第2部 4

 ネットにその論文が出たのが半年ほど前の十月頃。

『荒唐無稽』『まともな研究とはいい難い』『同じ腸内細菌を研究するものとして恥ずかしい』『映画のみすぎ』などと嵐のように批判を浴びて炎上、一ヶ月もしないで削除された論文の名は『マイクロバイオームカプセルの経口摂取による人身体能力の増強について』。

 発表されたサイトからして国際的にはもちろん国内においてもほとんど権威はなく、ときにいかがわしいと思える論文が載るようなサイトだった。

 話題になることのない論文がほとんどという中にあって、炎上したのがむしろ異例ともいえる。

 炎上させた、炎上させなければならない。

 論文を目にし、そこに何かを感じたものたちはそう意志したかもしれない。

 事実、それを使った犯罪が起きているのだし。

 粗悪品、急造品にはアブナイクスリも入っている、とはいえ。

 中島が登壇する。話し始める。錠剤について淡々と説明していった、論文のことには一切触れずに。


「我々はこれをマークと呼んでいるが、このマークとは」

 マーク。

『Microbiorm Refecting Cupsul(MRC)』。

 微生物活性薬。ある程度の知識と施設、環境があれば作るのはそれほど難しいことではない。

 錠剤である必要性は持ち運びなどの都合だけで、液体でも同様の効果を得られるものを作ることは可能。

「ただし、一度に摂りすぎれば悪影響はでる。あるいは、酒と一緒に飲んだりなど、摂り方を誤れば弊害はある。一番重要なのは、中身もそうだが、本人との相性ということにつきる」

 質問があれば随時挙手を、という前置きがあった。

「犯人たちはネットを使って手に入れていたようだが、お勧めしない、皆さんも気をつけたほうがいい、もし使ってみようと思うのであればな」

 一人が手を挙げる。

「自分の腸内細菌というのは簡単に調べられるものですか?」

「操作としては難しくないが、時間はかかる、それなりに。それこそ、最近ではネットなどで調べてくれる機関もみつけられる」

 また一人が手を挙げる。

「薬剤に関しては? 数種類が使用されているが、なにか目的によって変えたりということがあるのですか? どれが一番いいとか?」

「薬剤は難しい、というのがわたしの印象だ。コントロールが難しい。確かに効果はあるが、リスクもある、反動とでもいおうか。犯人を捕まえられた方々はわかるだろうが。薬剤から高い効果を求めればああなる、ということか」

「では、中島先生は薬剤をお使いにならないのですか、その、マーク、ですか」

「使わない、ほぼ。基本的には自然由来とでもいおうか、自然なものから抽出されたもの、というか……、いささか歯切れが悪くなった。そこがわたしの研究の肝というか、俗に企業秘密というところでね。申し訳ないが詳しく具体的に事例を挙げることは避けるが、半ば強制的に気分を覚醒させるメタンフェタミンやステロイドのようなものは使わない。繰り返すが、リスクが大きい」

 他に手が上がらないのをみると、中島は説明を再開した。

 講義は配られた資料を中島の言葉で説明しなおす、という形で進んでいく。

 時折質問の手が上がるが、全体的には淡々と進んでいくという印象だった。講義も終盤に差し掛かる。

「飲んでしまえば、ある意味どうしようもない。マークの効果を打ち消すような薬はない。向こうが倒れるのを待つか、今までのように。あるいは、こちらも飲むか」

 中島はさらりといったが、一瞬時間が止まったような静けさの後、室内にざわめきが広がった。

「今後、この、マークを使った犯罪は増えていくんでしょうか」

 ここまで黙ってただ講義を聴いていたタクヤが口を開いた、なんなら手も挙げずに。

「マーク」の呼び名をタクヤは論文を読んで知っていた。タクヤも論文を読んで何かを感じた一人だ。

「犯罪が増えるか減るかということは、わたしにはなんともいえない」

 タクヤの顔をみた中島が微笑んだ、のがわかったのは誰もいなかった、タクヤ本人にも。

「昨今のようにネットで売られたマーク、ネットではなくてもいいのだが、売人というような輩を中継して手に入れたマークを使った犯罪は減るだろう」

「なぜ?」

「リスクがはるかに大きいからだ。飲めば走るのが速くなり、多少頭もすっきりするだろう、が、高い確率で意識が飛ぶ。飲んだプラスに対する副作用のマイナスが大きすぎる」

「売人に、心当たりはありませんか」

 中島が黙る、少し俯く、考える、顔を上げて、

「わたしに捜査に協力しろというのか?」

「是非、お願いしたい」

 ふっ、と中島が鼻で小さく笑った、その笑いになにか意味を見出したのは、恐らくタクヤだけだ(「意味」といっても、それは単にその笑みが「鼻についた」ということだが)。

「なぜわたしにそんなことを聞く? わたしに心当たりがあるとでも?」

「この分野の研究はまだ一般的というほどではありません、こうして警察が勉強しているくらいだし、ですので、まだ世界が狭い。こんなことをしそうな人間の心当たり、恐らく金目当てでしょうが、そういうことをしそうな人間に心当たりなど、あるいはそういう噂など、耳に入りやすいのではないか、と」

 途中で「先生なら」と入れようとして、できなかった、あの男を「先生」と呼ぶことができなかった。「仮面」と、呼んでみようか。

「なるほどいい読みをしている。残念ながら、今の時点で思い当たる人間や出来事はないが、そうだな、なにかあれば警察に連絡をいれよう、なにか情報をつかんだら」

 ほかに質問は、という中島の声をぶつ切りにする、会場が俄かにざわめいていた、ざわめきが落ち着くのを、中島は落ち着いて待っている、まるで他のなにかを待っているかのように。

 一人が手を挙げた。

「マークを使うにあたって、一番大事なものはなんでしょう?」

「これも繰り返しになるが、一番重要でかつ最も基本的なことは、相性だ」

 タクヤは次の言葉を待った、中島も何かをいいかけたようだが、飲み込んだ、ようにみえた。

 ――出し惜しみしやがって。

 間を埋めたのは、他の人間だった。

「相性というのは、すぐに、簡単にわかるものですか?」

「傾向は出ている。データがある、が、実際に効果があるかは飲んでみなければわからない。AIを使いデータを照らし合わせて予測してみる、効果があるものもあるが、全く効果が出ないケースもある、多々ある。逆にAIがNGを出したものを使って劇的な効果が出る場合もある。エクサ級スパコンを使っても結果はランダム、カオスだ。シンギュラリティーだなんだといっているが、人間、いや生命を桁数ではかることはできんさ。話が逸れた」

 逸れた話を元に戻すなり、講義は終わった。


 その後数日、警察内で中島の論文探しが熱を帯びたが、炎上して灰になった論文はネット上どこを探してもみつからなかった。

 復活を望む熱は行き場を失い、徐々に冷めていく。

 関口のマンションで急造マークの調査報告を聞き終えて、帰宅したタクヤがパソコンの画面と向き合う。

 タクヤが向き合っているものは、関口からもらってきた急造マークのデータでも、それを使って捕まった哀れな犯人でも、彼らに危ないものを売りつけたみたことのない売人像でもなかった。

 みているのは論文、横書きの、即ち『マイクロバイオームカプセルの経口摂取による人身体能力の増強について』である。

 そこには、あの講義で中島が「企業秘密」といった部分も載っていた。

 ――出し惜しみしやがって。

 妙な敗北感とともに蘇った心の声がいう「出し惜しみ」とは「企業秘密」ではない。

 最も重要でかつ基本は「相性」だと中島はいった。

 なるほどコンピュータを使えばある程度の傾向は出せる。

 しかし、ほんとに合ってるかどうかは飲んでみなければわからない、飲みながら調整していかなければ、真に相性のいいマークは作り出せない。

 中島が出し惜しんだこと、それは「チューナー」と呼ばれる「調整役」の存在。

 マークがその効力を発揮するためには、それを飲む人間が全幅の信頼を置くことのできる調整役「チューナー」が絶対に必要なのだ。

 タクヤのディスペンサーはもちろん関口である。


 マークを使った犯罪もペースが落ちていく。『マーク』という言葉、それに対する関心が薄くなっていった。

 一時は「法整備が追いつかない」などと危惧する声も大きかったが、本格的に議論されることはなかった。

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