第2部 17
「よくきた。また会うとは、思っていたが」
寮から北へ車を走らせる。
一五分ほど走ったところで、「ふぅぅ」と息を吐き出した、実家のある蓑町に、入った。
実家にも暫く帰ってきていない。このところ市街での事件が多く忙しかったし。
いつ以来だろうか。
随分久しぶりにきたように思うが、柳町に転勤する前だからせいぜい七ヶ月か。
「何年ぶり」という感覚が先走ったが、まだそんなものか。
少し回り道になるが、実家の前を通り、さらに北へ。
T崎市に近い場所から、この町もいろいろ変わっている、田圃や畑はコンクリートで舗装されて店やらなにやらが建てられていた、小学生の頃はどんなだったろう、あの頃に比べて、町は良くなっているのだろうか。「良く」とは、あまりに漠然としたいい方だが。
小学校をさらに北へ。窓を少し下げる、風が冷たかった。
この辺りは昔とあまり変わっていないようだ、昔から田圃や畑、城山などの茶色や緑が多かった。町内でも「田舎」扱いされてたんだから。
狭ければ狭いなりに、そこに格差を生み出すものだ。
目的地に着いた。門を入り、駐車場に車を停める、農業大学校に、到着した。
「場所はすぐにわかったか? そうか、きみはこの町の生まれだったな」
「一人できたのだな。そろそろ警察からまた連絡があるかと思ったが、ない、きたのはきみからの電話だけだ」
「……」
「これでは心配になるな。警察のマークに対する認識がこの程度では。その重要性、有効性、危険性を未だに把握していないでは。きみからいってやればいい」
抑揚のない声が、タクヤの鼓膜を引っかくようだった。
「関係者以外で中に入るのはきみが、初めてか、そうか。ま、みていってくれ。きみにはその資格があるのだし」
そういう意味では、やはりきみも関係者か。
独り言のようにペラペラと出続けるその言葉に、タクヤは憤りとも哀しみともつかない感情を持て余した。
反論しても、あるいは怒りを表しても、感情の発露は即ち過去を認めることになる。
事実だとはわかっている、受け入れているはずだが(今タクヤが手にしている力がその証なのだし)、「真実」を前にして、その背中に向かって、なにをぶつけることもできなかった。
そんな自分がまた情けなかった。
一連の感情の動きそのものが、
――まだまだ未熟ということ。
中島が警察官相手にマークの話をするのはこないだ五月が初めてではなかった。
「一年半、いや、もうすぐ二年になる。きみもどこかで話くらいは聞いたか? そうか」
中島の問いに、タクヤは短く「ああ」と答えただけだった。
「話くらい」といったが、それはまさに「くらい」という程で、内容は知らない、そういうことがあった、そこに警察の代表と県の役人、他に自衛官が数人ずついた、ということくらい、聞いただけだった。
そのときも、内容を詳しく知る、調べるという空気は皆無だった。タクヤにとっては、ありがたいくらいなものだったが。
「幾つか聞きたいことがあってき、きました」
この男を相手にしてそんな些細な丁寧語が使えたなら、上等だ……。
まず、あの「臭い」はなんなのか。
「マーカーの臭い。それはずばり体臭だ。すなわち、マークあるいはマーカーに特有の臭いということではなく、その人の体臭が強くなる」
汗の匂いの元は、脇の下と陰部に多くあるアポクリン腺から分泌する汗にある。
ただし、アポクリン腺から出る汗はもともと無臭であり、皮膚に暮らす微生物がこの汗を分解することによって初めて臭いが出る。
「そうはいっても、鼻が曲がるほど劇的に臭くなるわけではない。一般の人ならスルーしてしまうほどの違和感、それをマーカーは感知する。マーカーはマーカーを知る。マーカーがマーカーに対して敏感になるというのはあるだろう」
ある種の防衛本能とでもいえるかな。
「余談になるが。臭いの素となる細菌群を取り除こうと抗菌剤の入った石鹸を使い、具体的にはトリクロサンやトリクロカルパンなどだが、そういったものが入った石鹸で体を洗うと、細菌を殺したのだから臭いも消えそうだが、そうはならない」
そもそもいるべき細菌がいなくなると、そのスペースは別の細菌によって埋められる。
「コリネバクテリウムという細菌が増えると、臭いはさらにきつくなる。石鹸で体を洗えば洗うほど不快な臭いの素となる微生物が増える、悪循環というやつだ」
そもそも、皮膚に住むマイクロバイオームは、病原体などに対する防衛線となる皮膚をさらに保護する保護膜になっている、殺菌や抗菌などは健康のために、体のためには不要であろう。
「もちろん、命を脅かす細菌はいる、その特定の細菌を殺すためにクスリや医療が果たす役割は大きいではある。潰瘍や胃癌のリスクが高まるといわれるヘリコパクター・ピロリ菌、もちろんリスクであり、ピロリ菌がいなくなれば胃癌や胃潰瘍のリスクは減る、しかし、それによって別のリスクが高まる、別の様々な病気のリスクがな」
詳しい話はまた後にするか。
中島は真顔でそういった、まるで学校の先生が生徒にいうように。
続いて、タクヤは中島に窃盗団の一人が殺された話をした。
なぜマークを飲ませたのか、睡眠薬入りのマーク、あるいはマークと一緒に睡眠薬を。
酒を飲ませて酩酊状態にして川に浮かべるだけでもよさそうだ。
手の込んだことをすれば、それだけ犯人の特定につながる足がかりを増やすことになる。
中島は少し考えて、
「これは、はっきり実験などしてデータがあるわけではないが、マークを飲ませ、マイクロバイオームに影響を与えることによって死亡推定時刻をずらすことができるのかもしれない」
一拍、なにか考えたあと、「うん」と一人で小さく頷いて、
「マイクロバイオームの働きが通常と異なれば死体現象の進み具合も普段と異なり、死亡推定時刻の割り出しに影響するかもしれん」
中島はそこでまた一つ考える、「ふん」と、今度は幾らか気が抜けたような。
「まあ、死体現象はもともと個人差があるため、ある程度の幅を持たせて推定はしている、その数時間の幅を超えるほど大きく影響するとは思えんが」
二人は今、地下実験施設の中の小さめの会議室にいる。今、二人は二人だけで話をしている。
「上でもよかったんだが、せっかくなんで下を案内しよう」
と、エレベーターで地下に降りてきた。会議室に通される、最初にコーヒーを男性が持ってきたきり、あとは二人きりだった。
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