


「ぷはぁッ! 最高やな!」


 赤くなった顔で杯をテーブルに叩きつけるその姿に、俺は益々ブランを胡散臭いやつだなと思ってしまう。


「教育者兼聖職者が真っ昼間からいいのか? というか、酒なんて飲んでいいのかよ? シスターだろ?」

「何を堅苦しいことを言うてんねん。ええか、神様かてたまには息抜きは必要やねん。当然、それに仕えとるうちらかて息抜きは必要や」

「とんだ不良シスターだな。神が知ったらさぞあきれ返ることだろう」

「神は天にいまし、世はこともなし、や」

「……物は言いようだな」


 にしても、これは本当に絶品だな。


「つか自分かて一体何個食えば気が済むねんな」

「普段はこのような場に来ることがないからな。食い溜めだ」


 外で食事をしたいなど、ユニには口が裂けても言えない。バレたら何を言われるか分かったものではない。


「で、何か俺に話があるのではないのか?」

「ん?」

「あるからわざわざ食事に誘ったのだろ」

「なんや、やっぱりバレとったか」


 杯を置いて塩豆に手を伸ばしながら、ブランは店内を見渡した。


「黒の旅団……って知っとるか?」

「黒の旅団!?」


 それは【恋と魔法とクライシス】において、本来リオニスが立ち上げる組織の名前である。

 石化事件の際にもヴィストラールの口から出たが、まさか本当に実在するのか。


「その様子やったら名前くらいは知っとるみたいやな」


 ここで嘘をつく必要がなかった俺は、素直に知っていると頷いた。


「例の石化事件の際、当初ヴィストラールが犯人ではないかと疑っていた相手が、黒の旅団だったはずだ」


 ブランは仕切りに周囲を気にする素振りを見せながらも、話を続ける。


「ヴィストラールがなんで教会に教師の派遣を依頼したかわかるか?」

「それは、腕の立つ無国籍の魔法使いを手っ取り早く探し出すためだろ?」


 今朝クレアとアリシアから聞いた話を、俺はそっくりそのままブランにした。彼女は小さく相槌を打ち、間違いではないと言ったが、その口振りからして正解でもなさそうだった。


「半分正解、でも半分不正解や」

「別の理由があるのか?」

「アルカミアとうちら教会は現在、密かに共同戦線を張っとるんや」

「共同戦線!? それって、同盟を結んだということか?」


 杯の中身を飲み干し、ブランはおかわりを注文。空になった杯をウイエトレスが回収し、席を離れた頃合いを見計らい、YESと首肯する。


 しかし、妙だな。

 アルカミアと教会はどこの国にも属さない組織だったはず。ゆえに両組織は無国籍の魔法使いしか受け入れない。

 その二つが、なぜここにきて手を取り合うのだろう。


「不思議に思うんも無理はない」

「なにか、事情があるのか?」

「まだ公にはしとらんけどな、教会から多くの魔法使いが消えたんや」

「消えた?」

「事の発端はな、うちの親代わりでもあった枢機卿が何者かに殺害されたことが原因や」

「!?」


 枢機卿が殺害だと。

 枢機卿といえば、教会内でかなりの地位にいる人間のはず。それが殺された……。

 しかも、ブランの親代わりだった人物だと。意味がわからん。


「犯人は闇の魔法使いや。教会ちゅうところは意外と脆くてな。皆悪魔が怖いんや」

「悪魔が怖い?」

「神を信じるとな、比例してそっち側も信じることになる。神はうちらに豊かな自然の糧をお与えくださる。けど、それ以上はない。人に努力する喜びを教えるために、神はそれ以上のことはせえへん」


 けれど、悪魔は違うという。


「奴らは時に力で人々を支配しようとしてくる」


 そこで一旦言葉を切ったブランは、とても悔しそうに奥歯を噛みしめた。

 丁度運ばれてきた杯を乱暴に掴み取ると、彼女は悪夢を振り払うかのように酒を流し込む。

 空になった杯が、テーブルに大きな音を立てた。


「悪魔はな、うちの親代わりやったあの人に、闇に墜ちるように言うたんや」

「…………」

「けれど聡明なあの人は断固としてそれを拒んだ。その結果……あの人は殺されてもうた」


 いまいち話が見えてこない。

 今の話の流れからして、悪魔というのはおそらく黒の旅団のことだろう。

 されど、彼女が言った魔法使いが消えたとはどういうことなのだろう。


「その、ブランの親代わりだった枢機卿が殺された事と、教会の魔法使いが消えたことに何か関係が?」

「枢機卿が殺害された日、教会の空から黒い手紙の雨が降り注いだんや」

「黒い手紙?」

「そこにはこう書かれとった」


 ―――次の神はダレか?


「なんだよ、それ?」

「ポトフリス神話や」

「ポトフリス神話?」

「かつて、神と人々が共に暮らしとった時代の話――」


 遠い昔、世界には神々が存在した。

 神々は人々に生きる糧を与え続けたのだけれど、やがて一人の欲張りな人間は思ってしまう。神の愛を独り占めしたいと。

 その欲望は日に日に強さを増し、願い続けた人間の元に悪魔が現れた。


 悪魔は言った。

 ならば、君が神になればいい。

 さすれば神の愛は永遠に君だけのものだ。

 だって、君はとっても欲張りな神様になるのだから、君は誰のことも愛さない。君は君だけを愛してしまうもの。

 君の願いは叶うんだよ。


 悪魔に唆された人間は神々を殺し、やがて本当に人間の彼が神座に就いた。


「ポトフリス神話ではな、神の寵愛を受ける方法の一つとして、神殺しが描かれているんや」

「イカれてるとしか思えんな」

「せやけどな、日々祈り続ける信者の中には、神に憧れる者が少なからず居るんも事実や。あの人を殺害した犯人はな、暗に自分は神殺しを赦された悪魔やって言うとるんや」

「それを信じた魔法使いが教会を離れた、そういうことか?」


 その通りやと、ブランは力無げに首を縦に振った。


「そもそも悪魔交渉可能な人間自体が珍しいからな」

「だが、それとブランが教会から教師として派遣されてきたことになんの意味があるんだよ?」

「うちはな、あの人を殺害した犯人に心当たりがあるんや」

「犯人を知っているのか?」

「あの人が殺害された現場にな、花冠が添えられてたんや」

「花冠?」

「シロツメクサの花冠や。それを見たときすべてを理解してもうた。あの人が殺されたんは、全部うちのせいやってな」

「なんでお前のせいになるんだよ?」

「うちはな、遠い昔にある約束をしたんや」

「約束?」

「そや、大切な約束や。けどな、うちはあの人に出会って少しずつ変わってもうた。今は、約束を果たすべきか悩んどる」


 赤らんだ顔でじっと俺を見据えるブランが、静かに目を伏せた。


「アルカミアに来たんはな、ヴィストラールから石化事件の詳細を聞いたからやねん」

「石化事件と、その……枢機卿が死んだことに何か関係が?」

「いいや、あの人が殺されたんは単にうちのせいや、それ以上は言えへん。アルカミア行きを志願したんは、ある人をこの目でいっぺん見てみたかったのと……まあ色々やわ」


 彼女は相変わらずの微笑みを顔に貼り付けていた。


「それを話すために、俺を食事に?」

「というか、いっぺんちゃんと自分と話してみたかったんかな?」

「なんで俺と?」


 やはり俺が石化事件に深く関わっていたからだろうか。

 ブランは、


「ナイショや」


 微笑んで新たなエールを注文していた。

 結局、それ以上詳しい話をブランの口から聞くことはできなかった。

 彼女は完全に酔っ払ってしまったのだ。


「もう一軒、ひくっ、行くでぇええ!」

「行かないからな! つーかなんで無一文なんだよ!」

「昨夜全部、ひくっ、飲んでもうたぁ!」

「それでよく俺を食事に誘ったな! どういう神経してんだよ!」

「公爵家のボンボンが何をケチくさいこと言うとんのや! 酒樽くらい持ってこんかぁ!」


 外はすっかり夜の帳が降りていた。

 この不良シスターを途中で捨てて帰ろうかとも思案したのだが、仕方なく寮まで運ぶことにした。


 しかし――

 夜風を浴びながら町を歩く俺たちの周囲に、蠢く影が忍び寄る。


「リオニス・グラップラー……」

「ああ、囲まれてるな」

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