田中はひき肉を忘れている

カフェオレ

田中はひき肉を忘れている

「またここにいたんだねー」


 木製の引き戸の傍に立つ女子が、教室の中に声をかける。視線の先には、今まさに面接の真っ最中、と見えるほどに背筋をしゃんと伸ばし、四六判の書物を熟読する男子の姿があった。女子は夕日の差し込み始めた教室内へ入ると、彼の1つ前の席にある椅子に腰かけて、その顔をじっと見つめた。


「同好会が認められなかったんだ、しかたない」


 男子は返事をしたものの、並んだ文字列から目を離しはしない。しかし、女子にとってはそれで十分なのか、彼の態度に対して機嫌を損ねる様子はなかった。


「ちょっと前に提出してたやつ、ダメだったんだね。なに同好会だっけ」

「哲学同好会」

「わー、難しそ……」


 仏頂面の男子とは対照的に、女子の表情はコロコロ変わり、そしてわかりやすく感情を露にする。哲学という言葉を聞いた彼女の口元は大きく「へ」の字を作って、私はその分野に関しては門外漢です、ということをアピールしていた。


「会員も集まらなかったから、ここで十分だけど」


 呟きの矢先、ひゅうと窓から吹き込んだ隙間風が、男子が親指を添えていた紙面をペラペラとめくっていった。自然の悪戯を受けた彼の顔にも小さく「へ」の字ができた。


「……妥協できる、に訂正しておこう」

「図書室の方が、いろいろ快適じゃない?」

「あそこは司書さんがすごい絡んでくるから逃げてきた」

「図書室ではお静かに、なのにかー」


 進んでしまったページを元に戻す作業のかたわらで、相手を気遣った提案を素気無く却下されても、女子はむっとするでもなく、むしろ機嫌を良くしたようだった。


「ねえ、みてみて」


 声をかけられて、男子はようやっと顔を上げて、女子の方に視線を向けた。彼女は冬制服の袖を、幽霊の真似をするように垂らして、こてんと首を傾げている。


「萌え袖」


 あざとさ全開のポーズに男子は何の反応も示さず、無言で女子の方を見据えている。魔法で体を石にされてしまったかのように、微動だにしない姿から察するに、彼はどうやら、彼女に対して無関心なわけではなく、緊張しているようだった。


「私はいいんだ?」

「……なにが?」


 さあ、なんでしょう?という風に女子はにんまりとするだけで、質問に重ねられた質問に答えることはなかった。けれども、その頬は薄く染まっていて、紡がなかった言葉と共に、気恥ずかしさを隠しているようだった。それは男子も同じで、無表情を装った顔の隣で、夕日のせい、という言葉では誤魔化せそうではあるものの、確かに、耳を赤くしてしまっていた。

 しばらく、気まずい沈黙が続いた後、女子が口を開いた。


「田中は、どうして哲学が好きなの?」

「……面白いから」


 男子――田中は、今度はちゃんと女子の目を見て、まじめに返答した。


「哲学は、『考え方』だから」

「考え方?」

「そうだなぁ……」


 田中は少し考えて、哲学についての説明を試みる。


「豊橋さんは『幸せ』について、考えたことある?」

「……おいしいもの食べてるとき」


 女子――豊橋は、素直に田中の問いに答えて、続きを促した。


「哲学は、学問として考えると難しく感じてしまうけれど、例えば、『私は幸せというものはこんなものだと思う』ということを探究したりするんだ」

「じゃあ、さっき私が言ったことも哲学になる?」

「なんというか、そこから『本質』を見抜くのが哲学かな」

「やっぱり難しい内容なんじゃないかな……」

「俺も好きなだけでしっかり理解できているわけじゃないよ」


 気づけば、田中の不愛想な顔つきは随分と和らいでいて、時折口元が緩んでいるのが見て取れた。


「今は資料や本から、過去の研究者がどんなことを考えていたのかを知れる。水は100度で沸騰する、みたいな事実と違ってあくまで考え方だから、俺はそれに感心したり、疑問に思ったりする。そんな時間が楽しいんだ」

「……答えがないから、面白いってことかな?」

「そんなかんじ」

「あ。じゃあさ、じゃあさ」


 豊橋は突然立ち上がり、田中の顔をビシッと指さして、いたずらっぽく目を細めた。


「『おいしいもの食べてるとき、幸せ!』っていうのが、私の考え! 君はこれ、どう思う?」


 良い問いを出した、と言わんばかりの誇らしげな顔が西日に照らされて、より明るく見えていた。田中は眩しそうにしながら、ふっと息を吐いて、笑みを浮かべた。


「……人によるんじゃないかな?」

「思ってたのと違う!!」


 放課後の教室に響いた声は、部活動生の喚声に溶け込んで、何事もなかったかのように消えていく。彼と彼女との間にできた、どこか弛緩した空気は崩れることなく、時間は穏やかに、緩やかに流れていくのだった。






 ********************






「日が沈むの、だいぶ早くなったね」


 窓の外を眺めていた豊橋がぽつりと、呟いた。教室の蛍光灯は最初から点いていたが、今はグラウンドに並ぶ外灯にも明かりが灯っていた。

 瞑色めいしょくの空を一瞥して、田中は机の端に置いていたシンプルなグレーの栞を、目を通していたページに挟んで本を閉じた。


「そろそろ帰ろうかな。豊橋さんも、教室出るよね?」


 豊橋が、無言でこくりと頷く。それを横目で確認した田中は席を立ち、教室の戸締りを始めた。


「明日から、部活再開だっけ」

「うん、ほんと災難だった……。先輩のドリンクバー回し飲みで部活停止とかさ……」

「節約とルール違反は別物だからね」


 回していたペンを落としてしゃがみ込む豊橋の姿が、窓ガラスを介して田中の瞳に映った。


「俺、ずっと本読んでただけだったけど、あれで暇潰せてたの?」

「田中、私が話しかけたらだいたいなにか答えてくれてたよ?」

「いや、話しかけられたら返事はするよ……」


 誰かが閉め損ねたのか、小さく開いていた窓を施錠すると、教室が密室に近づいたようで、空気が少しこわばった気がした。


「休みたいわけじゃなかっただろうけど、せっかく休みだったら友達と遊びに行ったりとかした方が楽しめたんじゃないかなって」

「みんなとは土日けっこう遊んでるから、学校探検でもしようと思ったの。そしたら君がいて……あの時、なんで話しかけたんだっけ?」

「こっちが聞きたいけど……豊橋さんがよかったなら、いいんだけどさ」


 田中が机に戻ってきて、カバンを手に取る。それを見た豊橋も、定位置から少しずれていた机の向きを整えてから、席を立った。2人は連れ立って扉の方に移動し、消灯をして、最後に教室の外から鍵をかける。カチャン、と扉の閉まる音が、人気のない廊下によく響いた。


「俺鍵返してくるから、明日から部活頑張って。じゃあ」

「待って、田中」


 解散の雰囲気を醸し出していた田中を、豊橋が呼び止めた。既に職員室に向かおうとひねられていた上体が元に戻って、声の主に向けられる。呼び止められるとは思っていなかったのか、その顔には少し戸惑った表情が浮かんでいた。


「田中って、通学、歩きだったよね?」

「……そうだけど?」

「私は自転車!」


 勢いのある発声からしばらくの間があって、本題は告げられた。


「一緒に帰ろ」


 決意をはらんだ双眸に対して、田中の目はしばたたきながら泳いでいて、明らかに面食らった様子だった。挙動不審に動き回るその瞳が、豊橋の足が小刻みに震えているのを捉えて、ぶれていた焦点が定まる。田中は落ち着きを取り戻すように、ひとつ、大きく深呼吸をした。


「いいよ……外ちょっと暗いし、うちからそこまで遠くなかったら送るよ」


 それを聞いて豊橋は顔を綻ばせた。安堵と興奮が入り混じったような、そんな表情をしていた。理由を聞かない理由を、あえて尋ねることはしなかった。


「豊橋の家はどこのあたり?」

「西小からそんなに離れてないところ」

「ああ、あのあたりだったら、送れる……いらぬお世話だったかな」

「ふふ、じゃあお言葉に甘えようかな。ありがとう」


 屈託のない笑顔に、自然と田中の頬も緩んでいた。かくして、彼らは下校を共にすることになった。






 ********************







 職員室に鍵を返して昇降口から外に出ると、硬球を弾く音が直に耳に届く。田中は豊橋がグラウンドの傍にある駐輪場に自転車を取りに行くのを、校門の外でケータイの画面を見ながら待っていた。


「おまたせ!」


 普段は部活動の荷物を持ち運びしているためか、大きめのかごを取り付けてあるママチャリを押して、豊橋が現れた。田中は手に持っていたケータイをスリープさせて、ズボンのポケットに突っ込んだ。


「押して帰るの大変じゃない? 代わろうか?」

「平気、大丈夫!」

「わかった……大通りの肉屋、途中で寄ってもいい?」

「え、ちょうど行きたかった! いいよ!」


 よほどその肉屋が好きだったのか、豊橋の顔がパァっと輝く。


「でも、田中の家から近いところで買った方が荷物にならないよ?」

「あそこの肉屋が、安くておいしいから」


 じゃあ帰ろうか、という風に田中の足が動き出したので、豊橋もそれに倣った。

 豊橋が話しかけて、田中が答える。教室の中と変わらないやり取りをしながら、2人の足は滞ることなく進んだ。時折、少し油の足りない自転車のチェーンが軋む音と、踏みしめた落ち葉の割れる音も混じった。

 落ち葉を50枚は踏み崩した頃、目指していた大通りは目の前にあった。


「豊橋も、なにか買い物?」

「ううん、コロッケ食べたくて」

「ああ、なるほど」

「田中は食べていかない?」

「じゃあ、1コ買っていこうかな」


 大通りに入ると、人々の小声と足音が集まった、ざわざわとした賑わいが肌に感じられる。2人は、『にしぐちおにく』と書かれた看板を掲げる店の前で足を止めた。ショーケースの向こう側に立つ店主らしき老年の男性が「らっしゃい!!」と活気のある声で来店を歓迎する。


「シゲさん、こんばんは!」

「お、嬢ちゃん! いつもありがとねぇ!」


 豊橋は店の常連のようで、老人と気軽にあいさつを交わしていた。


「コロッケ、たくさんあるんだな……」


 田中の口からぽろりと、小さく驚きがこぼれた。ショーケースの上に置かれた手書きのメニュー表には、牛肉、野菜、かぼちゃ、……と、コロッケの欄だけでも10種類ほどの用意がされていて、しかも、そのどれもが一律50円という、来訪者の心を揺れ動かすラインナップが完成している。良心的価格設定がかえって学生に贅沢な悩みを抱えさせる、地域に寄り添った、温かな店だった。


「……私は牛肉にしよっかな!」

「俺も同じものにしようかな。すみません、牛肉コロッケ2つお願いします」

「お金は出すよ!」


 間髪入れず、田中の手のひらに、50円玉がぺしーんと勢いよく叩きつけられた。財布からあらかじめ取りだしておいたものだと考えると、少し微笑ましく思えた。


「それとひき肉300グラム、お願いします」


 付け足された注文に「あいよー!」と元気のよい声と笑顔が返される。手際よく袋に詰められたコロッケは、30秒もしないうちに田中の手に渡された。


「坊主、コロッケはこの辺りで食べてくか?」

「あ、そのつもりです」

「んじゃ、ひき肉は後で取りに来な。 荷物になるやろ」

「いいんですか、ありがとうございます」


 システムの用意がないのか、受け取った小銭を指折り数えながら、シゲさんはにかっと笑う。


「それ、ちょっと前に揚げたばっかりやから、熱いけん。気を付けるんよ!」

「ありがとうございます……あれ、これ4つ入ってますよ」


 田中が受け取ったビニール袋の中には、少し油の染みた個包装が4つ入っていた。


「嬢ちゃんが男の子連れで来たんなんて初めてやからな! おまけや!」

「シゲさん!?」

「冗談や、そんな勘繰りせえへんよ!」


 シゲさんに揶揄われた豊橋の頬は少し膨れていたが、そこに嫌悪感は感じられなかった。


「これはまだ店には出してないうちの新作コロッケ、次に嬢ちゃんが来たとき味見してもらおうと思っとってな! 袋に赤い丸書いとるやつがそうやから、感想教えてな!」

「……なぜ俺の分まで用意が」


 2つの赤丸を疑問に感じる田中に、シゲさんは口元を手で隠し、ボソボソと喋る。


「嬢ちゃん、いつもはコロッケ2つか3つ買ってくんや。今日は珍しい、明日は子供らが雪合戦しとるかもしれんわ」

「シゲさーん、聞こえてますけどー?」

「ワハハ! おまけに免じて許してくれや!」


 おまけのコロッケは元々、豊橋1人に食べてもらうために用意されたもののようだった。小さく笑ってしまった田中は、後ろから背中を小突かれて、口元をきゅっと引き締める。豊橋から恨みがましい視線を浴びてもシゲさんは意に介していないようで、おお怖い、とおどけてみせていた。

 シゲさんにお礼を言って、2人は大通りの中央に設けられた休憩スペースに移動した。空いていたベンチに豊橋が腰かけて、ポンポンと自分の隣を叩く。促されるままに、田中はそこに座った。


「元気な人だったね」

「昔からあんな感じ。騒がしいけど、元気じゃなくなったら結構寂しいかも」


 伏し目がちに笑う彼女からは、シゲさんとの仲の良さが伺えた。


「新作の方から食べてみようかな」


 豊橋もそれに首肯したので、田中は赤い丸の書かれた紙袋を、ビニール袋から2つ取り出した。紙袋の上からでも、かぶりつくのをためらうくらいの熱が、指先に伝わってくる。新作コロッケを受け取った豊橋は、慣れた手つきで紙袋を軽く破り、持ち手を残しながらも食べやすそうな形をつくっていた。


「「いただきます」」


 田中は熱を確かめるように慎重にコロッケの端に口を付け、豊橋は躊躇なくコロッケの3分の1を口に含んだ。


「むー! もいひい!」

「おいしい……グラタン、かなこれ?」


 ほくほくしたじゃがいもに優しい味付けのホワイトソースが絡んだ一品は、新商品として店頭に並べるのに何の問題もないクオリティだった。

 田中が何の気なしに豊橋の方を見やると、彼女はコロッケを1つ食べ終えていて、ビニール袋の方に物欲しげな視線をやっていた。田中が牛肉コロッケを取り出して彼女に手渡すと、「ありがとう」の言葉ののち、先刻と同じようにかぶりつく。幸せそうにコロッケをほおばる彼女を横目に、田中もコロッケを口に運ぶ。2人はしばらく、コロッケを味わうためだけに口を動かしていた。


「ねえ、田中」


 互いがコロッケを食べ終えた頃、それを見計らっていたように、豊橋は田中に話しかけた。


「あの店、来たの初めてでしょ」

「……なんで?」


 投げかけられた質問に、新たな質問が返される。豊橋は間を取るように、スカートの上に落としていた、コロッケの衣を払い落した。


「コロッケの種類の多さに戸惑ってたじゃん、うっかりさんだね」


 下を向いていた視線が、田中の方に移る。顔を覗き込まれた彼はきまりが悪そうにしていて、困っているのか、黙り込んでしまった。


「普段から割と大声で喋ってるから、君が盗み聞きしたなんて思ってないけど」


 豊橋が今度は夜空に視線を移して、足をぶらぶらと交互に揺らす。


「私が、昼休みにここのコロッケ食べたいって騒いでたから、ここに寄ってくれたのかなー、なんて」


 豊橋が、田中の方に首を傾ける。しばらく、言葉を探すように目を泳がせて、ようやっと、田中は口を開いた。


「おいしいもの食べてるとき、幸せって言ってたから……どんな顔するんだろうって見てみたくなったっていう、好奇心」

「田中」


 ベンチの上に置かれていた手が、田中の手の甲に添えられた。驚きでこわばった顔が、手の主を戸惑った眼差しで見据える。


「今君があることをしてくれたら、もっといい顔が見られると思うよ」

「え、今……?」

「いーま」


 彼女が求める答えを、田中はおそらく知っている。それは不確実で、自意識過剰で、恥と後悔と隣り合わせの、勇気が必要不可欠な行動だった。いつかは、それを実行したい。しかし今は、高揚と恐怖の狭間で、彼の心は揺れ動き、迷いを断ち切れない様子だった。

 けれども、彼は気づいた。いつかその日が彼女によってもたらされるなら、彼女が今の自分のように、悩みを抱えなければならない、と。意を決したように、田中が豊橋に正対する。その口が開かれる。


「豊橋さんのこと、好きです。……恋愛的な意味で」


 震える声が、彼の真剣さと、勇気の証だった。


「よかったら、付き合ってほしい」


 豊橋は瞑目して、受け取った言葉を噛みしめるように、その場で二度頷く。


「ふふ」


 目を見開いた彼女が浮かべている笑顔は、あふれ出しそうな喜びを、自分の中に何とか押しとどめているような顔で、言葉を借りるならば『いい顔』をしていた。


「告白、されてみたかったんだ。ちょっと憧れてた」

「じゃあもうちょっとシチュエーションというかムードというか……」

「今がよかった。すごくうれしい」


 そこできっと、彼女の自制心は決壊したのだろう。


「よろしくお願いします!!」


 勢いよく抱きついてきた豊橋に、田中は声にならない声を上げた。






 ********************






「人目のあるところで抱きつくのはやめようね」

「ごめんごめん」


 大衆の視線を浴びてしまい、その場をそそくさと離れた2人は、本来の目的地である豊橋宅へ続く住宅地を、手をつないで歩いていた。突然の抱擁に羞恥心と混乱を抱え、冷静な判断ができなくなっていた田中が、豊橋を無理やり引っ張るようにしてここまで逃げてきたからだ。

 その流れのまま、今も互いの手は握り合ったままで、双方相手の反応を窺いながらも、自ら指先の力を緩めることはしなかった。


「……手をつなぐのは、セーフ?」

「……まあ」


 蚊の鳴くような声で下された裁決に、豊橋が嬉しそうに目を細める。恥ずかしさからか、田中は明後日の方向に顔をやってしまい、それを豊橋は「前を見ないと危ないよー」とからかった。


「……牛肉のコロッケ、豊橋さんの言う通りおいしかった」

「でしょー」


 自分が褒められたかのように、えへんと胸を張るあどけない姿を、残念なことに夜空を見ている彼の目は見逃していた。


「豊橋さん、ほんとにコロッケ好きなんだね」

「子どもの頃から大好き!」

「幸せそうな顔のお手本、みたいな顔してたよ」

「そんなに?」

「あれよりいい顔をするのは想像できないくらいには」

「田中的には、コロッケ食べてるときの方がいい顔だったんだね……?」


 豊橋は何か考えることでもあったのか、空いていた左手の人差し指を顎に当てて、押し黙ってしまった。田中から何かを話しかけることもなく、路地にはしばらく、タン、タンと靴がコンクリートを叩く音だけが、不規則に鳴り響いた。そんな時間が続いても、両者が不安そうにする様子はなかった。


「秋吾」


 沈黙が破られたと同時に、田中の足がピタリと止まった。隣を歩く彼女の足も、並んで止まった。急襲で熱くなってしまった顔が、豊橋の方に向けられる。またいたずらっぽく笑っているのだろうと思われた彼女は、意外にもはにかみを見せていた。


「……それは照れるんだ」

「照れますよ」


 田中がウンッと咳ばらいをして、それから1度深呼吸をする。相手も平常心ではないことを知って落ち着きを取り戻したのか、顔つきに元の穏やかが戻っていた。


「……名前呼びしたいの?」

「したいしされたい」

「積極性がすごい」

「これからはストレートしか投げないよ」


 見上げる顔から、まっすぐな視線が注がれる。田中は少し困ったように頭をかいたものの、今度は彼女から目を逸らさなかった。


「では改めて、秋吾」

「……なんですか、香織さん」


 極度の緊張で敬語になってしまっていても、自分の希望は満たされた返事に、豊橋は満足げに頷く。


「いいこと教えてあげる」


 月明りに薄く照らされた彼女の顔は、満面の笑みでもなく、揶揄うように目を細めるでもなく、ただ、やさしい微笑みを湛えていた。


「君と話してるとき、けっこう幸せ」


 細い指が、ほんのわずかに、握った手に力をこめた。骨ばった手は一度開いて、応えるように、手をぐっと握り返す。


「じゃあ、たくさん話そう」


 不自然でないはずの会話がどこか可笑しく感じられて、2人は顔を見合わせて、小さく笑った。


「今日は早いところ帰ろう。なんだかんだ遅い時間になってしまってる」

「うん!」


 田中が一歩、止まっていた足を踏み出す。それに合わせて豊橋も一歩、前に進む。不揃いの歩幅を探りあって、並んで歩き、生産的でない言葉を交わして、笑いあう。

 その様子を見た誰かは、恋愛なんてバカバカしいと嘲るだろう。誰かは、なぜか脳の話を始めだすだろう。色眼鏡をかけた人々が、彼らを好きなように解釈し、心の中でそれぞれ思うことがあるのだろう。けれども。


 誰が何と言おうと、それは2人にとって確かに、幸せの1つのかたちだった。

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