九竜家の秘密

しまおか

第一章 第一印象

 吉良きら不二雄ふじおの好みは年上で、五年前に結婚した妻も八歳上だ。隠れてやっている出会い系サイトでさえ、狙う女性は四十代ばかりだった。

 といっても実年齢がそうとは限らない。基本的に一回限りの関係と割り切っている。よって自分も含め、通常は素性等について、真実を語らないからだ。それでも実際に会って顔を見れば、これまでの経験からおおよそは分かるようになった。

 もし今目の前に座っている三郷みさと真理亜まりあが待ち合わせ場所に現れれば、ストライクゾーンより下じゃないかと舌打ちしていたに違いない。身長が低く小柄な容姿に加えて、一見すると三十代前半、人によれば二十代後半と言っても通じる程の童顔だからだ。

 吉良の横で不機嫌な顔をしている松ヶ根まつがね耕一郎こういちろうは、自分より十歳上で今年四十三歳になる。十人いれば十人共、間違いなく強面こわもてな彼の方が彼女より年上だと思うに違いない。

 ところが三郷の実年齢は、五十一歳というのだから驚きだ。

「ハンパなく若いっすね。それで独身ってマジヤバい。普通の男なら放っとかないっしょ」

 いつも通り砕けた調子で話しかけたが、にこやかに軽くあしらわれた。

「それってセクハラ発言です。こういう場所や状況では、止めた方が良いですよ」

 彼女がキャバクラやクラブのホステスならば、間違いなく指名客が殺到する売れっ子になっていただろう。笑うと愛嬌があって話す調子のテンポが良く、声も聞き心地が良い。それ以上に際立っていたのは、年齢と大きくかけ離れ、幼くも見える彼女の容貌だった。

 だが世間でいう美魔女のイメージとは、一線を画している。何故なら女性としての色気は、余り感じられない。その分異性から見ても凛々しく、男前にさえ映るタイプだった。

「すんません。ただどうしても信じられなくて。整形じゃないっしょ。薄化粧だし、ナチュラルな顔立ちっすから。あっ、これも失礼になっちゃうってカンジ?」

 さすがに我慢の限界が来たらしく、彼女は厳しい口調に変わり、吉良をたしなめた。

「本当に失礼ですね。先程まで同じ質問ばかり繰り返され、うんざりしていました。だから質問者が交代しようやく雰囲気が変わると、内心は期待していたんです。けれどこうも極端に変わるとは想定外でした。その調子で同じ職場の人に同じ事を言えば、間違いなく注意されるでしょう。それとも男 社会の傾向が強い警察だと、おとがめ等受けませんか」

 彼女が苛立っていることは、承知の上だ。立ち話や勤務先等での聞き取りを含めると、この三日間で既に十回は超えている。事件の捜査に当たり、S県警刑事部の松ヶ根警部補とコンビを組んだ吉良は、そのほとんどに立ち会ってきた。

 犯罪歴の無い彼女が、こうした境遇に置かれたのは恐らく初めてだろう。それでも外見とは相反し、冷静さを保つこれまでの様子や落ち着いた口調、さらに時々吐かれる毒舌からは、相当な度胸と知性がうかがえた。

 職業柄得た長年の経験則に基づくものなのか、気の強さも兼ね備えている。だからこそ彼女が繰り返してきた自然体でよどみない説明には、説得力があった。しかし状況を考えると、今回の事件における重要参考人からは外せない。

 また掴みどころのない彼女の言葉を、鵜呑みにして良いか見極めが全くつかなかった。よって今日も捜査本部が設置された中警察署の殺風景な会議室を使い、任意の事情聴取を引き続き行っているのだ。

 彼女の言葉に松ヶ根が、慌てて口を挟んで頭を下げた。

「そんなことはありません。失礼しました」

 所轄署刑事課の吉良より立場と階級が上の彼は、顔を上げるとこちらを睨んで言った。

「こらっチャラ男、じゃなくて吉良。きちんと話を聞け!」

 チャラ男とは、キラフジオの名から転じ、軽い口調で話すことから付けられたあだ名だ。そう叱った彼が、先程まで彼女の事情聴取をしていた。

 しかし理路整然とした語り口とは対照的で、異形の女性が相手だとやり辛くなったのだろう。またこれまで何事も主導してきた彼だが、引いた視点から観察すればより能力を発揮できると考えたのかもしれない。

 よって途中で交代させたのは彼の指示だ。吉良は謝罪した上で質問を再開した。

「申し訳ないっす。では改めてお聞きしましょうか。三郷さんは、顧客である九竜くりゅう久宗ひさむね氏を殺害していないと主張しているっしょ。だったら誰が殺したか、心当たりはないっすか」

「あの方が殺される程誰かから恨みを買っていたなんて、私には見当がつきません」

「しかし被害者は、あなたの会社が倉庫として使っていた部屋の中で、滅多刺しにされていたんっすよ。あの場所は、電子カードキーが無ければ開けられない。そうっすよね。それとも他に、入室できる裏技なんか知ってたりします?」

 彼女はむっとして答えた。

「推理小説じゃあるまいし。密室トリックまがいのことなんて、ある訳ないでしょう。確かにあの部屋への入室は、カードキーが必要です。ただ私以外にも、相原あいはら所長や事務員の寺内てらうち芳美よしみさんが持っています。二人にはアリバイがあるようですけど、誰かに渡したかどこかで一時的に盗まれた可能性も否定できませんよね。そうなると、容疑者は他にも沢山いることになります。それなのに何故アリバイが曖昧あいまいというだけで、私が疑われるのですか。大口顧客の九竜社長を殺して、私に何のメリットがあるというのですか」

 彼女の上司の相原は事件当夜、ある顧客と現場からやや遠い場所で会食していたと供述。そこで九時から十一時までいて、その後電車で帰宅したと説明している。

 店員の証言や最寄り駅等の防犯カメラ、さらに改札を通った電子マネーカードからも確認出来た為、アリバイは成立していた。その上誰にもカードキーを渡していないし、盗まれてもいないと主張 している。ただその点については現在の所、証明しようがない。

 また寺内という女性事務員は、会社を五時に出ていた。その後自宅近くのスーパーで買い物をし、六時半には帰宅したようだ。といっても彼女が住むマンションには防犯カメラが無い為、定かではない。

 しかし永山ながやまというママ友と自宅の固定電話で会話していたことから、アリバイは証明された。九時少し前から二時間ほど長話していたことが、相手の話や通話記録からも明らかになっている。

 寺内もカードキーはずっといつも持ち歩いてる財布の中にあったはずだ、と証言していた。もちろん相原同様、定かではない。よって三郷が主張するように、残り二人は実行犯でないとしても、共犯者の可能性は否定できなかった。

 やや興奮気味になり始めた彼女を、吉良は宥めながらり寄るように聞いた。

「そんなに怒ったら怖いじゃん。俺もそれが知りたいんすよ。あなたは総資産が百億以上と噂される九竜家から、資産保全や運用等を任されていたんすよね。その具体的内容を、教えて頂けないっすか。そうすればあなたが久宗氏を殺す動機なんて無いと、証明できるかもしれないっしょ。しかも他に疑わしい人物がいるかどうか、絞り込みもできるじゃないっすか。あなたの容疑を晴らす為にも、必要なんすよねぇ」

「ですから守秘義務があるので、詳細はお答えできないと何度も言っているじゃないですか。もちろん令状など、正式な開示請求があれば従いますよ。私だって疑いを晴らしたいのはやまやまです。ただ繰り返しますが、それがないと証言したくてもできません」

 事件発生から三日経過しているが、捜査はそこまで進展していない。その壁の一つが、現在事情聴取中の彼女が主張する情報開示拒否だ。確かに依頼された内容やその規模から推測すれば、そう簡単に答えられないことも理解できる。

 彼女が勤める株式会社プレミアムアドバイザー(以下PA社)は、殺された久宗のような富裕層が主なターゲットだ。そこでの彼女は高い営業能力と資産運用実績により、好成績を上げているり手の一人らしい。

 当然一流大学卒で、プライベートバンカー(以下PB)やファイナンシャルプランナー(以下FP)等数々の金融関係の資格を持っていた。給与も相当なものだ。成果連動型の為、成功報酬が支払われるタイミングもあって変動は激しいと聞く。それでも平均年収となれば、二~三千万円は堅いらしい。

 まだ巡査部長の吉良はもちろん、警部補の松ヶ根だってしがない公務員だ。給与もそう高くない。二人共三流大学卒と学歴も劣る。しかも彼女はまだ現段階で、重要参考人の一人にしか過ぎない。頭脳派で弁も立つ彼女に強く当たれなかったのは当然だった。

従って、話題を変えることにした。

「だったら事件が起こった日の事を話しましょっか。それならいいっしょ?」

 またかと溜息を吐いた彼女は、これまでと全く同じ供述を繰り返した。

「三日前の十二月三日、木曜日の夜八時半から十時半頃までのアリバイですね。平日の夜は、基本的に七時から八時で仕事を終えます。会社から私のマンションまで約十五分ですから、普段だと帰宅して部屋にいたでしょう。あの日は七時頃退社したので、七時半前には家に着きました。一人暮らしですが部屋にいれば、アリバイは証明できたでしょう。ただあの日はいつもと違い、隣の住民が騒がしかったので外に出ていました」

「夫婦喧嘩していたらしいっすね」

「そうです。私は約三年前に、今の部屋へ引っ越してきました。隣は二年程前から二十代後半の夫婦が住んでいて、いつもは静かです。しかしここ半年は月に一回程度の割合で、激しく言い争いが起こるようになりました」

 二階の角が彼女の部屋で、吉良達は既に隣の住民から直接話を聞いている。間違いなく十二月三日の夜、会社から帰宅した旦那と八時過ぎから口論していた事を認めていた。大抵八時半頃から始まり二時間近く続くと、半年の傾向からの経験から彼女は学んだらしい。 

「当初は壁を叩くなどしましたけど、相手も互いが興奮しているのか全く効果はありませんでした。けれどその後、冷静になってから気づくのでしょう。翌日または数日後に女性が謝りに来られるのです。一度だけですが、二人揃っていた事もありました。昨日もいらっしゃいましたよ。だから怒るに怒れなくなり、諦めて別の対処法を取ることにしたのです。喧嘩が始まるとノートパソコンを持ち、昼は喫茶店で夜はバーを開いている馴染みの店へ逃げ込み、仕事をするようになりました」

 吉良達が隣人から聴取した内容も、彼女の説明通りだ。その上どうやらここ最近喧嘩が始まると、彼女が外に出ていくことも薄々気付いていたらしい。その為あの事件があった翌日も、謝りに行こうと思っていたという。

 しかし周囲が騒がしく、また翌日は金曜日で仕事だろうからと考え直したようだ。そこで翌々日の土曜日の朝、謝罪する為訪問したと証言している。

 当然だろう。事件が起こったビル自体、彼女のマンションから徒歩で三分程度の場所にあるのだ。死体発見は、翌日金曜日の午前八時半頃だった。その後警察が駆け付け周囲に規制線が貼られ、マスコミや近所の野次馬達が集まり出した。騒々そうぞうしくなったのも頷ける。

「もしいつも行く店に居たらアリバイは成立していたのに、マジ残念っすよね」

 そんな皮肉を無視し、彼女は話を続けた。

「出かけたのは、八時半過ぎです。外は寒かったですが止むを得ません。しかし運悪く臨時休業で閉まっていました。そこで一旦マンションへ戻り、自分の車に乗って近くにある広い駐車場へ移動したのです」 

 彼女の言う通り店主が風邪をひいて体調を崩し、急遽店を閉めていたことも事実だ。しかも彼女のマンション及び周辺にある防犯カメラで、八時半過ぎに一度徒歩で出た後しばらくして戻り、再び車に乗って出て行った彼女の姿が確認されていた。

 だがその後帰宅する十時半過ぎまでの間、どこにも映っていない。いや厳密にいうと彼女のいた駐車場に、防犯カメラは設置されていた。しかし残念なことに「動体検知」と呼ばれる、動いたものだけに反応する機能の物だった。よって彼女がそこに入り、出て行く様子だけしか捉えていなかったのだ。

 またその駐車場は被害者が経営する不動産会社の所有地で、某企業が主に従業員用の車を駐車する為に借りている場所だ。けれど一般の客もお金を払えば、駐車できるようになっている。彼女はそこを利用していた。

 出入口はゲート式で、駐車券を発見し入場して出る時に精算する方式だ。借りている企業の従業員は、専用カードを使用するので発券も清算もしない。ただ彼女のような利用者は有料の為、出入りした記録がしっかりと残っている。

 それでも一度入庫した後に徒歩で出入りしたとすれば、現場はすぐ近くなので犯行は理論上可能だ。その上彼女の車は、駐車場の一番奥に停められていた。こっそり下車したならば、防犯カメラが捉える範囲から漏れ、感知しなかったかもしれないと別の捜査員から報告を受けている。

 周囲は胸の高さ程度の金網で囲われているが、コンクリートで固められた私道が通っていた。よって柵を越えて移動することくらい、背の低い彼女でもできただろう。

「どうしてあんな場所へ車を停めたんっすか。防犯カメラに近いところだったら疑われずに済んだのに、もったいないっすね」

 吉良の言葉に、彼女は鼻で笑いながら説明した。

「あんな事件が起こると判っていたら、そうしていたでしょう。あの場所は使用形態から、昼間は数十台以上停まっていますが、夜間はガラガラです。それに周辺は田畑に囲まれているので、奥に停めればエンジンをかけていても迷惑が掛からないと思ったからです」

 理屈は合っている。ちなみに周囲の土地も九竜家が所有しており、近所の農家に貸し出しているようだ。また駐車場の裏手に、かつては米蔵として使用していたかなり古い蔵が建っていて、そこも被害者の会社の持ち物だった。

 ポツリと建っているだけの為、取り壊せば有効活用できるだろう。しかし古すぎるからこそ文化財として残して欲しいとの要望があったらしく、そのままにしているそうだ。時折九竜家の人間が様子を見に来て、管理していると聞いていた。

 ところで彼女の取った行動は、厳密に言えば県の条例違反だ。罰則は無いけれど、私有地でも駐停車中のアイドリングは原則禁止されている。その為なのか、彼女はしっかりと付け加えた。

「マンション前の、自分の駐車場に居たら良かったのかもしれません。ですがあの日の夜はとても寒く、暖房をつけずにはいられませんでした。そうなると私の車はハイブリッド車ですが、長時間エンジンをかけずにいるとバッテリーが上がるかもしれない。けれどアイドリングをすればガソリン車より静かとはいえ、近所迷惑になります。だから広くて近くに民家がない、あの場所ならいいだろうと考えました。また勝手な言い分かもしれませんが、条例の適用外となる緊急避難としてはやむを得ないケースだと判断しました」

 最初はエンジンを回さず、暖房を点けていたらしい。だが途中からエンジンをかけて、ノートパソコンも充電しながら仕事をしていたと主張している。ハイブリッド車なら排気ガスも抑えられ、音も静かなはずだ。

 現実には彼女の言い分が通るだろう。周囲に気を配っている観点から言えば、例え巡回中の警察官が発見しても、条例違反を咎めることは難しいケースと思われる。

 しかしそうしていたと証明する人は誰もいない。また不幸が重なったせいで、物証も残っていなかった。駐車場にはその時間、他にも数台ほど従業員の車が停まっていた。けれどあの夜は飲みに行くなり、何らかの事情でそのまま置いていったものばかりだった。

 その上一般の利用者も含め、その時間出入りした人は誰もいなかったことも確認済みだ。防犯カメラには駐車場外を通る車が、数台写っていただけだった。念の為に現在別の捜査班が通った車を特定し、聞き込みを試みている。だがあまり期待はできないだろう。

「俺もあなたの言葉を信じたいっす。でも証拠がないんっすよね」

「それを探すのが、あなた達の仕事でしょう。私は九竜社長を殺してなどいません。証拠もないまま強引な取り調べをしたり、供述書を改ざんしたりして逮捕するつもりなら、徹底的に戦います。自白を期待しても無駄ですから諦めて下さい」

 彼女ならそうするだろうと、思わず頷いてしまう。それにこれまでの堂々たる態度は、吉良だけでなく松ヶ根にすら、彼女が犯人だと思わせる気配を一切感じさせずにいた。

 それでも無実というならその明かしを発見しなければ、吉良達も彼女を重要参考人から外すことはできない。よって不利な立場に変わりは無かった。

「今の時代、そんなおかしなことはしないっすよ。しかもこれは任意の事情聴取だから、参考人でも黙秘権はあるので問題ないっしょ」

「それは知っています。今回の呼び出しも、拒否しようと思えばできました。それでもせっかくの日曜日で会社が休みなのに応じたのは、犯人逮捕の為できるだけ協力しようと思っているからです。それなのにいつまでも容疑者扱いするのなら、帰らせて頂きます」

「それはマジ勘弁してください。仕事内容が話せないなら、被害者の女性関係についてだったら大丈夫っしょ。奥さん以外の方と、特別な関係にあった人なんていないっすかね」

 すると彼女は表情を強張こわばらせ、これまでより大きな声で反論し始めた。

「私の知る限り、絶対にありえません。九竜社長は奥様をとても愛し、大切にしておられました。それ以前に、警察が女性絡みの犯行だと決めつけている事自体間違っています」

 これには吉良も反論した。

「だって被害者は、パンツを履いていない状態で殺されていたのは知ってるっしょ。しかも滅多刺しっすよ。女性と関係を持とうとしていた最中、抵抗されたのか倉庫内に置かれていたらしい千枚通せんまいどおしとハサミで刺されたと疑うのは、当然じゃないっすか」

 かつて使われていたボールペンやマジック、定規やホッチキス等といった文房具類が、缶の中に入れたまま部屋の中に置かれていたのだろう。現場では被害者と犯人が争った際に落ちたらしく、中身が散乱していた。他にはペーパーナイフもあったという。

 それらの中からアイスピックのような形状をした千枚通しに加え、ハサミが凶器として使用されたようだ。最初に先端の鋭い千枚通しで胸を一突きされており、その後ハサミで十数ヵ所刺されていた。死因は刺した傷による、失血性ショック死と診断されている。

 吉良は今回の事件で、初めて千枚通しという文具があることを知った。どうやら紙などに小さい穴を開け、閉じひもなどを通す為のものらしい。今では穴開けパンチを使うので、そのような原始的な道具など、お目にかかったことが無かった。

 現在は、たこ焼きをひっくり返す際などに使用されているという。しかしそう言われれば、あれがそうかと思い出す程度だ。四十代の松ヶ根も、存在自体は知っていたけれど実際に使用した経験は無いと聞いた。

 旧保険代理店の事務所でも書類を束ねて保管する為に利用していたのは、かなり以前の事だったと聞く。それだけ古いものだったけれど、針の部分は錆びにくいステンレス製だったことが災いしたようだ。

 切っ先は約八センチ、持ち手部分も同程度の長さだった。状況から判断すると、被害者が犯人に覆いかぶさるような状態になった時、咄嗟に掴んだ千枚通しで下から突き上げるように刺したのだろう。根元までしっかり、金属部分が被害者の体に食い込んでいた。

 夜の低い気温により、被害者は厚手のコートの下に分厚いセーターと保温発熱素材の薄いインナーを着用していた。部屋の中を走り回っている間にコートを脱いだらしく、千枚通しの針が通しやすい状態だったようだ。

 よって解剖医によれば、非力な者でも突き刺すことはできるとの見方が示されていた。つまり三郷のような小柄な女性であっても、犯行可能だったことを意味する。最初の一撃でひるんだところを、刃渡り約七センチ、持ち手部分が八センチのハサミで倒れた相手の上の乗り、何度も突いてとどめを刺したようだ。

 ちなみに被害者の腕には、いくつかの防御傷があった。抵抗したものの、千枚通しで受けた衝撃が効いていたのか、犯人を跳ね除ける力は残っていなかったと思われる。

 その為吉良はその点を突いた質問をしたのだが、これも反論された。

「その話は承知しています。しかし性行為をしていた証拠があるのですか。ないでしょう」

 彼女の質問にはわざと答えず、言い返した。

「でも夫婦仲に問題無いっていうなら、夫が殺されたのに未だ帰国しないのは不自然っしょ。いくらアメリカの病院にいるからって、動けない程重病とは聞いてないっすよ。しかもここ一年以上向こうにいるっていうじゃん。それで愛していたなんて無理がないっすか」

 彼女は呆れた表情をしながら、吉良をさとすように言った。

「夫婦仲というのは、そう簡単に判断できるものではありません。奥様が戻ってこられないのは、止むを得ない諸事情があるからです。ただこれもプライベートとはいえ、私の仕事上の守秘義務に抵触するので、詳しくはお話しできません。ですがこれだけは断言できます。九竜社長は、奥様の敏子としこ夫人を裏切る行為など絶対にしません。それに、」

 そこで彼女は言葉を詰まらせた。すかさず吉良が切り込んだ。

「それに、なんっすか?」

 一瞬動揺を見せた彼女だったが、直ぐに立て直した。

「それにあの場所は元事務所ですが、今は単なる倉庫です。廃棄するまでの間、一時的に保管する書類ばかりが置かれているだけで、ソファ等もありません。しかもあのビルには、他のテナントも入っています。女性と逢引する場所としては、相応ふさわしくないでしょう」

 もっともらしい説明だが、はぐらかされたとも感じた。そこで話を戻した。

「被害者も昨年まではアメリカの病院へ、頻繁に行き来していたみたいっすね。でも今年の初めにコロナの感染が拡大してからは、会っていないそうじゃないっすか。俺だったら、浮気の一つや二つはマジでやるっしょ」

 だが彼女の表情は変わらない。

「あなたならそうでしょう。けれど犯人は偽装の為に、社長のズボン等を脱がしたのかもしれません。仮に九竜社長がそうした行為を目論んでいたなら、会社や個人でも多数所持する管理物件で行った方が、より合理的だと思いますがいかがですか」

 そうした意見は、捜査本部でも上がっている。マスコミ等にも伏せられているが、実際被害者は下着を履いていた。つまりスラックスだけを脱いだ状態で発見されている。また解剖所見によれば、尿道から精液も採取されなかったようだ。

 しかし第一発見者には、死体の状況について口外しないようかん口令が敷かれている。犯人しか知り得ない情報の一つとして、警察が意図的に伏せているからだ。

 その理由としては、入室に必要なカードキーの保持者三人の内、二人が女性であり、またその一人である彼女のアリバイだけが、未だ証明されていなかった為でもあった。

 このままではらちが明かない。吉良は何とか情報を得ようと話を続けた。

「そんなことを言い出したら、あらゆる人が疑わしくなっちゃうっしょ。それだとマジ大変だから、もっと情報が欲しいんっすよ。確かに俺が被害者の立場なら、あんな場所に女性は連れ込まないっすね。だから不思議なんすよ。どうしてあの場所で、あんな格好で殺されていたんすか」

「何故九竜社長があの倉庫にいたか、私も不思議でなりません。倉庫にある古い書類の中には、それほど重要なものなんてありません。特にPA社が保有してきた重要機密などは、あんな場所に置いたりしませんから」

「そうらしいっすね。あの場所は二年前にあなたの所属する会社が買い取った、主に大都市で展開している保険代理店が以前使用していた事務所だったと聞いたっす。今は別の新事務所へ移って、あそこを倉庫代わりに使っていたらしいっすね」

「もちろん保険代理店が扱っていた顧客の中にも、私達が担当するような方もいらっしゃいますよ。でもごく僅かでほとんどがマス層の方々ですから、保管方法も全く異なります」

 マス層とは、全金融資産保有額が三千万未満の世帯を指す用語だ。日本人の八割近くが、この層にいるという。合併前の彼女の会社が対象としていたのは、世帯の純金融資産額が五億円以上の超富裕層や一億円以上の富裕層だ。

 金融資産五千万以下の準富裕層や、その下のアッパーマス層と呼ばれ日本人の資産上位二十%に入る三千万円から五千万円未満程度の金持ちさえ、以前はスルーしていたらしい。

 つまり相当な高収入の人しか、相手にしてこなかったことが窺い知れる。

 その為だろう。彼女のこれまでの発言からは買収した保険代理店の顧客に対し、やや見下しているようにさえ感じ取れた。それも理解できなくはない。元々滅多に出入りしない場所のカードキーさえ持たされていなければ、疑われることすらなかったからだ。

 その上彼女が所持していた理由は、単に現場から近い場所に住んでいただけというから余計だろう。万が一何か緊急事態が起こった際、直ぐ駆け付け入室できるようにと、無理やり渡されたと聞いている。

「そうみたいっすね。現にあなたの顧客情報なんかも、上司の相原所長でさえ見ることが出来ないと聞きましたが、本当っすか」

「はい。パソコンには私しか知らない暗証番号でロックされていますし、退社時も特別な金庫の中に預けています。もちろん紙では保存しません。データもバックアップしたものが、同じく暗証番号をかけて管理しています。外部に持ち出すこともありません」

「でも事件があった日、ノートパソコンを持って仕事をしていたんじゃないっすか」

「それは私が個人的に所有しているものです。仕事と言っても、顧客情報を使ったりはしません。そうした物と切り離し、金融資産の運用方法や事業継承の事例を調べていただけです。それでもパスワードをかけ、もし他人が見ても特定の顧客に対する提案内容だと判らないよう、工夫しています」

「リスク管理は徹底していたんすね。そう考えると事件現場は対照的じゃないっすか」

 吉良の言葉に深く頷いた彼女は、眉間に皺を寄せた。

「全くです。だからあんなビルの契約は止めて、他所へ移した方が良いと再三忠告していました。ですが予算の関係もあったのでしょう。全く聞き入れて貰えませんでした」

 しかも頻繁に出入りしていたのは、旧保険代理店に勤務していた事務員の寺内だけだったようだ。月一、二回程ファイルの整理や、空気の入れ替えをしたりしていたという。

 彼女の苦言はさらに続いた。

「私も何度か入った事はありますが、経費の問題とか言いながら電気はともかく、ガスや水道も引かれたままでした。エアコンもありますし、給湯室やトイレの使用も可能だったなんてもったいないにも程があります。少なくともガスは止めて良かったはずなのに」

 その給湯室の水を使って、犯人は浴びたであろう被害者の返り血を洗った形跡があった。しかも置かれていた洗剤などで綺麗に掃除されていた為、余計なことをしてくれたと鑑識が嘆いていたと聞く。その状況から、犯人は相当大胆で冷静な奴との見立てもあった程だ。

 しかも犯人の物らしき指紋やDNAも、発見できていない。そういうものが残っていれば、少なくともこれほど苦労することはなかった。

 ただ被害者の着ていた服から僅かな微物や繊維が検出されており、その事は伏せられている。ただ三郷達を含めた関係者から、任意で提出してもらったDNA等と一致したという報告は、まだ受けていない。

 寺内以外に出入りしていたはずの相原や彼女の指紋すら、古すぎて検出できなかったことから考えると、微物は犯人の物である可能性が高い。ただ被害者が事件とは関係のない他人と接触した際に付いた物とも考えられる為、予断を許さない物証だった。

 吉良は彼女の話に同意しながら言った。

「それにビル管理の警備体制も旧式で、今使っているあなたの会社の事務所とは大違いっすね。向こうはICチップ付きの認証カードっしょ。それなのに現場は電子カードキーなのに磁気だけ。誰が入室したかの区別が出来なかったのも痛いっす。しかもビル全体を含めて最初に入った場合と最終退出者がロックした時間は判るけど、その間の人は判らない。それで警備会社と繋がっているなんて、今どきマジあり得ないっしょ。今となっては三郷さんにとって災難っすよね。それが判れば、こんなことにはならなかったのに」

 彼女は強く頷いた。

「ビルが近い内に取り壊される予定だったから、尚更です。ギリギリまで粘れば、安く借りられると計算していたのでしょう。現に今も会社が借りている一階の他に、三階と四階はテナントがまだ入っています。ガラガラだったら、ビル全体を警備会社が管理することも無かったかもしれません。中途半端にセキュリティがしっかりしていたから、退居せずにいられる口実になってしまいました。でもさすがに今回のような事件が起こったからには、会社は間違いなく契約解除するでしょう。個人情報など記載された書類の流出した形跡が、今の所見つかっていないのは不幸中の幸いです」

「まだうちが押収した段ボールを、寺内さん達が確認している途中ですけどまず問題ないっしょ。犯人の目的は、倉庫にある書類ではなかったはずっす。それにしても警備会社の対応は、本当に中途半端っすね。もっと早く現場に駆けつけて確認していれば、死亡推定時刻なんかもっと絞り込めたはずなのに」

「本当です。それぞれの部屋を最後に出る人は、所定のキーを押してロックする決まりでした。そうやって他のテナントも含めた最終退出者がビルを出る時に手続きすると、警備会社の管理態勢に入ります。夜間にガラスを割って侵入したり、ロックし忘れたりしていれば、一分で駆け付けて異常が無いか確認すると聞いていました。それを怠っていたのだから噴飯物ふんぱんものです。いい加減にも程がありますよ」

 彼女が怒るのも無理はない。事件当夜、警備会社は三つもの大きな過ちを犯していた。あのビルの入居者は、基本的に駐車場と接している裏口を利用していたらしい。最初にカードキーでビルへ入りドアを開けると、入り口近くのアラームが鳴る仕組みだ。

 そこで中にある解除ボタンを押すと、ビル全体の管理システムが解除される。その後は裏口から、カードキーが無くても中に入ることができるようになっていた。

 しかしそれぞれのフロアにある事務所へ入室するには、同じカードキーを使って解除しなければならない。つまり誰かが一旦中に入り解除ボタンを押せば、後は誰でもビル内に入ることができるが、それぞれの部屋へ入るにはまた別の手順が必要なのだ。

 従業員以外の、例えばお客様とか出入り業者が入る場合は、最初にビルの入り口を解除した人が、道路に面した別のドアの鍵を中から開けることになっていたという。現在営業している三階や四階へ訪ねてくる人がいる為だ。

 もちろんそれぞれのフロアでは、同じく最初に入室する人がカードキーで開け、中のボタンを押して解除しなければならない。その時の入室時間は、管理システムに記録される。

 しかしビル内に入る時と同様アラームは鳴るが、退出する時は違うという。それぞれのフロアの最終退出者は、カードキーでロックしなければならない。だがこの時し忘れたとしても、アラームは鳴らないらしい。要するに部屋の鍵を閉め忘れたまま、外へ出てしまう事もあり得るのだ。

 例えば一階から三階までの部屋が全てロックされており、四階の部屋の最終退出者がビル全体で最後の退出者となったと仮定する。その人間がビルを出ようとした場合“最終退出者ですので、ロックしてください”という警告音が、一階の出入り口で鳴る。

 そこで一階のお客様用出入り口に鍵を掛け、さらにマニュアル通りに裏口にあるボタンを押し手続きをして出れば、ビル全体が警備会社による管理体制に入るのだ。

 この時正しい操作をせず、一階の鍵を掛け忘れると警告音が鳴り続ける。それが長く続くと異常発生したと警備会社は判断し、警備員を派遣する流れになっているようだ。

 但しビルの最終退出者がロックした時間は記録に残る。けれどもフロアの最終退出者がロックし忘れた場合、カードを通していない為に記録は残らない。

 まさしく事件の起こった日の夜がそうだった。聞き込みによると、あのビルにおける最終退出者は四階にいた税理士事務所の所長で、いつもより遅い夜の十二時頃だと供述していた。その際、最終退出者であるとの警告音は、聞かなかったとも証言している。

 普段なら間違いなく自分が最後だと覚悟していたのに、おかしいとは思ったらしい。だが他の事務所でも自分と同じく、トラブルか何かで遅くなっている人がいるのだろう、と考え直したようだ。

 けれどもその時ビルには、死体となった被害者以外誰もいなかったと思われる。そういう経緯もあり、吉良は彼女に知っていながらもワザと尋ねた

「どこかのフロアの人がロックしなかった場合、ビルの中へは誰でも自由に入れる状態になるってことっすか」

「基本的にはそうですが、警備会社の方でロックされているかどうか判るようです。なので普段と違いまだ退出していない場合、念の為に確認の電話が入ると聞いたことがあります。前の保険会社が事務所で使っていた頃の従業員からは、そう説明を受けました」

 これも間違いない。実際あの日の夜も、いつもなら十一時過ぎには閉まっている税理士事務所へ、警備会社が連絡を入れていた。そこでまだ残業していた所長は、もう少し時間がかかると答えたそうだ。

 実を言うと警備会社はこの時点で、一階のフロアもロックされていない事に気づいていたという。しかしここで一つ目のミスを犯した。

 現在は倉庫として使われている為、誰もいないと思い込んで確認の電話すらしなかったそうだ。ここで現場に駆けつけていれば、事件は違った展開を迎えていただろう。

 ようやく動いたのは、四階のフロアが退出手続きをしてからだった。一階がロックされていない為、ビル全体の最終退出手続きもされない。そうなると管理システムが働かないので、急遽警備員が二人駆け付けたという。

 しかしその際の手続きにまた問題があった。ついロックし忘れてしまうケースは、他のフロアでも時々起こっていたからだろう。さらにそこが倉庫としてしか使っていない一階だったので、彼らも油断していたと思われる。ビルの中に入り、念の為一階の倉庫のドアを開けたまでは良かった。

 だが彼らは部屋の電気が消えていると判った時点で、誰もいないと思い込んだらしい。良く確認しないまま、警備会社が持つマスターカードでドアの外にある装置をロックし、さっさと手続きを済ませてしまったのだ。これが二つ目のミスだ。

 ちなみにマスターカードキーを使用した場合、出入りした時間や使用した人物全てが特定される為、今回の事件で警備会社が関わっている可能性は無かった。

 しかしそれだけでは終わらない。吉良はさらに質問した。

「退出手続きをし忘れたら、どうなるんっすか」

 そこで彼女は思い出したのだろう。不快な表情を見せながら言った。

「そんな事が続けば、警備員がその度に出動しなければならないので、当然負担がかかります。その為規則では、緊急連絡先として登録されているそれぞれのフロア責任者達に電話をし、事態を告げて警告するルールになっていたはずです。何度も続けば、契約している通常の警備費用に上乗せした金額が請求されるとも聞きました。今回の事件でも、警備会社は所長の相原に連絡を入れています。しかしそのタイミングが、余りにお粗末でした」 

 ここで三つ目のミスが起こった。警備会社から手続きがされていない旨の連絡をその日の夜に告げていれば、事態は変わっていただろう。けれども夜遅いことと、契約しているのは離れた場所に事務所を開いている会社だ。普段滅多に使っていないからと遠慮したらしい。吉良は知っていたが、彼女に尋ねた。

「どういう意味っすか」

「相原にその旨を告げたのは、翌日の朝だったのです。その時間なら早ければ出社しているか、少なくとも起きているはずと思ったのでしょう。当然電話を受けた彼は怒りました。そこでロックし忘れたのは、主にあの場所を管理している寺内さんだと思い込み、彼女に電話を入れて事務所へ直ぐ来いと怒鳴ったそうです。その後私にも電話がありました」

 ここから彼女にも影響する不運が重なった。時間はまだ七時半頃で普段の出社より一時間以上も早かったそうだ。それに寺内家から事務所まで車だと五分程度で着くが、電車で向かえば二十分はかかる。自家用車は以前まで持っていたが、訳合って最近手放したばかりだったらしい。そこで寺内は近くに住む彼女に連絡して、相談したという。

 相原は激情型で、一度興奮し始めると厄介な人らしい。それに買収された側の元保険代理店の事務員では、PA社出身の所長を抑えられないと考えたのだろう。同じくカードキーの所有者として連絡を受けているはずの彼女に、頼ろうとしたようだ。

「だから急ぐ為に、あなたが車を出して二人で事務所に向かったってことっすか」

「そうです。慌てて支度し、八時前には事務所へ着きました。そこから彼の説教が続きそうになったところで、私は異議を唱えたのです。向かう途中の車内で、寺内さんが最近あの倉庫へ入ったのは、先週だと聞きました。その後行っていないのなら、奇妙な話です。だから確認する必要がある、と」

 彼女の会社の始業開始は九時からだ。最寄駅まで歩いて三分、そこから二駅乗って再び三分歩く為、ドアトゥドアで十五分かかるという。しかし車だと五分程度だ。いつもは八時過ぎに出て、八時時半には席につくらしい。

 だから平日は六時半に起きて朝ご飯を作り、洗濯したり家の中の掃除をしたりして準備していると供述している。事件があった日も同様に朝食を食べ終え、燃えるゴミを出す日だった為に出し忘れないよう、袋を玄関の三和土たたきに用意していたという。

 そうして出社準備をし始めていたところ、相原から急な呼び出しがあったそうだ。彼は三郷にさえ詳細を告げず、問題が起こったから早く出社しろの一点張りだったらしい。そこで腹を立てていたが寺内からも連絡が入り、一緒に呼び出されている事を知って緊急性があると考えた。

 そこで電車だと時間がかかる為自分の車を出して彼女を乗せ、事務所へ向かったという。

「相原さんが怒り出した時、寺内さんはどうしてたんっすか」

「所長の剣幕に怯えていましたが、彼女も頷きながら今週はビルに入っていませんと言いました。つまり昨日の夜に最終退出の手続きをしていなかったから、警告音が鳴らなかったとの警備会社の言い分と矛盾します。彼女の言葉が本当なら、先週の時点でこういう事態になっていたはずですから。そこでシステムトラブルかもしれないから、警備会社に確認しましょうと所長に進言しました」

「彼は何と言ったんすか」

「そうかもしれないと冷静になった所長は、警備会社に折り返し連絡し経緯を説明していました。しかし先方は、昨夜間違いなく一階の事務所が夜の八時過ぎに解除されている、と言い張っていたようです。そこで納得のいかない私が電話を代わり、抗議しました」

「抗議っすか」

「はい。例え手続きをし忘れていたとしても、勝手にあの部屋を開けてロックするのはどうかと思いました。遅い時間だったから、気を遣っていただいたのかもしれません。しかし例えば誰かが何か細工して、侵入していたかもしれない。そういう緊急事態に備えて、近くに住む私や寺内という二人の社員が、カードキーを持たされています。部屋の中に誰かいないかなど確認しましたかと聞いたところ、していないというので至急して下さいと申し上げました。それで問題が何もなかったなら、システムがおかしいとしか考えられない。あの部屋に入る為のカードキーを持つ三人が今ここに集まっているけれど、誰も昨夜遅くに入った者はいない。紛失もせず所持している、という事実を伝えました。だからそちらで徹底的に調査して頂けないかと、依頼しました」

「それで事件が発覚したんすね」

 手続きの不備を認めた警備会社は再度問題ないか調べると告げ、一旦電話を切ったらしい。その後が大騒ぎになった。ビルに駆け付け部屋を開けた警備員が、血まみれで倒れている男を発見し腰を抜かしたからだ。

 慌てて警察に通報した後、相原の元にその旨を連絡して来た為、三人も驚愕きょうがくしたらしい。急いで状況を確認しようと相原は寺内と社有車に乗り、三郷は自家用車を一度家へと戻す為、自分の車で現場に駆け付けたという。

 死体の第一発見者は、警備会社の人間達だ。直ぐに急行した警察官に、事情を説明したらしい。三郷達が着いた時には、既に規制線が貼られ始めていたようだ。それでも被害者が知っている人物かどうかを確認する為、三人は部屋に入り顔を見せられたと聞いている。

 犯人が持ち去ったのか、財布や携帯など身分が分かるものを身に着けていなかったからだろう。もちろん体にはビニールシートが被せられ、彼女達が目にしたのは顔だけだ。

 そこで三郷が、自分の顧客である九竜社長だと証言した。他の二人も被害者の顔だけは知っていたので、同じく頷いたという。その為警察ではさらに裏付けをしようと彼女から連絡先を聞き、被害者の家にかけたらしい。

 出たのは稲川いながわ珠江たまえという家政婦だった。妻の敏子は海外にいる事を、その時教えられたという。至急テレビ電話で連絡を取り、久宗が何者かに殺された事を告げると彼女は泣き叫んだらしい。

 それでもアメリカの病院に入院中で、事情により直ぐには帰国できない旨を告げられたそうだ。代わりに現場へ駆け付けたのは、まず被害者の父親である八十三歳の一久かずひさ氏と、六十歳の家政婦だった。

 次に九竜家と被害者が社長を務める九竜コーポレーションの顧問弁護士である松方まつかたと、久宗氏の亡くなった妹の夫で被害者の義弟にあたる兵頭ひょうどうただしもやって来たという。

 そうして現場に集まった関係者全てに、捜査員は事情を聴いた。そこで入室できたのは、カードキーを所持する三人しかいないと結論付けられたのだ。その結果最も疑われたのが、吉良の目の前にいる彼女である。

「被害者は、誰かに呼び出されたんすかね」

「そうだと思います。九竜社長自ら、あんなビルの部屋に入る事などまず無いでしょう」

「やはり犯人は、三郷さんの会社と何らかの繋がりがある人間ってことっすか」

「何度も言いますが、私ではありませんよ。誰と犯人が繋がっているのか。九竜社長を殺す動機がある人は誰なのか。それを調べるのはあなた達の仕事です」

 彼女は現場でも今回の事情聴取と同様に、カードキーを持たない人物だって犯行は可能だと主張したようだ。その為その場にいた警察官は、関係者全員のアリバイを確認した。

 最初に話を聞いた時点だと、三郷の行動は防犯カメラなどで裏付けできると考えられた。そこで問題ないと判断されたらしい。それに最重要参考人と思われた他の二人にも、しっかりとしたアリバイがありそうだった。一方で一久を除く被害者の関係者達の方があやふやだった。

 それもやむを得ない。当初の検視で死後硬直や腸内温度から死亡推定時刻は、死体が発見された朝八時半からおよそ十二時間前後経過しているとの判断だったからだ。

 その上被害者が嵌めていた電波時計は破損しており、十時前を指して止まっていたことから、犯行時刻もその辺りに間違いないと思われた。そんな夜遅くなら、多くの人は自宅などにいる時間だろう。よって証言できる人は、家族だけだったりする場合が多い。

 現に九竜家の家政婦の稲川は、近くのアパートで一人暮らしだった。よってその時間は、既に帰宅していたという。弁護士の松方も八時半には仕事を終え、一戸建ての持ち家に戻っていたと証言。兵頭も同じだった。

 九竜家の家族構成や会社概要を整理すると、殺された六十歳の九竜久宗と妻で五十八歳の敏子との間に子供はいない。久宗の母親は十年前に他界し、夫の一久はその後脳梗塞のうこうそくを患い、僅かにマヒが残った。

 そのことがきっかけとなったのか、息子である久宗に会社経営を任せ隠居したようだ。よって敏子がいない九竜家には、現在近くに住む家政婦と一久と久宗しかいない。一久には他に娘が二人いた。   

 だが二十年前に長女の智美ともみが事故で亡くなり、三年前に次女の雅子まさこが病死している。

 智美の夫だった五十九歳の長谷はせ卓也たくやと九竜家は、縁遠くなっていたようだ。二十八歳の息子、智明ともあきと二十四歳の娘の未知留みちるという孫もいたが、行き来はしていないという。

 対照的に、雅子の夫の兵頭忠とは深い付き合いをしていた。二十歳の孫娘の日香里ひかりも可愛がられているらしい。久宗と忠は小学校の同級生という関係もあったからだろう。現在兵頭は九竜コーポレーションが持つ三つの部署の内、リフォーム関連担当責任者でもある。

 会社は他に、保険代理店兼不動産管理部門や、清掃・保守管理部門を持っていた。九竜家が持っていた土地を運用し、収益を得ているのだろう。

 それぞれの自宅は、車で走れば犯行現場まで二十分もかからない場所にあった。家の中には身内しかいない状況だ。つまり三郷達よりアリバイ証明が困難だと思われた。

 唯一被害者の父である一久は、会社が所有する物件の一つにいたらしい。その移動には自分の車を使ったので、ドライブレコーダーに写っているはずだと主張した。過去に発症した脳梗塞でマヒしたものの、リハビリを重ねた結果今では運転できるまで回復したという。その為別の捜査員が、改めて確認することとなったのだ。

 吉良は再度尋ねた。

「現場で聞き取りしたのは、私達とは別の刑事っすよね。一通り終えた後、それぞれ皆一旦解散したっしょ。でも三郷さんは、現場から九竜家へ自分の車で移動したみたいっすね」「はい。私の顧客が殺害されたのですから当然です。松方弁護士や稲川さんと共に向かいました。刑事さんも二人、ついてきましたよ」

「九竜家へ何しに行ったんすか」

「もちろん海外にいる敏子夫人に連絡を取り、お悔やみの言葉を告げる為です。それだけではありません。何しろ会社の代表取締役が死亡したのですから、代表者の変更手続きが必要です。他に取締役がいる場合、死亡による退任登記と同時に代表取締役の変更手続きをしなければなりません。期限は死亡から二週間以内が原則です。あの会社には会計監査役員が一名いる以外、役員で株式を所持している人は社長を除けば、妻であり副社長の敏子夫人しかいません。その為彼女を社長にする選択肢しか、残されていなかったのです」

「でも奥さんは海外にいて、直ぐには戻れないって話だったっしょ」

「ですから急いで、委任状等を取り付けなければなりません。最悪の場合郵送して頂く必要があったのです。その事を九竜家の屋敷でパソコンを使い、テレビ電話で敏子夫人に伝え様々な打ち合わせをしました。その様子は、同行した刑事さん達も聞いていましたよ」

 この点は吉良達も報告を受けている。結局は松方弁護士が夫人の依頼により、監査役同席の元で金庫にある会社のハンコを使い、書類を整える事となったようだ。

 といっても何故アメリカの病院に一年以上いて、帰国すらできないのか等の詳細は教えて貰えなかったという。重病では無いが、それ以外秘密とされたらしい。しかも驚いた事に、顧問弁護士や被害者の父親さえも聞かされておらず、それらを理解している人物が三郷真理亜しかいなかったことだ。

 会社の業務に関する指示や登記の変更手続き等は、弁護士がテレビ電話を通じ敏子と相談しながら進めていたという。けれど社長死亡による遺産整理手続きや今後の資産管理等は、全て三郷に一任されていたようだ。弁護士さえも彼女の指示に従っていたと聞く。

 その場にいた刑事により、遺族達には彼女が重要参考人となる可能性を示唆しさしていたにも拘らずそうだったらしい。特に敏子夫人から、絶対的な信頼を得ていたからだろう。その影響を受け、弁護士や家政婦さえ三郷が犯人と疑う素振りは全く見せなかったようだ。

 それどころかこれまで以上に彼女の言葉を優先し、この危機を乗り越えなければならないと、その場で決まった程だった。唯一の例外は、元々会社の役員にもなっておらず隠居中で蚊帳かやの外にいた一久だけだったと耳にしている。

 その彼でさえ、彼女が犯人だと考えてはいなかったらしい。他の人達と比べて関わり合いが薄かっただけで、信用されている事は間違いなかったようだ。その証拠に弁護士と共に様々な手続きをする為、関係各所へと向かう彼女の後ろ姿に向かって、宜しくお願いしますと頭を下げていたという。

 その頃上から声がかかった松ヶ根と吉良は、相原と寺内の後について事務所へおもむき、彼女達にさらなる事情聴取をしつつ、各々のアリバイ確認等を行っていた。よって三郷を含めたPA社の三人は、正式な捜査本部が立ち上がってから吉良達の担当と決まったのだ。

 最も疑わしい人物達の捜査班に振り分けられたのは、ひとえに県警刑事部のエースである松ヶ根の相棒に選ばれたおかげだ。一番犯人逮捕に近い場所にいられ、手柄を立てるチャンスだと密かに喜んでもいた。

 しかし捜査が進むにつれて一筋縄ではいかない事が判り、正直頭を抱えることとなった。二人のアリバイが確実となった時点で彼女が最も怪しいと睨み、徹底的にアリバイを調べ崩せば逮捕できると意気込んでいた。だが今はそんな自信など、とっくに失っている。

 彼女の事件発生時における行動は、途中までと最後だけが完璧だった。けれど肝心の間の行動が証明出来そうで出来ない。その原因の一つがアリバイ工作とは程遠い、不運の重なった結果だったからこそ、松ヶ根同様彼女を疑いきれないでいたのだ。

「九竜家へ行く前に犯行時刻とされる時間の行動を刑事に聞かれた時、乗っていた車のドライブレコーダーのデータを直ぐ提出してくれていたら良かったんすよ。そしたらあなたは疑われる事もなかったのに、マジで勿体もったいなかったなあ」

 吉良の物言いに、彼女は淡々と反論した。

「あなた達に要求されていれば、出していたでしょう。それをすぐしなかったのは、そちらのミスじゃないですか。最初に現場へ駆けつけ、説明を聞いた刑事さんが言えば良かったのです。しかもその後に、何度も同じ話を聞いていましたよね。九竜家にいた二回目の時でも、間に合っていたと思いますよ」

 そうなのだ。彼女の車にはドライブレコーダーが付いていた。しかも常時録画タイプでエンジンをかけている間、車の前後を映すタイプだった。だから事件当日における説明が正しければ、車内にいた彼女も含め全て明らかになっていただろう。

 だが初回と二回目にアリバイ確認をした捜査員は、吉良達とは別の者だった。彼らがその大事な証拠提出をその場で要求しなかった為に、余計な混乱を招いているのだ。

 三回目からは正式にPA社所属の三人を担当する役割を与えられた吉良達が、彼女達から話を聞いている。その時点になって、ドライブレコーダーの記録提出をお願いしたのだ。

 しかし残念ながら、時すでに遅かった。何故なら彼女は事件のあった翌日の朝、自家用車を動かしてまず相原が待ち受ける事務所へ移動。その後現場へと戻り、そこから九竜家に車を走らせている。 

 その後も九竜家に関連する手続きを進めようと、会計監査役や会社の幹部達に状況説明をし、今後の対応について話し合う為に飛び回っていた。

 そのせいで吉良達が見た時には、事件当夜の様子が録画された場面が上書きされてしまい、証拠が残っていなかったのだ。

 普段の彼女なら仕事の場合は社有車を使って移動するらしく、そんなことはあり得ないはずだった。だが当日の朝に相原が緊急呼び出しをしたことにより、寺内が彼女に連絡をして自家用車を動かす羽目になった。

 そこからいくつかの不幸なタイミングが重なり、彼女の無実を証明するものは消えてしまったのだ。そう考えると、彼女が犯人だったとはとても考えにくい。何故なら早くにドライブレコーダーの記録を警察が入手していれば、こんなことにはならなかったからだ。

 ちなみにドライブレコーダーには、他にイベント録画タイプのものがある。彼女が事件当夜、停めていた駐車場の防犯カメラと同じタイプだ。何か動いたり事故が起こったりした時の前後だけ録画される為、保存期間は長い。

 逆に彼女の車が搭載していた常時録画タイプだと、走行時間が長ければ上書きされる。よって最初の頃の映像は消されてしまう欠点があった。しかしその分あらゆる場面を映しているので、今回の場合などは有効に活用できたはずなのだ。

 例えば相原達と共に社有車で現場に駆け付けていれば、話は大きく変わっていたに違いない。そうすればその後警察からの依頼があるまで、彼女は長い間自家用車を動かす機会などなかっただろう。

 ちなみに彼女の車の中も、徹底的に鑑識による捜査は済んでいる。もし実行犯だとすれば、犯行後に戻ってこなければならない。そこで被害者の返り血など、不審な物が見つかればと彼女の了解を得て調べたものの、何の痕跡も発見できなかったのだ。

 しかし後悔先に立たず。今更無いものねだりをしても仕方がない。別の証拠を探すなりして、彼女が犯人で無ければ誰なのかを調べるのが吉良達の仕事だ。

 その為話題を変えようと、駐車場で目撃したことはないかを尋ねた。何故ならほぼ同じ時間、駐車場近くにある旧米蔵の周辺に九竜一久がいたことが証明されているからだ。本人は単に見回りの為だったと供述している。

 提出された彼の所有する車のドライブレコーダーの記録では、八時少し前から乗り込んで、その後十時半頃に再び乗り込んだ様子が確認されていた。しかしその間に彼がいたとされる、旧米蔵の中での映像はない。その建物の防犯カメラは当時故障していた為だ。

 けれど近くの駐車場を映す防犯カメラでは、確かに彼が旧米蔵へと入っていく車の様子は写っており、そこから出て行くまで誰の姿も映し出されていない。分析班によればカメラの角度から、こっそり抜け出すことは三郷の場合と異なり、ほぼ不可能だという。よってその間建物から出ていないだろうと結論付けられていた。

 けれど三郷が駐車していた場所から、彼らの通った側道は真正面に辺り、はっきりと見える距離にある。しかし彼女はこれまでと同様そっけなく言った。

「車の中でエンジンをかけながら仕事をしていたので、気付きませんでした」

この証言も、彼女の車のドライブレコーダーが上書きされてしまったので、その様子も残っていない。よって証明することができなかった。

 一久にもその時間、近くの駐車場に停まっていた車の中に三郷がいたようだが、知っていたかを確認した。けれど全く気づかなかった、と答えている。彼女の回答についての信ぴょう性は高くないが、彼に尋ねた時の反応からすると嘘はついていないはずだと担当刑事から聞いていた。

 その証拠に一久は、その事実を聞きかなり驚いていたようだ。まさかあんな時間のあんな場所に、彼女がいたなんて思いもしなかったと動揺していたらしい。それは演技できるようなリアクションでは無かったと断言していた。

 彼女のペースを崩せなかったからだろう。もっと別の話に切り替えろと、横にいる松ヶ根が目で訴えていた。彼が主導してきた聴取だと埒が明かなかった為、女性に対して軽い口調で馴れ馴れしく接する吉良の異例な方法で、変化を生み出そうと試みているのだ。

 その期待に沿えるよう質問を変えてみた。

「三郷さんを疑ってばっかりは、良くないっすね。俺はぶっちゃけ、他に怪しい奴がいると思うんすよ。例えば被害者が死ぬと得をする人間とか。すげぇ金持ちっすから、相続財産を狙ったとかその辺りの話を聞かせて貰えないっすかね。もちろん一般論で結構っす」

「警察も既に把握しているでしょう。家族構成を考えれば、相続人は誰か明らかです」

「普通は奥さんと子供で二分の一ずつでしたっけ。でも被害者に子供がいないから、奥さんと父親が相続人。法定相続分は確か奥さんが三分の二、父親が三分の一だったっすよね」

 彼女の声がやや尖った。

「普通ってなんですか。それにだったらどうだっていうんです。敏子夫人は海外にいらっしゃいますから、犯行は不可能。一久氏は八十三歳で昔脳梗塞を起こし、今も若干麻痺が残っている状態です。いくら油断させて隙を狙ったとしても、社長は六十歳ですが日頃から体を鍛えていらっしゃいました。殺すなんて無理でしょう」

 被害者の身長は百七十五センチ余りあり、還暦を迎えた人物とは思えないほど体つきがしっかりとしていた。昔柔道をやっていたとも聞いている。片や一久は百六十センチ程と小柄だ。彼女の言い分には筋が通っていた。

 それでも隙をつけば、殺害できた可能性もある。よって小柄な女性でも、犯行は可能との見解が捜査本部で既に出ていた。

 彼女はさらに口調を強め、激しく抗議して来た。

「第一、動機は何ですか。九竜家では一久氏の先代が亡くなった時、莫大な相続税が発生したことが教訓となったのでしょう。所有していた多くの土地等は一久氏の代で、相続対策の為ほぼ全て法人名義にしています。しかも自ら持っていた株式を、計画的に息子夫婦である久宗氏や敏子夫人へ毎年譲渡してきました。相続税や贈与税がかからないよう長い年月をかけ、全部手放した上で会社を退任されたのです。そんな方が今更財産が欲しいからと、九竜社長を殺す道理がないでしょう」

 ようやく彼女が秘匿し続けてきた九竜家の内情の話題に入り込めたことで、吉良は表情には出さずほくそ笑む。と言ってもここまでは、警察でも把握している内容だ。もう少し掘り下げて詳細を聞き出したい。そこで話題を広げてみた。

「被害者の義弟にあたる兵頭さんはどうっすか。リフォーム部門の責任者なんでしょ」

 彼女は呆れた表情を浮かべ、反論した。

「社長が亡くなっても兵頭部長に遺産は入りません。それに彼は役員でもありませんから。もしかして社長を殺し、後々後継者になろうと目論んだとでも言いたいのですか」

「彼にはアリバイもないし、可能性はあるっしょ。被害者を殺してもすぐ遺産を手にすることはできないっすけど、高齢の一久が亡くなれば話は変わってくんじゃねぇ? 代襲だいしゅう相続でしたっけ。娘さんの日香里さんは、財産を受け取れるっしょ。それに被害者夫妻に子供はいないから、いずれは誰かを後継者にしなくちゃいけない訳じゃん。被害者と何かトラブルがあったとすれば、もっともらしい動機っぽくないっすか」

 通常なら被害者よりも、八十三歳の一久が先に亡くなっていただろう。そうなると奥さんは既に他界しているので、遺産は彼の子供達に渡る。被害者を含め三人いたが、長女と次女は既に死亡していた。よってその分は代襲相続として、子供達が受け取るはずだ。

 特別な遺言を残していなければ、久宗が三分の一、智美の息子である智明と娘の未知留に六分の一ずつ、雅子の娘の日香里に三分の一が分配されていただろう。

 けれど三郷の証言にもあった通り、相続対策の為に個人資産はほとんど法人名義に変えていて、会社の株式は被害者夫妻が全て引き継いでいる。そう考えると代襲相続分など、大した金額ではないはずだ。

 しかし九竜家の資産を最も多く保有している被害者が先に亡くなれば、一久の持ち分が増えることで、兵頭の娘らが受け取る遺産は跳ね上がる。

 例えば被害者の資産が百億、一久の資産が一億と仮定しよう。先に一久が亡くなれば、孫達が受け取る遺産は約一千六百万円余りから三千三百万余りまでだ。けれど被害者が先に死亡すれば、一久に約三十三億余り入る。

 そこから彼が亡くなれば、約三十四億余りの遺産は孫達で分け合うことになるのだ。長谷の子供達は約十七億を二人で分け合い、兵頭日香里の場合は一人で十七億を手にすることになる。そう考えると長谷らにも、被害者を殺す動機があると言っていい。

 それでも彼女は首を振った。

「可能性だけなら、いくらでも考え付きます。ただ九竜社長と兵頭部長が揉めていたなんて話は、聞いた事がありません。それに二人は、小学校からの同級生で幼馴染です。そうした縁もあって、四つ下の妹の雅子さんが兵頭部長と親密になり、二人は結婚したと聞きました。あと兵頭部長は、それ以前からリフォームの会社に勤めていたようです。だから結婚を機に、九竜コーポレーションへ転職し今の部門に入りました。今やそこの最高責任者で、給与や待遇もかなり優遇されているはずです。その証拠に役員にこそなっていませんが三年前に雅子さんが病死された折、当時高校生だった日香里さんの教育資金を援助する形で、相当な資産を渡したと伺っています。そちらでお調べになれば分かるでしょう」

 実はその件も既に把握している。アリバイなどを聞く際、被害者との関係を聴取した担当の刑事達がそうした話を聞き出し、裏も取れているとの報告を受けていた。吉良達の知りたいことは、もっと別の新たな情報だ。その為わざとしつこく迫った。

「もっと欲しい、と思ったかもしれないじゃないっすか」

すると何度目かの深い溜息をついた彼女は、子供に噛み砕いて説明するよう話し出した。

「今すぐお金を必要とするほど、彼らは困っているのですか。そんな事実があれば教えてください。日香里さんは今大学生ですし、先程言ったように十分な資産を渡されたはずです。兵頭部長だって、現状に不満を持つような扱いは受けていません。考えても見てください。あなたが説明した条件の通りで、九竜社長の資産を百億と仮定しましょう。一久氏が亡くなってから社長が死亡した場合、敏子夫人に四分の三の七十五億円、残りは亡くなった二人の妹さんの子供達に相続権が発生するでしょう。その場合日香里さんは十二億五千万円、長谷智明さんや未知留さんにはそれぞれ六億二千五百万円ずつになります。けれどあなたの説明では今すぐ一久氏が亡くなれば、日香里さんは約十七億円、智明さん達が約八億五千万円ずつ受け取るとの計算でしたね。確かに差はあるでしょう。でもそれが殺人のリスクを負うほどの動機になるでしょうか。犯人として逮捕されれば、相続欠格となってしまうのですよ。そこまでしなければならない理由は何でしょうか。長女の元夫の長谷卓也さんや兵頭部長が例えお金に困っていたとしても、相続人はあくまで息子さんや娘さん達です。しかも皆成人していますから、横取りしようとすることは困難だと思いますがいかがでしょう。それとも皆が共犯だとでもおっしゃるのでしょうか」

 畳みかけるように反論されたが、吉良は負けてなるものかと言い返した。

「一人当たり二億、または四億円以上多く手にすることが出来る、というのは十分な動機にはならないっすかね。それに犯行現場に入る為には、カードキーが必要っす。ということは、持っている誰かと繋がっているってカンジ? そういう心当たりはないっすか?」

 だが挑発には乗らず、彼女は淡々と語った。

「成功報酬を払う約束をして、協力させたとでも? 結局私を疑っているようですね。警察も既にご存知でしょけど、長谷家と九竜家は二十年前の事故の件から、縁が切れているようです。私も社長から話を聞いて名前を知っているだけで、お会いしたことはありません。兵頭部長や日香里さんは、何回かお会いした程度です。九竜社長や敏子夫人との関係とは、比べものになりません。第一、私のクライアントは社長夫妻です。社長と敏子夫人のご要望を叶えることで、成功報酬が頂けます。殺すことに加担して、何の得になるというのですか。申し訳ありませんが、私は経済的に全く困っていません。独り身で今すぐに職を失ったとしても、将来困る事のないよう十分な蓄えはしています。ライフプランニングやリタイアメントプランを設計するのが私の仕事で、その道のプロですから」

 揺るがない態度と整合性の取れた証言に、吉良も苦戦した。このままでは松ヶ根と同じてつを踏んでしまう。彼女が犯人だとまでは思わないにしても、真実に迫る何かを掴まなければならない。 

 そこでどうにかして、食い下がろうとした。

「相原所長はどうっすか。アリバイがあっても、カードキーを渡しているかもしれないっすもんね。お金に困っているとか、脅されているとかって聞いてないっすか」

「知りません。それに私が聞いている限り、九竜家やその周辺の関係者との接点は無いと思います。あくまで私の顧客ですから、所長といえどもノータッチです」

「寺内さんはどうっすか。彼女は買収された、元保険代理店の事務員っすよね。つまりここが地元っしょ。九竜家の事は当然知っていて、繋がりがあっても不思議じゃなくない?」

「それも知りません。彼女とは合併してからの付き合いなので、まだ二年程度です。それに彼女の主な仕事は、今でも保険業務に関する事務に限られています。私や相原所長のようなPA社出身がしている仕事とは別ですから、関わる機会も多くありません」

 取り付く島もない反応に思わず項垂うなだれた吉良に、彼女は追い打ちをかけた。

「今言った二人が誰と繋がりがあるかを調べるのも、あなた達の仕事でしょう。それと今回の事件が相続に関わっているとすれば、関係者を洗うことだってあなた達です。私は九竜社長を殺していません。疑うのなら、それ相応の証拠を持って来てください。これまでお話しできる事は、全てお伝えしたはずです。よって今後は何か新たに判ったことが無い限り、事情聴取には応じません。よろしいですね」

「い、いやちょっとそれは勘弁してもらえないっすか」

 しかし彼女は首を横に振り、きっぱりと断言した。

「しません。もちろん捜査に何か進展があれば、お話は聞きます。それに対する質問にもお答えしましょう。しかし聞く人と質問口調を変えただけの聴取が続くなら、拒否します」

 これには横で聞いていた松ヶ根を含め、グウの音も出なかった。そうして彼女の事情聴取は終了したのだった。


 警察署から帰宅した真理亜は、部屋に入るとソファに横たわった。時計を見ると既に四時を回っている。外はまだ明るいが、この時期は暗くなるのも早い。

 何度も繰り返してきた溜息をつきながら、耳をすます。さすがにあれから三日しか経っていないし時間もまだ早いので、隣から喧嘩の声は聞こえない。その事に安堵する。こんな時ぐらいゆっくりと穏やかに過ごしたかった。

 全く厄介な事になったものだ。といって彼らを責める気にはならない。しかしその分、神経は磨り減った。いつもなら昨日買い出ししておいた食材を使い夕食を作るところだが、その気力も失せた。ましてや手の込んだ料理など作れそうに無い。けれどお腹は空いた。

 明日からまた仕事が始まる。いつもなら、食事を済ませた後にノートパソコンで一仕事するところだ。しかし今後は九竜家の件が片付くまで、他の仕事を後回しにするしかない。それでもやらなければならないことが沢山ある。

 そこでレトルトのカレーを湯煎ゆせんし、冷凍したお米をレンジに入れて解凍ボタンを押す。手抜きの夕飯を済ませたら今日だけは仕事せず、ゆっくりお風呂にでも入ろうかと考える。

 精神を休ませなければ、体に支障が出てしまう。それはこれまでの経験でよく理解していた。その為にも静かな住環境は大切だ。

 今住んでいる所は周囲が一軒家の住宅地に囲まれた二階建ての低層賃貸マンションで、大家を除く入居者は六世帯しかない。現在七十代の大家夫妻は所持していた土地を活用し、元々平屋建てだった家を建て替え、賃貸料を老後資金に充てるマンション経営をし始めた。その為一階部分に自分達が住む二世帯分の広さを確保し、終の住処とする予定だと言う。

 間取りは全て広めの一LDKばかりだ。よって自分の他にも一人暮らしの方はいるけれど、基本的には夫婦または小さな子供と住む家庭の方が多い。

 だが賃貸でもそれなりに賃料が高いだけあって、しっかりとした防音壁を使っている。加えて世帯数も少ないので、基本的に騒がしくはなかった。低層で落ち着いた住環境を探していた真理亜の要望通りだったこともあり、三年前にここへ引っ越してきたのだ。

 その後会社が保険代理店を買収したことで、全国の職場編成は大きく変わった。しかし幸い真理亜の勤務地は変わらなかった為、このままここで住んでいる。ただ計算外だったのは当初静かだった隣の夫婦が、ここ最近尋常ではない大声を出して喧嘩し始めたことだ。 

 通常ならかなりの騒音は防げていた。よってテレビなど点けていたら、全く気にならない程度の声だろうとは思う。けれど真理亜は、人より少し音や振動等に敏感だった。その理由もある程度判っていて、自覚もしている。

 真理亜は阪神淡路大震災と東日本大震災という、近年の日本において凄まじい規模で甚大な被害をもたらした地震を、身近に経験していた。元々の出身は、高校まで住んでいたこのS県だ。大学から東京へ出て卒業後に入社したのは、損害保険会社だった。

 しかしそこで研修を受けた後最初に配属された勤務地が、神戸の三宮さんのみや支店だったのだ。総合職として入社したので、全国各地のあらゆる場所へ転勤させられることは覚悟していた。けれども赴任してから四年が過ぎ、そろそろ別の部署に異動するだろうと思っていた矢先、あの震災に遭遇したのだ。

 当時は社宅として借り上げられた、鉄筋五階建てマンションの四階に住んでいた。まだ目覚める前の朝方、これまで経験したことのない揺れによって起こされた。その時の恐怖は、二十五年以上経った今でも忘れられない。

 棚は全て倒れ、ブラウン管のテレビも踊るように跳ねた後で台から落ちた。ただただ揺れが収まるまで、ベッドにしがみついていたことを覚えている。幸いマンション自体は無事だった為、逃げる時に足首を軽く捻った程度の軽傷で済んだ。

 仕事場だった三宮ビルもそれ程被害が無かったので、その後全国各地から地震対応の為に応援が駆け付け対策本部が立てられた。真理亜も担当代理店や顧客対応に追われ、忙しい毎日を過ごすこととなったのだ。

 その九か月後にひと段落着いたこともあり、地元に近い関東への異動辞令が出た。しかしあれから高いマンションには恐ろしくて住めなくなり、借り上げマンションもできるだけ低い部屋を探して貰うようになったのだ。

 さらにその後、保険会社を辞め今の会社に再就職して間もない頃、東日本大震災を経験した。この時は怪我どころか、部屋の中の物は何も被害に合わず済んだ。

 しかしかつて味わった恐怖が身に染みていたのだろう。揺れや音などを感じやすくなっていたらしい。眠っている時や起きている時でも、何となく揺れている感覚が長い間抜けなかった。その上地震が起こる前の、ゴゴゴッという響きを聞いたからだろう。ちょっとしたノイズにも違和感を覚える体質へと変化してしまったようだ。

 他にも過去の様々な経験と要員が影響して重なり、そうなってしまったのだろうとかかりつけの精神科医の診断により告げられていた。その上最近は会社関係でも頭を悩ましていた。それでも幸いないことに、真理亜の担当で関係が深い顧客は皆口を揃えて

「今回の事は災難だったね。あなたに人を殺せる訳がないじゃない。私達は信じてるわよ」

と慰め、応援してくれていた事だ。

 それでも事件についての噂が周辺地域に広がっていた事から、まだ接して間もない顧客は、他の担当者に振り分けられてしまった。当然新規のターゲットリストも渡されることなく、当面は既存顧客対応のみに限定するよう、本社を通じて相原から申し渡されている。

 まだ出社停止にならなかっただけましだ。もちろん相原や寺内を含め、確たる証拠が出た訳ではない。それでも疑わしいというだけで、周囲からの目は想像以上に冷たかった。

 しかも事件についての噂が周辺地域に広がっていた事から、まだ接して間もない顧客は、他の担当者に振り分けられてしまった。当然新規のターゲットリストも渡されることなく、当面は既存顧客対応のみに限定するよう、本社を通じて相原から申し渡されている。

 まだ出社停止に至らなかっただけましだ。もちろん相原や寺内を含め、確たる証拠が出た訳ではない。それでも疑わしいというだけで、周囲からの目は想像以上に冷たかった。

 けれども当面は事件の発端となった、九竜家の様々な後始末や諸問題への対応が最優先だ。よって他の仕事がセーブされたことは、かえって良かったかもしれない。しかしいつまでもこのような状況が続いて、いいはずなどなかった。

 一方で深く関わってはいけないと警告する自分がいた。その為頭の中で尋ねてみた。

「どうしてそう思うの?」

 だが明白な答えは返って来ない。そこで真理亜は異なる意見を持つ彼女を追い払った。

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