あの子がいてくれたから
神通百力
あの子がいてくれたから
「
「別に礼なんかいいさ。どうせ暇だったし」
本当は映画を観に行く予定だったが、チケットは両親にあげた。
「……
結衣は酔いつぶれて寝ている政樹を愛しそうな表情で見ていた。政樹の頭を撫でている。最初は政樹も君付けで呼ばれていたが、今では呼び捨てになっている。俺は今でも君付けのままだ。呼び捨てにされることはないだろう。
結衣と政樹とは幼馴染の関係だ。小さい頃からずっと一緒に過ごしてきたが、高校卒業を機に二人は結婚した。それからしばらくは二人とは会っていなかった。結衣のことがずっと好きだったから、心の整理がなかなかつかなかったのだ。
そんな日々を過ごしていた時に結衣から『真司君が住んでいるマンションに引っ越すことにしたから、手伝ってくれる?』と電話がかかってきた。それだけでも驚きなのに、引っ越し先が隣の部屋だと知った時は頭が真っ白になった。
理由を聞くと俺に会えないことが寂しく、隣の部屋に引っ越すことを決めたらしい。俺に会いたいと思ってくれていることは嬉しいが、まだまだ新婚なんだから、二人の時間を大切にすべきだと思う。それに今まで通りに接しられるか自信がない。
何にせよ、俺の気持ちを知られるわけにはいかない。もし知られたら、関係性が壊れてしまうかもしれない。隣に越してきた以上、以前のように接する必要がある。ギクシャクした関係のまま過ごしたくはないし、今の状態を保ち続けなければならない。
結衣が用意してくれた夕食を口に運びながら、部屋を見渡した。リビングの奥の部屋には大量の段ボール箱が積み重ねた状態で置かれている。部屋の壁には俺たちの写真が貼られている。荷物をすべて運び終えた後に、結衣が段ボール箱から写真を取り出し、壁に貼ったのだ。早く飾りたかったのだろう。
「ねえ、真司君、何か悩み事でもあるの?」
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「どことなく元気なさそうに見えたから」
結衣は心配そうに俺のことを見ていた。複雑な気持ちが表情に出てしまっていたのか?
「悩み事なんかないさ。俺は元気だよ」
「本当? 悩み事はないの?」
「一つもない。俺は元気だから何も心配しなくていい」
結衣を心配させないように、俺は精一杯の笑顔を浮かべた。
「そう? ならいいけど」
結衣はあまり納得していないようだったが、引き下がった。
俺は夕食を食べ終えると、帰る用意をした。
「あれ? 帰るの? 泊まっていかないの?」
「ああ、二人の時間を邪魔しちゃ悪いからな。ちゃんと政樹を介抱しろよ」
「そっか。政樹のことはちゃんと介抱するから安心して。またね、真司君」
「ああ、またな」
俺は結衣に手を振り、玄関の扉を開け、外廊下に出た。外気に晒され、体が冷える。
ポケットから鍵を取り出しつつ、体の向きを変え、俺はギョッとした。隣の部屋の前に少女が扉にもたれかかるようにして座っていた。隣に住んでる住人だ。
扉にもたれかかって座っているところを見ると、鍵が閉まってて入れないのかもしれない。そんなことを考えていると、明かりがついているのが見えた。誰かしら家にはいるようだ。ならなぜこの少女は外にいるのだろうか? ふと少女が泣いていることに気づいた。何か悩み事でもあるのかもしれない。
俺が見ていることに気付いたのか、少女は顔を上げてこちらを見た。不安や悲しみが混じったような表情をしている。ちょっとしたことで壊れてしまうのではないかと思わせる表情だ。
俺は家の鍵を開ける。少女の方を見ながら、玄関を開けた。
「入るか?」
俺が問いかけると、少女はゆっくりと頷いた。
☆☆
俺は少女にホットコーヒーを出した。少女はペコリと頭を下げ、ホットコーヒーを飲んだ。
「ケーキあるけど、食べるか?」
「……うん、食べる」
少女は小さく頷いた。
俺はケーキを小皿に入れて差し出した。少女はゴクリと生唾を飲み込むと、フォークでケーキをすくって口に入れた。頬が緩んでいる。どうやら美味しかったようだ。
俺は少女がケーキを食べるのを黙って見ていた。何で外にいたのかの理由は聞かない。話したくはないだろうし、俺は隣人でしかないから、そこまで踏み込む権利はない。
少女はケーキを食べ終えると、居住まいを正した。俺をジッと見ながらも、口は固く結んだままだ。話すべきかどうか迷っているようだ。少女はギュッと目を閉じた。決心を固めたらしい。
「まだ自己紹介してなかったね。私の名前は
「俺は真司だ」
俺が名乗ると、少女――美結は深呼吸をした。
「私に優しくしてくれたのは真司さんが初めてだからちゃんと話すね。私が小さい頃に両親は離婚しちゃって母さんに引き取られたんだ。でも、母さんはしょっちゅう男を引き込んでは事に及んで、私には全然かまってくれなかった」
美結は体を震わせながらも、そう話した。
「今日も母さんは男を引き込んで事に及んでた。家に居辛くて外で終わるのを待ってたんだ」
なるほど、それで扉にもたれかかっていたのか。不安や悲しみが混ざった表情をするのも当然と言える。母親が男と事に及んでばかりいたら、不安に思うし悲しくもなる。
「母さんは私といる時よりも男といる時の方が楽しそうにしてる。そんな母さんを見ていると、私はいらない子なんじゃないか、生まれてきてはいけなかったんじゃないかってそう思えてならないんだ」
美結は話し終えると、自分の膝を抱きかかえた。その表情は膝に隠れて見えなかったが、嗚咽が聞こえてきた。俺には自分の心情を吐露した美結をただ抱きしめることしかできなかった。
美結は俺の腕の中でただひたすらに泣き続けた。
しばらくそうしていると、泣きつかれたのか、美結は寝てしまった。
美結を布団に寝かせた後、俺は隣の部屋のインターホンを押した。
すぐに扉は開き、美結とよく似た風貌の女性が姿を現した。
「……えっと、あんたは隣の家の人だよね?」
美結の母親は訝しげな表情で俺を見てくる。
「ええ、あなたの娘さんが外にいたので家に招き入れました。今は寝ています。このまま泊まらせようと思うので、それを伝えに来ました。明日には必ず送り届けます」
美結の母親は全身を舐めまわすかのように俺をジロジロと見てきた。じっくりと俺を観察すると、顎に手を当て何かを考え始めた。
しばらく待っていると、美結の母親は俺に向かって頭を下げてきた。
「美結を預かってくれないか?」
いきなりの申し出に俺は戸惑った。しかし、美結の母親は真剣な眼差しをしていた。
「私なんかが母親になったばかりに美結には寂しい思いをさせてしまっている。高校生の時からずっと男と遊んでばかりいたから、今更生活サイクルは変えられない」
美結から話を聞いた時には娘に関心がないのだと思っていたが、どうやら違うようだ。
「私にとって美結は大切な一人娘だ。かけがえのない宝物だ。けど、私では美結の寂しさを埋めてあげられない。汚れきった私には埋めてあげることができない」
心の底から美結を愛していることが伝わってきた。その思いは美結には伝わっていなかったようだが、いつかは伝わるだろう。
「美結には温もりが必要なんだ。私は母親失格だから温もりをあげられない。あんたは優しそうだし、美結に温もりを与えてほしいんだ。美結の父親代わりになってくれないか?」
「……分かりました」
「ありがとう。美結をよろしくお願いします」
美結の母親は深々と頭を下げた。
☆☆
翌日、目が覚めると美結はキッチンに立って朝食を作っていた。
俺に父親代わりが務まるかは分からないが、頼まれた以上は役目を果たすつもりだ。
「真司さん、できたよ」
美結が作っていたのはサンドウィッチだった。たまごサンドやハムサンドがあった。俺はたまごサンドを手に取って食べた。たまごの濃厚な味わいが口の中に広がる。
「美味しいよ」
「良かった」
美結はホッとしたように息を吐いた。思わず笑みがこぼれた。美味しいと言ってくれるかどうか不安だったようだ。
その後は美結と他愛もないお喋りをしたりゲームをしたりして過ごした。美結はとても楽しそうだった。少しは温もりを与えられたのかもしれない。
やがて午後五時を過ぎた。そろそろ夕飯の用意をしなければいけない。父親代わりの役目を果たすなら、美結の食べたいものにするべきだ。
「夕飯は何がいい?」
俺は美結に聞いた。
「たこ焼きがいいな。いろんな具材を入れてみたい」
「たこ焼きだな。一緒に具材を買いに行くか?」
「うん」
美結は嬉しそうに頷いた。
☆☆
「えっと、真司さん、ごめんね。いっぱいお金を使わせちゃって」
「気にしなくていい。たこ焼きの中に入れたかったんだろ?」
俺はスーパーの袋をテーブルに置きながら、そう言った。近くのスーパーで大量に具材を購入した。ウインナーやこんにゃくなどのおかず系からバナナやイチゴなどのフルーツ系まで買った。
早速たこ焼き器を取り出し、作り始めた。右側にはおかず系、左側にはフルーツ系を入れる。美結は焼き上がるのを楽しみにしているようだった。俺もフルーツ系がどうなるのかが楽しみだ。
焼き上がるのを待つ間、俺は美結の家に行き、インターホンを鳴らした。すぐに扉は開き、美結の母親が出てきた。
「たこ焼きを作ってるんですけど、良ければ一緒にどうですか?」
「……お言葉に甘えていただこうかな」
「どうぞ、お入りください」
俺は玄関の扉を開けて中に手招きする。美結の母親は鍵を閉めてから家の中に入った。
「お邪魔します」
そう言いながら、美結の母親は家の奥へ進んでいく。
リビングでは美結がたこ焼きをクルリと回転させながら待っていた。
「ここに座って下さい」
俺は母親を美結の隣に座らせた。美結はチラリと母親の方を伺っていた。
「さあ、食べましょうか」
俺は焼き上がったたこ焼きをお皿に次々と放り込んでいく。美結と母親はお皿からたこ焼きを取り、ソースにつけて食べた。二人は同時に頬を緩ませる。何だか微笑ましかった。
次のたこ焼きを焼いている間にフルーツ入りを食べた。思ったよりも美味しかった。たこ焼きがスイーツとしてもイケるとは知らなかった。
「美結、口にソースが付いてる」
母親は美結の口に付いていたソースを手で拭きとり、ペロリと舐めた。
「あ、ありがとう母さん」
美結は照れくさそうにしていたが、どことなく嬉しそうだった。母親の行動を見て、自分は愛されていることに気付いたのかもしれない。二人は楽しそうにお喋りしながら、たこ焼きを食べている。
二人の微笑ましい姿に頬を緩ませつつ、俺はたこ焼きを食べ続けた。
「ふぅ~、お腹いっぱい」
「美味しかったな、美結」
「うん、美味しかった」
二人はとても満足そうだった。美結は母親にもたれかかっている。母親も招いて正解だったな。
俺は後片付けをしながら、二人の幸せそうな姿を見て自然と笑みがこぼれた。
☆☆
翌日、インターホンの音で目が覚めた。ベッドには美結と母親が抱き合って寝ている。母親も泊ったのだ。
玄関の扉を開けると、結衣と政樹が立っていた。手にはスーパーの袋を持っている。
「あれ? 真司君、何か良いことでもあった?」
「何でそんなことを聞くんだ?」
「元気になったように見えるから。前は元気なさそうに見えたから心配してたけど、大丈夫そうだね」
結衣は言いながら家の奥に進んだ。政樹も後に続いて奥へ進む。
リビングへ行くと、美結と母親が目覚めたところだった。美結は驚愕の表情で結衣を見ている。すぐにでも泣き出しそうな表情で俺を見た。恐らく彼女かもしれないと思っているのだろう。母親は心配そうに美結を見ている。
「この二人は幼馴染で夫婦でもある」
俺がそう言うと、美結は安堵したかのように息を吐き、ペコリと頭を下げた。結衣と政樹は戸惑いつつも、同じように頭を下げた。俺は二人に美結と母親を紹介した。
「手に持っている袋は何だ?」
俺は結衣が手に持っている袋を指差した。
「ああ、これはチーズフォンデュの材料だよ」
「真司を元気づけるためにチーズフォンデュパーティーを開こうって話になったんだ。まあ、心配は無用だったようだけどね」
政樹は鍋をキッチンに置いた。チーズフォンデュ用の鍋なのかもしれない。
「準備するからちょっと待ってて」
結衣と政樹はチーズフォンデュの準備を始めた。
俺は美結と母親とお喋りしながらできるのを待った。
「お待たせ」
十数分後、数種類の具材が載せられた皿と鍋がテーブルに運ばれた。鍋を見ると、チーズが良い具合に溶けていた。政樹は全員に小皿を配った。
「遠慮せずにどんどん食べてくださいね」
結衣は美結と母親に向かって声をかけた。
『ありがとうございます』
美結と母親は同時に頭を下げ、お礼を述べた。
俺は皿からウィンナーを取り、チーズにつけて食べた。トロトロのチーズがウィンナーに絡みつき、想像以上に美味しかった。次に俺はこんにゃく、かぼちゃ、ちくわなどをチーズに絡ませて食べた。
美結たちもチーズフォンデュを楽しそうに食べている。
次はどれを食べようかと迷っていると、結衣が顔を近づけてきた。
「真司君が元気になった理由が分かったよ。あの子のおかげなんだね。あの子とお喋りしてる時、楽しそうだったし」
結衣は美結を見ながら、そう囁いた。確かに美結を招き入れてから元気になったような気がする。結衣が言うように美結のおかげかもしれない。
気が付けば夜になっていた。半日近くもパーティーをしていたことになる。と言っても昼過ぎには具材はなくなり、あとはお喋りしていただけだが。
後片付けを終えた後、結衣と政樹は帰宅した。母親も美結にハグをし、家に帰った。
美結をベッドに寝かせ、俺は床で就寝した。
☆☆
「ありがとう」
美結はいきなりお礼を言った。美結と暮らし始めてから一週間が経っていた。
「どうしたんだ、急に?」
「真司さんのおかげで毎日が楽しいんだ。母さんとも良好な関係になれたし。真司さんには本当に感謝してる。ありがとう」
美結は頭を下げてあらためてお礼を述べた。
お礼を言うのは俺の方だ。俺も美結のおかげでとても楽しいんだ。
美結は俺にもたれかかってきた。
「真司さん、大好きだよ」
美結は恥ずかしそうにしながらも、しっかりとした口調で言った。
「俺も大好きだ、美結」
俺は嬉しそうな美結を愛しく感じ、そっと抱き寄せた。
あの子がいてくれたから 神通百力 @zintsuhyakuriki
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