第1部 8

 四月、平日の午前中。農業大学地下研究施設内会議室。

 加藤が「失礼します」と申し訳程度に声をかけて中に入った。中には所長中島一人がいるだけだった。

 会議室にいた他の数名を、加藤はエレベーターまで見送りに出て戻ってきた。

 ピンと背筋の張った歩き姿やその足音、何から何まで角張った感じの人間たちだ。

「ロ」の字に作ったテーブルの、入り口から一番遠い場所に、中島がこちらを向いて座っていた。

「向いて」というが、目は閉じ顔は少し俯いて。

 加藤が入るのをはかったように「ふぅぅ」と大きく息を吐いた。

「こういうのはなかなか慣れないものだな」

「今度からはあの人たちとも仮面を被って話してみてはどうです」

 加藤はいいながら、プロジェクターやパソコンを片付ける手を止めない。

「怒るだろうな、彼らは」

「怒るでしょうね」

 そういう意味では、あの中学生のほうが大人げがあるのかも。

「そういう意味では、中学生のほうが大人といえるかもしれん」

 中島の言葉に驚いたり嬉しかったり。

「結果だけをみせろというのは、厳しいというよりは怠慢だといえる。結果だけを示せというのは、自分は結果だけからしか判断できない、能力のない人間だというのと同じだ。そういいながら経過を評価できるのが『人』というものだがな」

「彼らは違いますか」

「違うな。頭が固すぎる。こっちのいうことを半分しか理解できないということはないが、一二〇%読み取るということはしない。

 仮面などして会えば『なんのつもりだ』とでもいうだろう。中学生のほうが柔軟だ、よくいわれることだがな。

 その柔軟性は歳とともに失っていく。得るものの代償として支払っていってしまうのだろう。誰もがな。無論わたしもだが。残念だ」

 仮面は子どもらしさの象徴ではないか。

「ま、だからこそ利用できるというものだがな」

 加藤の思いを、今度は中島が言葉にすることはなかった。

 しゃがんでいた加藤が手を止めて立ち上がった。「ふう」と一つ息を吐きつつ。

「人類の革新のためですか」

 きみもそういう言葉を使うようになったか、と中島は少しからかうようにいって後を続けた。

「知恵の林檎を一度口にしてしまえば食べる前に戻ることはできない。後戻りはできん。

 そう、革新のために、よりよい革新のために、進まなければならない。間違うことのないように」

 加藤は微笑を消して片づけの手を再び動かし始めた。少し調子にのった自分を加藤は戒めていた。

「やつらもわたしを利用しているつもりだろうが。イニシアチブは無論こちらが握っている」

 続けて浮かんだ言葉を、中島は声にはせず、ニヤッと笑った。

 不敵な笑みを浮かべて、とでも小説なら書くのだろう、などと思うと、不敵さが自ずから薄れたようだ。

 中島の心に巣食った傲岸さは本物だった、それが先ほどまで話をしていた連中だけに向けられたものでないことを、中島本人は承知している。中島は常に仮面を被っている。


 昼休み、突然の天気雨。リクは校庭にいた。

 生徒たちの声が一際沸いた。

 ふと、体育館に入る渡り廊下に目が止まる、カイだった、アユムだった。他に三人。

 リクは空を見上げた。顔に当たる、でもみえない。透明な雨が降る。

「あれ、リク?」

 リクは友だちになにもいわずにそこを離れた。空は明るかった、体育館は暗かった。

 透明な雨が雲を払った。体育館の屋根が放った光に、リクは目を細めたが、それは無意識だった。暗くて重い体育館に、リクは入っていった。

 

 体育館の北側はステージになっている。もちろん幕は開いているが、舞台袖は薄暗くひっそりとしている。

 バスケットボールやバレーボールで遊んでいる生徒たちの声はそれほど遠くない。あえてこっちに入ってきて遊ぶものはほとんどいない。

 午後の授業に備えて体育館から生徒たちの気配が徐々に薄らいでいく。舞台袖で仰向けに倒れていた二人はまだ立ち上がらない。

「顔はやめとけよ、面倒だから」

 アユムのその指示に沿って、腕や腹や脚を殴られ蹴られた。

 ――いつもこんな目にあっていたのか。

 そう思うと、リクの目に涙が浮かんだ。アユムたちの顔を思い出して、涙が盛り上がった。

 涙を拭って上体を起こした、一つ息を大きく吐き出した。真っ直ぐ前をみて、いった。

「僕は、あいつをやっつける。マークを使って。走って、体を鍛えて。豆とか野菜をいっぱい食べて。小林をやっつける」

 スッと、隣のカイは一気に立ち上がっていた。

「俺は、殺すよ。小林を」

「え!?」

「殺して、俺も死ぬ。人を殺すことはよくないことだから」

「うん」

 といってリクも立った、そしてカイのほうを向いた。

 ――カイ、こんなに大きかったんだ。

「僕も。小林を殺して、僕も死ぬ」

 いつ以来だろう、カイとこんなに近くで話をするのは。小学校のときは「僕」のがちょっと大きかったのに。今は……。

「ダメだよ。リクは、お父さんとお母さんがいるじゃん。死んじゃだめだよ」

「カ……、カイだって、お父さん……」

 そこから言葉が続かなかった。リクはカイに押されていた。

「リク」と呼ばれて驚いた、「カイ」とすぐに呼び返すことができなかった。カイは、強いんじゃないか……。

「俺はいいんだ。とにかく小林を殺すのは俺だから。リクは他のヤツラを頼む」

「わかった」

 としかいえなかった。

 やべ、急がないと。そういって走り出したカイの後ろをリクもついていった次の授業はなんだっけ。

 近い。カイの背中が、この日はなんて近いんだろう。久しぶり、懐かしい、しっくりくる。

 前もそうだったんだっけ。カイが前を走って、「僕」が後からついていく。

 思い出の中だった。過去と現在がつながる。リク自身、沸き立つものがあった。

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