チベットの幽霊

カイクウ

チベットの幽霊


 それは、チベットを旅していた時のことです。

 チベットと言うのは、中国の西部にあり、ヒマラヤ山脈を含む標高三千メートルを超える広大な高原で、人間はおろか、動物も植物さえもほとんど見かけること出来のないような過酷な場所です。こういう場所で事故にあったり、体調を崩したりすれば、下手をすればそのまま野垂れ死にしてしまうことも十分にあり得ます。その上、その時私がいたのは、非開放地区と言われる、外国人が入ることを禁じられている場所でした。勿論そんな荒野ですから、警察と出くわす自体も殆どあり得ないのですが、それでも不運にも見つかったりすれば、逮捕される恐れがありました。

 そんな危険な場所でした。現に、私がその土地を旅した前年、高山病にかかり倒れていたところを運悪く警察に見つかった一人の日本人バックパッカーが、ろくな治療も受けられぬまま留置所で息を引き取ったという、真偽は定かではないものの、旅人の間ではまことしやかに囁かれる、そんな恐ろしい噂があった程です。

 でも、私はその土地へと出かけました。その頃のバックパッカーの間では、その旅が危険であればあるほどかっこいいという文化があって、若くて馬鹿な私は、何も考えずにその危険の中に飛び込んだのです。ただ、高地で倒れないような体力づくりをする、外国人とばれないような服装・髪型をする、警察の検問がある場所は夜中にこっそり通過するなど、十分な準備と警戒をした上での行動ではありました。そして幸いなことに、高山病で倒れることも、警察に逮捕されることもなく、雄大なチベットの風景、興味深いチベット文化を十分に堪能した上で、私はその旅を無事に終えることが出来たのでした。


 そんな旅の中での、出来事です。

 ツォゴンという村で私は、村で唯一の宿に泊まりました。吹けば飛ぶような小さな木造の平屋、ゴミと埃と汚れで満たされた壁や床、もう何年も交換されてないのだろうベッドシーツ、そんな場所ではありましたが、まともなホテルはおろか、コンビニもなければ夜七時には真っ暗になってしまうような場所です。長い移動に疲れ切っていた私は、夕食後すぐに眠りに落ちました。

 それから何時間か後、私は尿意を覚えて目を覚ました。トイレに行こうと思い身を起こそうとしましたが、そこで躊躇いました。トイレは窓の外、中庭の向こうにあるのですが、秋とはいえ高地の夜、室内ですらひどく寒いのです。暖かい布団から抜け出す勇気を中々持てず、私は暫く尿意に耐えて布団にくるまったままでいました。

 そんな時です。私はふと、ベッドの脇にある窓ガラスの向こうに、大きな影があることに気付きました。外は暗い上に、それはひどく汚いすりガラスであったため、その姿はよく見えませんが、それでも、人影であることははっきり分かりました。

 こんな夜中に、人が? 少し驚いて注視していると、その人影は窓の向こう、右手から左手へと進んで行き、見えなくなりました。コツ、コツ、という音が響いていきます。ひどく静かな僻地の夜中、その靴音が響き渡ります。

 私と同じで夜中に尿意に襲われた客だろうか。狭いトイレで鉢合わせするのは嫌だな、何となくそう思った私は、もう少し布団の中で我慢をすることにしました。

 と。暫くの時が経ち、私はおかしなことに気付きました。足音が、途切れることなくずっと聞こえ続けているのです。十分トイレへの往復が出来るぐらいに。おかしい、そう思ったその時、窓の外に、またあの人影があるのに気付いたのです。

右から左へ、窓の向こうをゆっくり通り過ぎて行く人影。

 眠れない人が散歩でもしているのだろうか。そう思う傍らで、嫌な予感が湧いてきました。途上国にはよくいるのです。深夜、窓から手を突っ込んで、眠り込んでいる旅行者の所持品を盗んでいくような泥棒が。泥棒がいる間にトイレに行ったりすると、その間に私の荷物を盗まれそうだ。それに外で泥棒に鉢合わせしたりすると、危険なことがあるかも分からない。そんなことを考えてしまうと、ますます動けなくなります。布団の中でじっとしたまま、全身の神経を耳に集中させて、ひたすらに外の様子をうかがいます。

 コツ、コツ、という足音はやみません。ずっと、ずっと響き続けます。遠ざかったり近付いたり、どうやらその広い中庭をぐるぐる回っているようで、数分おきに、窓の外を人影がゆっくり横切ります。

 ただの散歩にしては長すぎる。けれども、泥棒にしては目立ちすぎです。訳が分かりません。どういうことだろう、私が混乱している内にも、尿意はどんどん増してきます、そして足音はやみません。

 コツ、コツ、コツ、コツ……。

 そのまま十分ほど経ったでしょうか、いよいよ尿意に耐え切れなくなった私は、ついに覚悟を決めました。そっと布団から抜け出すと、突き刺すような冷気の中、貴重品のみならず、着替えなど入ったバックパックをも手早く身に着けました。これでトイレに行っている間にベッドから盗まれることはない。万一襲われたとしても、大声で騒げば宿の誰かが起きだしてくれるだろう。覚悟を決めて、私は歩き出しました。

トイレは中庭の向こうにあるのですが、私のいた部屋から直接中庭につながる扉はなく、一旦廊下に出て、建物の端まで行かねばなりません。出来るだけ外の人影の注意を引きたくはない、けれども尿意は差し迫っている。私は物音を立てないよう忍び足で、しかし出来るだけの速足で歩きました。そしてようやく中庭につながる扉に到着、音を立てぬようにそれをそっと押し開けました。

 驚きました。中には人影などないのです。広い中庭、照明の光は乏しいとはいえ、視界を遮るようなものの何もないその中庭、そして物音一つしない僻地の夜、人の気配に気づかない筈がありません。

 なのに、どれだけ見回してもそこに誰もいないのです。私は茫然としました。ベッドを離れて数十秒。足音を忍ばせて歩いてきたのです、その間に中庭の人影がどこかの扉を開けたりしていたら、必ず気付く筈です。

 けれども、そこには誰もいない、ただただ静寂があるだけ。訳が分からず、私はただ茫然とその中庭を見回していました。


 その夜にあった奇妙なことは、それだけです。トイレですっきりして部屋に戻って来た私は、怯えながらも目を閉じていると、すぐさま深い眠りに落ち、翌朝早くにその村を離れたのでした。

 ただ、不思議な現象は終わりませんでした。

 その後、さらに数か月の間私はチベットを旅しました。宿に泊まれたことは少なく、極寒の荒野の中で震えながら野宿した夜も多くありました。

 そしてそんな中で二回、私は同じような経験をしたのです。

 荒野の夜、寝袋の中、夜中にふと目を覚ますと、人影がぼんやり見える、足音が聞こえる。暫く待ってもその足音はやまない。しかし起き上がり、ライトをつけて周囲を見回すと、そこには人影はない、足音もやんでいる。


 幽霊なのかな、と私は思いました。

 同じ場所をぐるぐる回る、そういう行為をするチベット人は大勢います。コルラと呼ばれるその儀式は、聖なる山や寺院などの神聖な場所の周囲を周回することで、これをすれば現世の罪が赦されると信じられており、そのコルラをするためだけに何年もかけて旅する人も大勢いるほどです。

 でも、私がその人影を見た場所は、聖なる土地などではなく、古い宿や、何もない荒野の中でしかありません。しかも、最初に見た宿での人影はともかく、その後の荒野は、隠れるような場所すらないような土地です。普通のチベット人がコルラをするような場所でもないし、突然消え去ることが出来るような場所でもないのです。

 ということは、その人影は、コルラをしている途中に死んだチベット人の幽霊なんだろうな、そして旅をする私について、巡礼を果たしたいんだろうな、私はそう確信しました。

 しかし私は、それほどの恐怖を感じませんでした。

 人工物の何もない荒野、そして満天の星空。まるで宇宙の中にいるような場所。空気同様、何か現実感も薄い世界です。三度のその奇怪な体験のみならず、チベットで遭遇したあらゆることが、現実であることははっきり認識出来ていても、同時に、まるで夢の中の出来事のように感じられてしまっていたのでした。

 やがて私はチベットの旅を終え、無事に日本に戻りました。それ以降、そのような体験をすることは二度とありませんでした。


 それから数年後のことです。

 私はチベット文化に詳しい一人の日本人男性と知り合いました。あれこれ語り合っている時に、ふとその幽霊のことを思い出しまし、その話を彼に語ったのでした。

「人が住めないような土地でも、幽霊は住んでいるんですね」

 私が冗談っぽくそう言うと、彼は、それはありえません、と即座に否定しました。チベットには幽霊はいません、と。

 幽霊を信じない合理主義者なのか、私は一旦そう思ったのですが、そうではありませんでした。彼は言うのです、チベット人は死んだらすぐに輪廻転生をし、次の生命に生まれ変わるのです。恨みが残ることなんてあり得ないのだから、幽霊になることもあり得ないのです。だから、チベットには幽霊はいないのです、と。

 私は少し驚いて、それでは、私の見た幽霊はいったい何だったのでしょう、と尋ねました。彼は首を傾げて、チベット人でないのであれば、外国人が何かの幽霊じゃないですかね、と答えます。

 凄い奥地だし、非開放地区なんだから、そんな場所に外国人なんていませんよ、と私は言い返しますが、彼は笑って、でもあなたはそこに行ったのではありませんか、と言います。それはそうですけど、でも。

 そこまで言ったところで、私は不意に思い出しました。私がその土地に行く前年、そこで死んだバックパッカーの噂を。

 チベットの旅の途中で客死した、日本人の噂を。

「その人が、どうしても日本に戻りたくて、同じ日本人であるあなたの後をついてきたのかもしれませんね」

 彼は静かにそう言いました。

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