非常

非常1

『……起きて。起きて。起きて。起きて。起きて。起きて。起きて。起きて。起きて』

「ん、うー……」


 聞き慣れた声の聞き慣れない硬さが耳に障って、瞼が開く。そう言えば昨日もこんな感じだったなと、目覚まし時計を手で押して、上半身を起こし窓の外に目を向けてみる。


「……朝だ」

 カーテンの隙間から差し込む光の量が完全に昼間のそれで、直前の記憶との食い違いから、時間の経過が顕著に分かった。

 短い時間で深い眠りに入らなかったためか、頭は軽く、目もすぐに冴え始める。


「ん……」

 頭をぽりぽり掻きながら、すぐ真隣で聞こえた短い声の主の方へ目線を下ろす。

「これは、完全に、寝ている」


 なぜか文節ごとに区切って説明口調で言ってみる。当たり前だけど当たり前に隣では彼女が瞼を閉じて眠っていた。


 しかしその当たり前に、ベットの上でホッと胸を撫で下ろす。また私の知らないうちにふらっとどこかへ行ってしまっていないことに、目尻が下がるほどの安堵感を私は覚えていた。あとは、まぁ、起きてすぐ隣に彼女がいることに対する喜びも、胸の中には初々しい感激としてじんと広がっている。


 これは恋人になって共に迎える初の朝なのだ。……響きがなんだかやべえけど、別に間違ってはいない。語弊も誤解もあるけれど、事実なことに変わりはない。自信持って行こうぜ私。


「んー……」  

 隣で身体を起こしている私がもじもじと芋虫のごとく気持ち悪い身じろぎをしたせいか、彼女が掛け布団を手で引っ張って猫のように身体を丸める。

「ふふ」

 長い睫毛が揺れた綺麗な寝顔を見て、思わず笑みがこぼれた。


 寝入る姿は本当に幸せそうで、だからこそその姿とは対照的だったベランダで見せた一面がなんだったのか。短い睡眠を挟んだ後でも自然と考えはそこに行き着く。


「んみゅう……」

「かわい」


 あざとい寝言に率直に一言。


 こんなに可愛い子が、ベランダから自分の家を見ながらあんな雑然とした表情を見せたのだから、それだけで尋常一様では済まない事態に陥っていると言っても過言ではない。彼女のご尊顔が陰りを見せるなんて世も末だ。世紀末到来だ。ビッグバンだ。マヤの予言ってこれのことだ。


「うむ」


 脳に与えた短いインターバルのおかげか回復しつつある、付ける薬がない自分のアイデンティティーに満足げに頷く。おかえり私の馬と鹿さん。


 しかし、いつまでもふざけてばかりはいられない。考えるのを後回しにした数時間前の自分のツケは自分で払わなければいけないのだから。


「うーむ」

 何か手がかりが欲しくて、彼女の引き連れて来たスーツケースに目を向けてみる。


 うん、相変わらず華奢な彼女には似つかわしくない大きさだ。

 そしてそのスーツケースの中には大量の衣服や日用品。自分の家の箪笥や戸棚をひっくり返して準備して来たのだろう。

 加えてその品々を持って来たご自宅を見つめるあの複雑な顔。


「……君、実は家族と喧嘩してて、絶賛家出少女中だったりする?」

 

 枕の上を遊泳している柔らかい髪を指で摘んで撫でながら問いかける。無論返事は無い。

 短絡的な結びつきから出した答えだが、案外的外れとも言い難い。その線で考えると腑に落ちることもいくつかある。


 例えば昨日忘れていたお弁当。あれは本当は忘れたんじゃなくて、お母さんに作ってもらえなかった、または彼女が自ら拒否した、と考えたらどうだろう? お母君と喧嘩が勃発して、どうしても引けず、意地を張ってそうなってしまった、なんて時もたまにはあるだろう。いくら彼女がご近所で噂をされるほどのお利口さん一等賞だとはいえ(知らないけど)、私たちはまだまだ多感な女子高生。定める範囲は人それぞれだろうが、年齢というものに対して比較的常識を押さえている私からすれば、彼女はまだまだ少女と言える年頃で、無論この私だって活力溢れる若者だ。十代半ばを過ぎたばかりの青二才、いや女子だから桃二才? 

 語源を知らないので合っているはずがないがまぁそんな感じ。

 それ故、抗えない理不尽を感じたりすれば、たまには本気で拗ねたくなったりする。だって桃二才だもん。


 それに、急にうちに泊まるなんて言い出したことだって一度不自然と疑えば、簡単にそっちに転がっていく。


 彼女が当日に泊まる提案をしたのは今回が初めてだった。大抵そういうのは何日か前にお泊まり会を二人で企画して実行に移していたし、疑念に舵を切れば泊まる理由もとってつけたようなものに感じてくる。


 こんな急に家を出てくるくらいだ、もしかしたらかなり過激に衝突してしまったのかもしれない。母親か、父親、それか妹、と。


「んー……」


 家出と決めつけるのはまだ尚早だが、ぶっちゃけ、彼女宅で何かあったことに間違いないと私は踏んでいる。けれど家族と喧嘩をしたくらいで、あんな、まるで地獄を見てきたような顔になるものかとも疑っている。

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