第1部 10
リクとカイは幼馴染だ。
二人が幼稚園から手をつないで帰ってきたことがあったと、二人の母親が楽しそうに話していたのを何度か聞いたことがあった。
リク本人にそんなことをしていた記憶はない。
なんなら、手をつないで帰ってくる二人をみていた映像さえ思い浮かべることができる。
道路の向こうで、車がこなくなるのを、リクとカイが手をつないで待っている、そんな記憶(のようなもの)がリクの中にあった。
二人の母親がその話をすると、リクは恥ずかしく、そんなことはなかったと声には出さないが否定していた。
或いは「幼かった」と受け流した。
カイと疎遠になってから、そんなことをふと思い出すことがあった。悲しい気持ちとともに。
カイの母親は、もう近くにいないけど……。
「おい」
教室のほぼ真ん中、座っていたリクの机の上に紙切れが置かれる、見上げる、そこにいたのは小林アユムの仲間だった。吉沢だったか。野球部の。
リクを睨むように見下ろして、黙っていってしまった。
紙を広げる。
『昼休み、体育館ステージ裏にこい。一人でこいよ』
いかにも中学生らしい卑猥な(ともいえないようなくだらない)イラストが添えられていた。
右斜め前、カイは席に座ったままじっと動かない。
紙切れは丸めて机の中にしまった。なんでそんなものを机の中にしまうのか、自分でもちょっと可笑しい。
晴れていた。青空というほど青くはなく、白くぼやけているようだった。
晴れていた?
もしかして、ちょっと曇っているのかも。
駆けていく何人かに追い越された。
体育館で遊ぶことがそれほど楽しいのだろうか。
バスケやバレーボールが、リクはあまり得意ではない。
ドラマや漫画なら、あのテのメモは悪者フラグだろう。
怖いとかは全然ない。やり返しやっつけるつもりもないけど。やっつけることができるとも思ってないが。不思議と怖くはなかった。
ジャージのポケットに手をいれる。ティッシュとハンカチ、と小さなケース……、は持ってない。
バスケやバレーをして遊んでいる人たちの熱気を避けるように、体育館の壁に沿ってステージに向かった。
「おまえ、最近調子のってんだろ」
「……」
小林アユム、吉沢ともう一人、とリク。
「おい」
小林アユムが拳を振り上げた。
リクが、思わず目を瞑って体を固くした。アユムたちが笑った。
拳は平手になってリクの顔を実際叩いた。
「脅し」に「びびった」わけではないことが実証された。
リクの反応は、攻撃に対する反応(防御)として正当だった。
その痛みがだろうか、笑い声がだろうか。
その両方、アユムたちの態度が、存在が、だろうか。叩かれた、痛みが全身に走った瞬間、リクの体の中がカッと熱くなった。
「おい! てめぇ殺すぞ」
胸倉を掴まれた。この人は野球部じゃなかったか……。お腹を殴られ、体を曲げた。脚を蹴られた。ドラマでもありがちなシーンだ。教育テレビの題材になりそうな……。
「イジメられている子どもに対して、大人はなんといえばいいか。わかるかね」
加藤は半ば茫然と中島の声を聞いている。
ある実験についてまとめたレポートを中島の部屋まで持っていった。中島の笑み、そして言葉は、加藤の渡したレポートについてのものではないことは明らかだった。
加藤はただ立って、聞くよりない。
「ありのまま。ありのままの自分でいい、そういうらしい」
「はぁ」
中島が嘲笑った、もちろんレポートに対してではないだろうが、加藤はいい気はしない。
「ありのまま? 冗談ではない。ありのままでいた、それでイジメられる。ありのままとは現状維持か、それとも原点回帰か。小学生や中学生が戻る原点がどこにある、赤ちゃんにでも戻るのか。成長期にある子どもたち、多感な思春期の子どもに現状を維持しろ、バカも休み休みいう」
中島の視線はレポートの上に落ちていない。
静かな怒り。「燻っている」という感じがありありだ。
加藤は中島の過去について、学歴以上のことをほとんど知らない。今垣間みている。
中島という人間にできた僅かな隙間、亀裂に潜り込もうか、もっと、しかしそれは、危険なことに思えた。加藤は結局、いつものように外から中島をみている。
「力だ。腕力でもいいが、腕力ではない力。自分を自分たらしめる力、他の人間よりも秀でている力、イジメている人間よりも、優れた力、それを身につけねばならない。力を与える、気付かせるといってもいいか。いや、やはり与えなければなるまい、それが大人の役目だ」
「高橋、おめぇ今度佐藤と話してんのとかみたら」
人が増えた気配がしたのはした。でもすぐにそうだとは気付かなかった。
リクの足元に人が転がってきた、転がってきたのはアユムだった。
「野球部期待のエースがいじめなんかしていいのかね」
そう、前から、というか最近またカイと話をするようになって思っていたのだが、
――声、低いんだ。
もう声変わりしているのか。身長も伸びるはずだ。
アユムが「いて」といいながら立ち上がる。
「佐藤てめぇ、アユムくんが怪我したらどうすんだ」
「野球部のエースがいじめしてるって、教育委員会にチクッてやんよ」
「てめぇのいうことなんか誰が信じるかよ。犯罪者の息子がよ」
中心から外れたリクは、意外なほど冷静にそのやりとりを眺めている。その話をされて、カイはどうする……。
「てめぇの
「おまえのいうことなんか誰も信じねぇよ、ばぁか」
「俺がおまえにいじめられてることはみんなが知ってる。それがおまえの強さの証拠だ。俺に右腕ぶっ壊されたって、おまえみんなにいえんのか? 小林が佐藤をいじめたんじゃなくて、ほんとはいじめられてたんだ、てな」
「てめぇ」
リクとアユムの顔、くっつきそうなほど近い。
「この町にいられなくしてやろうか、てめぇの親父もな、変態犯罪者の息子が」
あ!
拳を振り上げたカイ、アユムが顔を背けて体を固くした。
ハハッ!
カイの大きく短い笑い声はここの薄闇を易々と破ってコートのほうにまではっきり届いたに違いない。
それがなにを意味するかを理解するものはいないだろうが、ここいる五人以外。
「猫かぶるのも大変だな。みんな知ってるけどな。弱いものいじめ専門の
右肩にかかったカイの手を「さわんじゃねぇよ!」と慌てたように振り払う。
「だからうわんだっていってんだろ」と呟いた。その意味はカイ以外の四人にもわからなかったのだが。
「リク、いこう。次音楽の授業だから、早くいかないと遅れちゃう」
「うん」
三人を残して、二人はさっさと体育館を出て教室に向かった。
「リク、走ろう」
「先生にみつかったらまた怒られちゃうよ」
「マジメかよ。授業に遅れたらもっと怒られちゃうぜ」
「走らなくてもまだ間に合うよ、あ、カイ、待ってよ」
アユムたちからの呼び出しはその日を最後になくなった。
もっとも、標的が変わっただけでアユムたちのいじめがなくなったわけではなかったが。
それまでいちいち止めて回るほど、二人も得意になりはしなかった。
教室でも、二人は堂々と話をするようになった。
「昨日うちのお母さんが美味しいの作ってくれたんだ。教えるから今度作ってもらいなよ」
「うちの親父に作れるかな」
「簡単だっていってたからだいじょぶだよ。メモしてきたから」
休み時間、リクがカイの席にいき、次の休み時間にはカイがリクの席にいき。
最初はどことなく二人を気にして教室に緊張感が滲むようなこともあったが、回を重ね時間が経つにつれ、小林アユムもめっきり姿を現すことがないとなると、リクとカイのツーショットはすっかり二年三組に馴染んだ。
特別なことではなく普通になった。
「そもそも食物繊維って、昔は食べ物のカスって思われてて役に立たないものだと思われてたんだって。でも食物繊維をあんまり摂らないと癌とか腸の病気になり易いっていうのがわかってきて」
「なんかリク、仮面みたいだな」
「え? そ、そんなことないと思うけど」
「ねぇ、なに、料理の話ししてんの?」
初めての三人目は、以外にも女子だった。二人の周りに、人が普通にやってくるようになっていった。
「今から健康に気をつけていかないと。糖尿病とかなりたくないし。なぁリク」
「うん」
カイの喉仏は、よく動く。
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