第2部 1

 一〇月一四日日曜の深夜、日付が変わった頃。

 T崎市柳町交番の電話が鳴る。

「はい、柳町交番山田、はい、はい、了解、すぐ向かいます」

 この近くのマンションに侵入者があり、現在逃走中という。

 山田タクヤは同じ交番に勤める斉藤と交番を飛び出した。パトカーも現場に向かっているだろうが、サイレンは聞こえない。音をさせないでいるのかもしれない。

 柳町は、市役所のすぐ北側に広がる歓楽街である。居酒屋や食堂、バーやクラブなどが軒を連ねる。

 近年は賑わいを駅周辺に取られていて、往時の賑わいはない。

 まして日曜の深夜ともなれば、日付が変わる頃には通りを歩く人はほとんどいなかった。

 人気のない通りを照らす看板や電燈の明かりがその寂れっぷりを浮かび上がらせていた。


 タクヤたちは現場のマンションに直行していた。

 逃走している犯人を捕まえることは難しい。薄暗い路地をのぞきながら歩く、それは習性のようなものだ。

「!」

 タクヤが立ち止まる、少し戻って通り過ぎたばかりの路地に体を入れた。

「マンションに向かってくれ!」

「タクさん」

 タクヤは猛然と駆け出した。

 体力には自信がある、剣道の練習も週に二度は欠かさない、並の人間には走りで負けない自負があった、しかし、

「はぇぇな」

 追いつかない。背中が一向に大きくならない。むしろ、認めたくないが、

 ――離されてるんじゃないか、おい!

 ――装備が邪魔だな!

 といって脱ぎ捨てるわけにはいかない。

 走りながら、ポケットから小さなケースを取り出し、一粒口に放り込んだ、少々苦しみながらなんとか飲み込んだ。

 グッと体が膨れ上がる、そんな感覚、溜まった力を脚に込める、ダン! 加速!

 近づいた!

 前の人間が振り向く、スピードが緩んだ、次の瞬間!

「なに!」

 思わず声を上げていた。ただの黒い影が人の後姿になった、と思った直後、キュン!

 それは再び小さな黒い影になり、光の向こうへと消えていった。

 タクヤが脚を止めた、そこは駅へと続く大通り。車もそれほど多くはない、渡ってしまおうと思えば渡れた。しかし、タクヤの脚がそこから動かなかった。

 加速した、アレを飲んだタクヤを引き離した、なんならアイツはこの片側三車線の通りを、車の流れを飛び越えたんじゃないか、そんな風にもみえた。

「あいつは」

 タクヤは道路の向こう側を暫く眺めた。

 

 被害にあったのは、マンション最上階の会社役員宅だった。

 最初に異変に気付いたのは夫。物音というか、気配を感じて寝室を出ると、

「特になにか変ったところはなかったんだけど」

 ただ「物音」を思い返すと、

「どうも窓、ベランダの窓が閉まったような音だった」

 おそるおそるベランダに出てみた、怖いものをみるように下をのぞくと、

「男だと思う、走って逃げていくところだった」

 という。

「なるほど。それで、盗まれたものは?」

「なにも」

「え?」

 盗まれたものはない、という。

「アクセサリーや時計、現金とか、有価証券とか、金目のものはみんな寝室に置いてあるしね、金庫の中だったりにね」

「リビングには?」

「電化製品だけだよ、テレビとかパソコンとか。高価といえば高価だけど、ちゃんとあるしな」

「もう一度、よく調べてみては」

 一様に気の抜けたような現場の雰囲気の中で、間の抜けたような会話の横を通りつつ、移動しながらマンションを見上げるタクヤの視線には気持ちが入っていた。

 一階から屋上までベランダの横を雨樋が一直線に立ち昇っている。タクヤは掴んで、少し力を入れて動かそうとしてみる、

 ――これなら、

「タクさん、戻りましょう」

 斉藤が「早く戻ろう」を促す声をかけてきた。

 斉藤はタクヤよりも若手だ。無駄足っていったらアレだけど、まあ被害がなかったのはいいことですけどね、……、遠ざかる斉藤の独り言に軽く引っ張られるように、タクヤも歩き始めた。


「そういえば、タクさん、途中で誰か追いかけたんすか? 怪しいやつでもいました?」

 交番に入りながら、斉藤が聞く。通報のあった事件のほうは、既に笑い話に近い状態になっていた。

「マーカーか……」

「え?」

 斉藤、書き物をしていた警部補の永井、二人の不思議そうな視線が山田タクヤに集まる。

「いや、なんでもない、なんでも」

 遠ざかる背中を思い返しつつ、ポケットの中、ケースを握る手に力を込めた。

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