第2部 21
一〇月二八日水曜が翌日木曜へと変わって一時間ほど。
タクヤは、飲み屋にいる、といっても「バー」である。
バーなどというとこにはほとんど入ったことがない。もちろん一人ではなく、もちろん真下もいる。
真下、ジュンペイ、そしてマキもいた。
薄暗い室内で、意外ではあるがマキであることはすぐにわかった。
わかった後に不思議さがくる。「あ、意外なことだな」と自分にいう不思議。
落ち着いた雰囲気で、嬌声飛び交う居酒屋などより入りやすいくらいだった。
タクヤたちのほかに男性客ばかり五、六人。
店の一番奥のテーブルにいくまで、彼らの視線を浴び続ける。
「入りやすい」といったが、多少の違和感。
真下たちの席につくと、顔を戻す、ちらっとみた男性二人組、二人の会話に戻る瞬間「にやっ」と笑ったようだった。
元自衛官を自衛隊が追っているという話は真下たちにしていた。
清水と外処という名前。その名前から直接現在の二人の活動が追えるわけでは無論ない。本名で動いてることはほぼないであろう。
さすがに自衛隊のコンピューターへの侵入はリスクが大きいという。難易度も高いが、やってやれないことはないが。
「なんせ、軍事情報ですから」
しかも、元自衛官を追っている、などという情報は自衛隊の中でも広く共有されるような情報ではない、一部、ほんの一部の人間だけが知りえる情報であろう。
「入れるところからとりあえず入って」で得られる情報、辿りつける情報ではあるまい。
ハイリスクローリターン、あるいはノーリターン、で命をとられるではかなわない。
「警察と自衛隊が連携しているということはないんですか」
マキは、こないだから警察の内部データにはちょくちょくアクセスしているという。タクヤのアカウントを使って。
「平巡査の権限じゃねぇ」
「悪かったな。こちとら現場第一だ」
「出世しない人間の言い訳第二位ですね」
うるさい。じゃあ一位はなんだ……。
「研究所のアイツの話じゃ、警察からの接触はないってことだったな、もっとも、俺には話さないって確率はあるだろうが。ただ、個人的な感触として、警察からの接触に関しては隠していない、ほんとのことをいっているという感触はある、がな」
タクヤの祖父とは旧知の仲だ、警察がらみのことでは恐らくタクヤに嘘はいわないだろう、警察という組織(名前)に対して敵対心あるいは嫌悪感のようなものを抱いている、というような感触さえある。
なにからなにまで感触ではあるが。
「もちろん、窃盗団を追ってはいるだろうが、マークということに関して、果たしてどれほどの人間が本質を認識しているのか」
疑問だ。聞き取りを思い出す。
「自衛隊がソイツのところにいったのは、恐らく、ソイツと清水が接触しているのじゃないかと考えたんでしょう。ずばり、マークを窃盗団に流しているんじゃないか、と」
「そうだろうな」
「農業大学もまだ見張られている」
「その可能性は、ある、か……」
思わず、視線が動いた、入り口は背中になる、入り口を振り返ってみることはしなかったが、辺りを警戒するように、必要最小限で視線を左右に這わせた。
――まさか、俺のほうをみて笑ったのは……。
「自衛隊がタクさんにいきなり接触してくることはないでしょ。タクさんが警察だってこと知ってるかどうかわかりませんが。警察と連携していないとなれば、向こうもことを大袈裟にはしたくはないってことかと」
――あの野郎、そこまでわかってて俺をあの地下施設に案内しやがったか。
「ただ、時間がかかるとわかりませんが。形振(なりふ)り構ってられないってことになれば」
脅かすなよ。
「早めに捕まえないと、もしかしたら俺までどうにかされちまうってか」
警察官としてその中にいると、警察「権力」に対する恐怖や畏怖はない。
ある意味それは、市民レベルで考えれば「怖いものがない」ということと殆ど同義だろう。
その考えを改めている。
自衛隊というものの中にある「裏」自衛隊ともいうべき存在。
具体的に体感しているわけではないが、その印象だけで、なにか、少しずつつ少しずつ水の中に引きずり込まれている、そんな得体の知れなさを今、タクヤは感じ始めていた。
「タクさんは、なんで、窃盗団を追ってるんですか、一人で、というか、俺たちなんかと」
「なんで?」
「だって、捕まえられないじゃないですか。捕まえても捕まえられない」
それは……。
「俺たちがヤツラに追いついたとしても、捕まえられないんじゃないですか。なんていって説明するんですか? 非番で町歩いてたらたまたまみつけたって。いえませんよね」
緩いBGMが流れていた。ジャズだろうか。
タクヤにはこの曲がなんという曲かはわからない、ゆったりと流れるピアノ、サックスの音が、優しく、タクヤの心を、締め付ける、首を絞めるように。
非番の日など勤務時間外に、一般市民と窃盗団を追っている、なるほど、捕まえられないだろう。
なんでそんなことをするのか。
タクヤにもわからない。というか、今まで考えもしなかった、考えないようにしていたのかもしれない。
「どうぞ」
「え?」
タクヤの前にカクテルが置かれた。濃い灰色が上から段々グラデーションで薄くなり、一番下に白い層が沈んでいる。
「あちらのお客様からです」
掌で指したマスターの腕の逞しさ。太くはないが鍛えられている「針金を束ねたような」という時代小説の名手の言葉が浮かぶ。
タクヤがきたときに笑顔をみせた二人組みの一人だった。
「タクさん、見初められたみたいだね」
「ん?」
見初められた?
「知りませんでした?」
なにを……?
「ここ、ゲイバーですよ」
「はい?」
ゲイバーって、あの、ゲイバー……。
なるほど、ジュンペイが大人しいと思ったら。
「あれ、タクさん、ノンケだったんすか? てっきりGかと思ってましたよ。全然女ッ気ないから」
「いや……」
真下とジュンペイが大きく笑った。
真下がタクヤに顔を近づけ少し声を落とす、笑顔のまま。
「飲んだから今夜この後……、なんてことじゃないですから。飲んじゃってくださいよ。あの人の自己満足でもあるんです。もちろん、タクさんもオッケーなら、それは大人同士のことですので」
考え込むタクヤに向かって真下が呟いた言葉がよかった。
「楽しみましょうよ」
その通り、楽しもう、たまには。
「いただきます!」
相手に向かってグラスを顔の高さまであげ、軽く頭を下げた、そして「ぐいっ」と大きく一口。
一気にいこうと思ったが、半分ほどで手が下がってしまった。
職業柄もあるが、普段から酒など飲まないタクヤである。みた目と違い、甘くて美味しく、少しほろ苦い。けっこう強い。
なんかわからんが、涙が出そうになった。一瞬で酔っていた。
タクヤは、その後、その二人のところにいって話をしていたという、さらに酒も飲んだという、真下たちと一緒に、その二人と一緒に外に出てきて、そこで
「じゃあ」
「ごちそうさんでした~」
と別れた、という。途中から、記憶が薄らいだ夜だった。
「いいんですか? こっちに遠慮はいりませんよ」
「明日仕事だとさ」
「おじさん、ふられたのかよ」
「ふられたさ、俺なんざ」
「はは」
とジュンペイが笑った。
「楽しかったすか」
「楽しかったよ」
記憶はあったさ、割とはっきりと。敢えてぼかしをいれていた。そう、楽しいから。
当たり前だが、「俺」が知らない世界などまだまだある、知ってることの少なさをを知った、そんな夜だった。
交番のお巡りさんの日常は忙しく過ぎていく。
喧嘩、置き引き、交通事故、空き巣やひったくり、迷子の面倒に、果ては交番を知り合いの家かなんかと思って立ち寄る酔っ払い。
永井や斉藤たちが顔をしかめる中、タクヤはそんな酒の臭いを撒き散らすおじさんも嫌いではない。
……。
ある夜、押しオート麦にナッツ、バナナの入ったボウルに牛乳をかけたものをときどきスプーンですくって口に運び、アラン『幸福論』を読む男のいるスナックがある。
ある夜、ジャケットの内ポケットからベンヤミン『暴力批判論』をちらっと出して戻す男の足元に四、五人の野郎どもが低く呻きながら転がっている路地がある。
ある夜、枕もとの灯りで広津柳浪『今戸心中』を読む男の隣に裸の女が眠るベッドがある。
ある夜は公園でパソコンの画面を眺め、ある夜は道端で馬鹿話に楽しそうに笑い合う真下がいる。
いずれの真下の横にもジュンペイがいて、近くにさぁがいる、ときどきマキがマスクをして座っている、ベッドにいるとき以外の真下。
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