ジャコメッティの夢

うつりと

堀幸

 気が付くとぼんやりと淡く光る世界に包まれるように、私は居た。

色も風も影も何も無く、ただ淡く光る世界。

ひとつだけ、私が丁度沿って歩いて行けるほどの、道らしき黒い筋が足下に、此方から彼方まで延々と伸びていた。

黒い筋があることで、地面と、光に溶け込むように遙か彼方に地平があることを確認できた。

 私は、足下の黒い筋に沿って歩くことしか思いつかず、歩き続ければ何かを見つけることが出来るのではと、歩き出す。

 歩き続けてどの位経っただろう、不思議なことに私は空腹や疲労を感じなかった。

「こんにちは」

唐突に、私の耳元に囁く男の声があった。

背後から何かが近づく気配はなかった。

ハッと振り向くと、そこには驚くほどに細長い男が立っていた。

顔の輪郭、胴体、両腕、指、両脚、そして黒い筋に屹立する両足、身体を構築するあらゆる部分から血肉を全て削ぎ落してしまったように、細く、今にも折れてしまいそうで、私は見ていて辛かった。

男からは生きている温もりが感じられなかった。だが、表情は茫洋としているものの、その両目には、何かを悟ったような、不思議な力が篭っていた。

 私が二の句を継げないまま、男は言葉をつづけた。

「ジャコメッティ先生のおかげなのです。何もかもすっかり。ほら」

男は愛おしそうに自身の頬や胸を撫でた。

「何もない。本当に何も。やっと、これで、

ようやく」

そこまで話すと男は口を閉ざし、また黒い筋に沿って歩き去ってしまった。迷いのない確かな足取りで、男が地平の彼方に黒い筋と共に飲み込まれて見えなくなるのを、私は立ち尽くして見送った。

 そして、私には「ジャコメッティ先生」という言葉だけが残された。ジャコメッティ先生とは一体何者なのか。地平の彼方に消えていったあの男に何を施し、何を無いものにしたというのか。

私に出来るのは、やはりこのまま前へ前へと歩みを進めることだけだった。

歩み続ければその先生とやらに邂逅できると信じ、私は歩みを再開した。

 この黒い筋には終わりがないように思われた。依然として空腹や疲労を感じることは無いまま、私は歩いた。ただひたすらに、無心に歩き続けた。

 果たして、黒い筋の傍らに一点の黒いものが認められた。

「ようやくか」

その一点に向けて歩む私の身体にも力が漲った。

近づくに連れ、それが煉瓦造りの小屋であることが分かった。

小屋の中からは、男の呻き声が聴こえる。

私は黒い筋から外れ小屋に一直線に近づき、

躊躇うことなく板張りの粗末な扉を蹴り開けた。

 小屋の中には異様な光景が広がっていた。

呻き声の主と思われる男が両手を荒縄で縛られ、天井から吊り下げられている。

そして、その傍らに、もう一人の男が立っていた。櫛を通していないくしゃくしゃの髪、

太い眉、額や頬に深く刻まれた皺、そして窪んだ眼窩の底から、深い悲しみと優しさを湛えた、あらゆるものを見透かしているのではと思われる両目が静かに光っていた。

彼の足元には例えようの無いどろどろとした何かが散らばっている。どろどろとしたこの何かを、そうなる前の姿であった時のその何かを、私は知っている気がする。

 男の目が私を見透かすように捉え、そしてこう言った。

「よく来た。私がジャコメッティだ」

一旦私から視線を外し、足元に散らばっているどろどろとした何かを一瞥するとまた私に視線を向けてこう続けた。

「私はここで、人を、人があるべき姿に戻しているのだ。悲哀、苦渋、絶望、憤怒、豪奢・・・これらは全て、人が生を受けた時には備わっていなかったものなのだ。それは必要のないものだから。この世に月日を重ねるうちに、これらはどんどんと苦しく、醜い姿へと人を肥やしていくのだ。だから私はこうしてこの手で・・・」

ジャコメッティの両手が、子供が浜辺で砂遊びをするような、澄んだ川面から水をすくうような形に合わさると、吊るされた男の身体にとぷんと入っていく。そして、何かを掻き出すように、その両手を床に向けてざくり、ざくりと動かしていく。

床の上にはどろどろとした何かが嵩を増していく。

「この手で削ぎ落しているのだよ。人をあるべき姿に戻すために」

額に汗しながらジャコメッティは手を動かし続ける。吊るされた男は、苦悶とも快楽ともつかぬ表情を浮かべ、呻き声を上げている。

その身体は、あの黒い筋で出会った男のように細長く変わっていく。

ジャコメッティは私に言い放った。

「君もそのためにここへ来たのだろう。あるべき姿に戻るために!」

ああ、どおりで私は床の上に散らばるどろどろとしたものを知っているはずだ。私は強い眩暈を覚える。

・・・ポオオォォンンン・・・

どこかでチャイムが聞こえる。私の意識は混濁し、床に崩れ落ちた。

 

 ・・・私は目を覚ます。

磨かれたリノリウムの床に、天井の蛍光灯の光が反射している。よく見ると幾多の人が往来してできたと思われる飴色の筋が床に出来ている。

目を上げるとそこは精神科の待合室だった。

待ち疲れて眠ってしまったようだ。

天井のスピーカーからポーンというチャイム音に続いて、ざらざらと声が響く。

「百十番の番号札をお持ちの方、一番の診察室へお入りください」

両手に握りしめた私の番号札は百十一番。

次が、私の番だ。

                  終

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ジャコメッティの夢 うつりと @hottori

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