【Je suis proche de vous】
きむ
【Je suis proche de vous】
世界に目を向けろ、この世は美しい。
少し早めにおいでとメールが着ていた。一足先に花嫁姿が見られるよと。どんな格好で来るの?とも。
迷っていたけれど、紺を基調としたパンツスタイルで行くことを伝え、花嫁姿に釣られてまだ親族さえちらほらとしかいない会場に早々と乗り込んだ。
彼女のご両親と学生時代以来の再会を果たし、控え室へと案内してもらう。
「朱里ちゃんが早く来るだろうから案内してって頼まれてたのよ」
廊下を3人で歩く。昔よりふくよかになったお母さんが嬉しそうに話してくれた。
花嫁姿を想像してみたけれど、やっぱり私の頭に浮かぶのはセーラー服姿の彼女だけだ。
「お父さんはね、本番まで見ないんですって。そう何度も泣いてられるかって」
こっそり耳打ちされたのでお父さんの方を盗み見ると、背筋をぐっと伸ばして険しい目をしている。お父さんもあの頃より老けたように思う。時間の経過をいやという程感じていた。
「さ、どうぞ。用意はできてるし、時間はまだあるから昔話に花を咲かすといいわ」
ドアの前で立ち止まり、じゃあ後でという二人に会釈をした。
短く息を吸って背筋を伸ばす。
花嫁姿がそこまで特別なものだとは思わない。
一生で一番美しいなんてことは決してないと思う。
私は彼女が一番多感な時期を知っている。愛に顔を緩める姿を知っている。恋にときめく様を知っている。
あの輝かしい日々に勝るものなどないと思っている。
「江美子、入るよ」
ノックもそこそこにドアを開ければ、眩しさに目を細めた。照明が明るすぎる。
けれど勘違いだった。照らされた対象のせいだ。
一瞬前の自分を笑う自分がいた。
これは世間が正しいと。
「久しぶり、朱里」
照れたように笑ったって、あの頃の片鱗を見つけたって、どうしようもなく美しい。
「綺麗だね、とても」
思わず漏れた言葉を飾ることはできない。本当の言葉はいつだって、シンプルで的確だ。
「おだてても何も出ないわよ」
あしらわれたことが少し不服で、けれどこれ以上言えば逆に嘘っぽい。
「確か、もう奥さんしてるんでしょ? 」
風の噂で聞いた話を持ち出せば、彼女は少し俯いた。
「奥さんだなんて……、一緒に暮らしてるだけよ」
まだ、と付け加えるその口調は何処か暗い。明るい話題にしたいと頭を巡らせた。
思い付いたそれに、目の前の彼女はきっと笑うだろう。
笑わせてやろうと思ったことそのままを口にした。
「なんとなく、江美子とずっと一緒にいるのは私だと思ってたよ」
馬鹿ね、子供みたいなこと。そう言って笑う彼女を想像して、私も笑った。
「なによ、それ」
彼女は口にした。目尻を下げて笑顔を作った。
流れる涙に震える声を誰が想像出来ただろう。
「ごめんね、ずっと一緒にいられなくて」
そんなふうに泣くことこそ、なんなのだ。
「ほら、化粧が落ちるよ」
訳もわからずハンカチを差し出せば、彼女はしかと私を抱き寄せた。
「いい人なのよ、あの人」
彼女の呟きに笑う。
「そりゃあ、あんたの選んだ男だし。心配してないよ」
こんなふうにきつく抱き合ったことなど今まであっただろうか。付き合っていたときでさえ、こんなふうにした記憶はない。
尚も泣きじゃくる彼女を前にキスでもしてやろうかと思った。驚いて涙も止まるだろう。けれど彼女とルージュを分け合う相手はもう私ではない。
「幸せに向かって歩くんだ、きみにはその資格がある」
はたと涙が止まった。かつて何百回と聞いたフレーズに懐かしさを覚えたんだろう。ふっと笑った。
「最後の発表会ね」
すっかり涙の跡がついてしまった顔をいとおしく思う。
「そう、私たちの幕引きの舞台」
「かつて私にも愛する人がいた。野に咲く菫のような可憐な女性であった。けれど私は清廉無私でなければならぬ。愛を歌うことより、数多の同胞が為、この身を捧げんと誓おう! 」
遡ること数年前、フランス革命を題材にした高校生活最後の舞台は、高らかに放った私の台詞を最後に照明が落ち、大団円で幕を閉じた。演劇部の全員が涙して手を取り合う。私も周りに合わせながら彼女のことを待っていた。照明係はいつもこの場に立ち会えないと彼女がぼやいていたのを思い出す。
舞台を降りれば待ち構えていたファンたちが各々花束を差し出した。
「最後まで素敵でした」
というようなことを、口々に囀る小鳥たちに微笑みかけて、ありがとうと受け取った。
両腕いっぱいの花々を抱えて彼女を探す。
「あら、大人気」
声に振り返れば、彼女が笑って立っていた。一輪の花を携えて。
正直、面喰らった。
「参ったな、私は何も用意してないよ」
そして花束の中から一本、迷わず菫を抜き出して差し出した。
「残念だけど、これは王子様にじゃないの」
そして、私の菫を受け取らず、そのカサブランカの香りを嗅いだ。
「私にだって、お花をくれる人がいるのよ」
そう言って微笑む彼女は美しかった。誰も知らないと思っていたのに。花に微笑みかける彼女は、私だけのものだったのに。
「あのときは、正直妬けたよ」
当時言えなかった気持ちを懺悔のように話せば、彼女は瞳を和らげて言った。
「あのときお花をくれた人が、新郎なのよ」
セーラー服姿ではにかむ彼女と重なった。
カサブランカの君では批判のしようもなかった。
「じゃあ、江美子はきっと世界で一番幸せになれるよ」
断言すれば、ようやくいつものように笑う彼女。
「笑った方が可愛いよ、花嫁さん」
そう言って控え室を後にした。最後に何故名前を呼べなかったのか。心残りを引っ提げたまま式場へと案内された。
初めて見た新郎は緊張しているんだろう、口を真一文字に結んで強張った表情だ。
自分が初めて舞台に立った日を思い出す。はらはらと周りを心配させる出で立ちだ。
結婚行進曲が鳴り始めたと思ったら、彼女がお父さんと腕を組んでやってきた。皆が立ち上がり、拍手で全てを包み込む。
お父さんはさっき以上に険しい表情でバージンロードを歩いてくる。その姿に、初めて見る人は偏屈で頑固なお父さんだと誤解するだろう。けれどあの人は娘の幸せを一番に願う真っ当で正しく優しい父親だと知っている。
そんなことを思い、ふと彼は大丈夫なのかと心配になって盗み見れば意外だった。
彼の肩を吊り上げていたような緊張の糸が切れて、彼女を迎える準備ができていた。
少し躊躇うお父さんにしっかりと頭を下げ、彼女が彼の腕へと移る。
もしもそこにいるのが私だったなら、お父さんは私に彼女を渡してくれただろうか。そんなことを考えているうちに、誓いの言葉とキスが交わされた。
あれよこれよと披露宴会場に移され、懐かしい顔ぶれに挨拶をしながら食事を取る。
皆が口々に彼女と写真を撮りに行こうと私を誘ったけれど、何となく腰が重くて笑って誤魔化した。
そろそろお色直しのようで、司会の女性がそわそわしてるのが目に入った。自分に注目を集める際は、それなりの準備が必要だ。
何か言うなと思った瞬間、彼女がその人を呼んだ。賑やかしい会場なのに耳打ちで何かを伝えている。細やかな彼女らしい所作だ。それに先程のお母さんと同じ仕草。
司会は満面の笑みで彼女に笑いかけ、今度こそとまた気持ちを作り、マイクに向かって話し掛けた。
「さぁここで、新婦様は輝かしい青春時代、舞台を共にした高梨様とお色直しに向かわれます」
そして突然辺りが暗くなり、懐かしい熱さと眩しさが私を襲う。胸を掻き乱す焦燥感も。
「高梨様、どうぞ。新婦様をお迎えに」
司会の女性は随分満足げで、周りの知ってる顔ぶれも拍手と笑顔で早くと急かす。
ドレスなんて着なくて正解だったと思ったあと、彼女から何を着るか聞かれたことを思い出す。全てはあそこから始まっていたのか。
彼女を前に立ち止まり、一応新郎へ会釈する。
「聞いてない」
「言ってないもん」
小さく囁けば悪びれもせずに彼女も同じくらい小さな声で言った。
「私のことを奥さんとか花嫁さんて呼ぶのは、学生時代に私が朱里を王子様って茶化し続けた仕返しなんだろうなって」
微笑みを絶やさず、彼女は続けた。
つまりは、こういうことじゃないかなって。そう言って彼女は客席に一礼した。拍手の音が大きくなって背筋が粟立った。
「……こういうことって? 」
などと私は府に落ちず、表情が上手く作れない。
「バージンロード、一緒に歩きたいなって思ってたんじゃない? 」
──あの頃、私が朱里と舞台に上がりたかったみたいに。
堪らない。堪らなくなった。けれどぎゅっと拳を握り込み、心の中で自分を抑えた。
「全部は叶えてあげられないけど、これくらいならね」
その追い打ちに口唇を噛む。
止めとけ止めとけ。お父さんじゃあるまいし、ここで泣いたら笑い者だぞ。
息をぐっと吸い込んで表情を作る。
「お手をどうぞ」
跪いて手を差し出す。発声だってまだまだ現役さながらだ。
彼女は笑ってその手を取る。
その姿を見た人達は、笑う人もいればあの頃のように浮き足だってカメラを向ける人や、甲高い声で私の名前を叫ぶ女の子もいた。
まるであの頃に戻ったみたいだ。
各テーブルを回りながら、私はこれでもかと気障ったらしい態度で臨む。
なにかを演じていないと泣きそうだ。
端から聞こえるシャッター音と黄色い声。スポットライトがじりじりと肌を焦がす。熱く息苦しい。
安っぽいノスタルジーに押し潰されてしまいそう。
西高の元・王子様と今日の
ここが舞台なら私は憐れなピエロでしかない。
周りの目がある限り、いつまでも何処までも。
「私が高梨朱里を照らせる最後の機会だからね」
冷やかしにも似た歓声や指笛の中で彼女は呟いた。
舞台の華はいつだって私だった。けれど、私を華たれと輝かせていたのは彼女だ。今だって。
ようやく会場を後にし、カメラマンからの撮影を了承し、三枚ほど写真を撮って彼が去り、ふたりになった途端涙が溢れた。
「馬鹿みたい」
拭う気にもなれなかった。
こんなにも愛しているなんて。こんなにも離れがたいなんて。
「今更気付くなんて」
その言葉を聞いた彼女は私の頬をそっと拭った。
「朱里は昔っから鈍感だから」
ほら、化粧落ちるから泣かないで。そして拭ったその頬にキスを。
「私のこと、好きでいてくれてありがとう」
私の王子様はずっとずっと、高梨朱里だけよ。
王子様とお姫様のその後は描かれない。
結婚式のあとはいつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。
その後の暮らしはない。
だってフィクションだ。
「ずっと一緒にいられなくてごめんね」
控え室で聞いた言葉をもう一度、彼女は繰り返した。
「私に、逆境と立ち向かう勇気がなくてごめんね」
そんなふうに言わせるなんて最低だ。
「運命を貫く強さがなくて、」
ごめんねと動いた口に声が付いていかなかったようだ。思わず彼女の手を取って言う。
「いいんだ、そんなの。だって私たちは、革命時代を一緒に過ごしてきたわけじゃない」
彼女の手の熱さに堪らなくなる。
輝かしい青春時代はもう決して戻っては来ないけれど、二人の愛が再び暖まることは決してないけれど、あのとき交わした言葉と触れた気持ちは間違いなく一生ものの恋だった。
私の好きなひとは変わらない。
いつまでも。
「世界に目を向けろ、この世は美しい」
ロベスピエールが愛しのデゾルティに言った別れの言葉だ。
「幸せに向かって歩くんだ、きみにはその資格がある」
そして抱き寄せた。
舞台の台本では省いたけれど、この場で彼女に伝えることはできないけれど、本当はこの台詞には続きがある。
『共に生きられなくても、心はずっと傍に』
胸の奥底でセーラー服姿の私が真っ暗な客席に向けて叫ぶ。それを合図に私へのスポットが消え、次の瞬間光を浴びたのは花嫁姿の彼女とカサブランカの君。
知ってた。
私のこと、大事に思ってくれてるって。
それでも、それだけだって。
私みたいにいつまでも昔の愛に縋っちゃいないって。
さっき司会に耳打ちしていたのは私への配慮だ。「御友人に」と言わないように。
馬鹿みたい。馬鹿みたい。
私は恒星なんかじゃなかった。
私を照らしていたのは彼女。
ひとりでは輝けないと知っていたのに。
自分だけのものにしておきたかった。
他の誰にもあげたくなかった。
「もしも私が王子様を卒業して、ドレスで行くって言ったらどうしたの? 」
涙でぼろぼろの私が王子様だなんて笑われてしまうだろうけど、気になっていたことを聞いた。
「それでも迎えに来てって言ったわ、きっと」
彼女も泣いていたけれど、ちゃんと笑った。
「結婚おめでとう、心から祝福するよ」
涙ながらに伝えた嘘に、何度も頷く彼女はやっぱり眩しかった。
【Je suis proche de vous】 きむ @kimu_amcg
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