spectre
絵空こそら
spectre
取り壊しが決まったからいいものの、ここ、205号室。酷いもんだよ。壁も床も、落書きだらけでねえ。こどもみたいな小っちゃい男と、愛想のない女が住んでたが、おとなしそうな顔してやってくれたわ。まあ家賃はちゃんと振り込んでたし、何よりほら……ちょっとした天国みたいだろ?なあんか毒気抜かれちまってねえ。こりゃ壊すのが惜しいわ。
ドアを開けると、観月が真っ青になっていた。比喩ではなく。
おそらく絵具か何かを大量に被ったんだろう。生活感のない部屋、青い水溜まりの中心で彼はぼんやり窓の外を見つめている。
「何やってんだよ」
「空とお揃いにしようと思って。でも、変わっちゃったなあ。朝は一色だったのにな」
「当たり前だろ。一日同じな訳あるか」
窓の外は暮れている。一応常備しているキャンバスは白いままだ。私は溜息をついた。奴を風呂に入れなければ。
観月とは、高校からの付き合いだ。同じ部活だった。
勉強もスポーツも、その他諸々平均点だった私が平均以上になれた唯一の武器は、絵だった。その武器も、入学早々粉々に砕かれたのだけど。
大きなコンテストの最優秀賞をとったのは幽霊部員の、顔も知らない奴の絵だった。昇降口の真ん中に、立派な額に縁どられ飾られていた。
ふつう、そういう状況に置かれた場合、「あそこにあるのは私の絵のはずだったのに」といういじいじした嫉妬心が胸に渦を巻くのだったが、その時は嫉妬の嫉の字も浮かんでこなかった。
私はただその絵の前から動けなくなった。なんという極彩色。私の作風と似ていたが、それよりももっと、完成された美しさだった。そうだ。私が描きたいのは、こんな絵だった。人間の視認できる以外の色、宇宙の真理のひとかけらを突き付けられるような。
それから私はぱったりと筆を折った。というか、描きたい欲が完全に浄化されてしまった。私の代わりはいくらでもいる。代わりどころか、それ以上のものが。
ところが、絵の作者-観月俊太は昇降口から絵を無断で持ち出し、科学室のアルコールランプでそれを炙った。血相を変えた教師陣によってなんとか火は消し止められたが、きんきらの額縁には瑕がついてしまった。その一件以来、なぜか観月も絵を描かなくなってしまった。
水色の泡を立てながら、観月の髪と身体を洗う。一糸纏わぬ姿だが、ひとつも性欲を刺激されない。彼は成長してないように見える。性格も体格も、仕草なんかも。生活能力もない。だからこうして、私が世話をしに来るのだ。別に彼が好きだからではない。そのうち絵を描くかも、という淡い期待があるからだった。飼育小屋の餌やりに似てる。鶏ちゃん、今日は卵産んだかな?みたいな。私の鶏くんは今日も卵を産んでくれない。
そもそも、おかしいのかもしれない。卵を産まない鶏を飼っていること。ペットならいい。愛着だけで、大義名分になる。でも私はあいつを愛してるわけではないのだ。貯金も底をついてきた。潮時かもしれない。
「私、明日から来ないから」
髪をタオルで拭いてやりながら、思い付きで宣言した。観月は「うーん」と聞いてるのか聞いてないのかわからないような返事をした。私は立ち上がり、値引きされた惣菜と水を置いて、部屋を出た。
再び訪れた部屋は、真っ青になっていた。壁も床も、色んな青色で塗られている。その中心で倒れている男がひとり。大量の絵具、毛先の広がった筆とともに転がっているそいつは、随分痩せたように見える。食べてないのかもしれない。
部屋の色と同化した彼の、唯一黒い眼玉がこちらを向いた。
「……あの時、よぞらは極彩色だって言った。他の人は同系色での濃淡がどうのって言ってたけど、おれもカラフルに彩ったつもりだった。よぞらにはわかったんだ。それだけで、救われた気がした。満足だった。だから描くのをやめたんだ。それなのに、おまえはもっと描けと言う。おれに描けるのはせいぜい、こんな青の斑の、みっともない落書きだけだよ。あの絵だって、同じようなものだった。それを極彩色と呼んだおまえこそが、描き続けるべきだったんだ」
観月の目は身体の全部の生気を一か所に集めたのかってくらい、きらきらしている。なんだそれ。今までちゃんと目を合わせてくれたことも、言葉をかけてくれたこともなかったくせに。私のために絵を描いてくれたことなんて、なかったくせに。
「頼むよ、よぞら。空白をお前の色で埋めて。おまえには世界が、どんな風に見える?」
なんだそれ。今更、私に何を描けというのだろう。私が描きたかったものは、なんだったろう。あの絵を思い出す。青く、青く、でも初めて見る色ばかりが煌めいている絵。
私は震える手で、絵筆をとった。
spectre 絵空こそら @hiidurutokorono
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