第2話 わからせの業火を宿して──


「ちょっと翔太しょうた~! いつまで寝てるの~?」


 俺を呼ぶ声とともに、ゆっさゆっさと優しく肩を揺らされていた。


 夢見心地の良い気分。

 自然と「あと五分」が口からこぼれ出る。


「はいはい、あと五分ね? と、言いたいところだけど。花純ちゃんと毎朝待ち合わせしてるんでしょ? 遅れるなら連絡くらいしなさい!」


 忌々しい名前を聞いて意識は一瞬で覚醒する。 


「……はっ! か、かすみ……」


「あれれ~? なになに〜? 花純ちゃんの名前を聞くと起きちゃうの〜? 可愛いやつめ!」


 うぐっ……。いや、まあそうだけど。


 って、え?! 


「ね、姉ちゃん?!」


「はいはいお姉ちゃんですよ~。起きたならさっさと顔洗って学校行く支度しなさーい!」


 これはまた珍しい。姉ちゃんに起こされるなんて何年振りかな。


 姉ちゃんはキャンパスライフとやらを満喫する大学二年生。

 ここ最近はあまり家には寄り付かず、同じ家に住んでいるのに顔を合わせることは殆どなかった。


 姉ちゃん曰く『大学は遊ぶ場所』らしい。


 たまに会うとお酒臭くて距離を取る存在に変わっていたけど、今日はいつか見た、懐かしい雰囲気の姉ちゃんだった。

 

 でもなんで、俺の部屋に居るんだろう。

 そういえば町内会の掃除があるとか、母ちゃんから昨日聞いたような……。


 寝ぼけ眼をこすりながら、なんとなく時計を見ると驚愕──。


「うおっ!」


 特大の寝坊をやらかしてる!


「さんきゅー姉ちゃん! 恩に切る!」


 大急ぎでベッドから起き上がると姉ちゃんに腕を掴まれた。


「ストップ翔太」

「ほえ?」


 俺の顔を食い入るようにじーっと見てきた。


「目、腫れてるじゃん。なんかあったの? お姉ちゃんに言ってごらん? ううん?」

 

 ……まじかよ。最悪だ。


 “目が腫れている”

 その言葉だけで十分だった。


 まぁ、そうなるよな。恋に敗れた者に訪れる、翌日の朝はこんなものだろう。


 しかし俺は失恋の涙など一滴も流していない。

 わからせの業火に身を宿したゆえの血の雫。その末の腫れだ。


 そうでなければ困る。


 なんてったって今日は『DAY2』

 二日目にして始まりの朝だ。気合を入れて挑まなければ花純が展開するであろう日常に飲まれてしまう。


 遅刻ギリギリの電車まではまだ30分ある。しっかり朝飯を食って、万全を期すんだ!

 

 だから悪いけど姉ちゃんに構っている暇はない。それになにより、話せるような内容じゃないからな。


「べつになんとも! 俺急ぐから! のんびりしてると遅刻しちまうからな! 起こしてくれてまじさんきゅー!」


 しかし姉ちゃんは俺の腕を離してくれなかった。

 仕方なく強引に振り払うと大げさに倒れてしまい……。


「そんな風に言われるとお姉ちゃんかーなーしーいー。ぐすんっ」


 ぐすんぐすんと泣き真似を始めてしまった。しかもチラっチラっと見てくる。


 ……忘れてた。姉ちゃんってこういう人だった。


 本当に俺と血の繋がりがあるのかと疑うほどに器用な人間で、尚且つそこそこ可愛いくて、そこそこ勉強もできる。なんでも卒なくそこそこにこなす、オールラウンダー。


 そんな姉を相手に誤魔化すのは、容易くない……。


 とはいえ誤魔化さなければならない。この人、花純のこと大好き人間だからな。


 涙の理由をドンピシャに当てられたらまずいことになるぞ。


「しくしく。ぐすんっ」


 姉ちゃんごめん。本当にごめん。


 泣き真似をする姉ちゃんをシカトして洗面所へGO!


 顔を洗い終わると、鏡越しに姉ちゃんの姿が映った。……ですよね。ついてきちゃうよね。


 次の瞬間には、ぐいぐいと俺の顔を覗き込んでいた。


「あ〜。腫れ引かないねぇ。泣いたあとはすぐに水ですすがないとだめじゃん! そのまま寝るから腫れちゃうんだぞ〜? 今お姉ちゃんが蒸しタオル用意してあげるから! こういうのはね、血行を良くするといいの! 枕を濡らした夜の対処法として覚えておきなさい!」


 サラッと自然に確信をつくような言葉を織り交ぜてくる。


 この人とこれ以上話すのは危険だ。とはいえ、否定しないと認めるようなもの。

 

「べ、べつに枕を濡らした記憶はないんだけどな!」


「じゃあなんでこんなにおめめ腫れちゃってるのかなぁ? 学校休んでお医者さんに見てもらう? お姉ちゃんが連れてってあげよっか?」

 

 まずい。これは脅しじゃない。否定を続ければ本当に病院に連れて行かれる。……姉ちゃんってそういう人。


 ……仕方ない。


「嘘です。ごめんなさい。枕濡らしちゃいました……」


「はい。素直でよろしい!」



 ……はぁ。

 なんでこんな日に限って姉ちゃんが居るんだよ。ちくしょう……。




 ☆ ☆ ☆


 だけども、姉ちゃんのおめめケアのおかげで目の腫れはだいぶ引いた。


 あのまま花純に会っていたらと思うとゾッとする。

 

「さんきゅー姉ちゃん! 助かったよ! ってことでもう大丈夫だから! 朝帰りって感じじゃなさそうだし、大学行くんだろ?」

 

「その予定だったんだけどね〜。可愛い可愛い弟の翔太が夜な夜な枕を一人寂しく濡らしていたと知ったら、ね? 講義なんて受けてる場合じゃないよ?」


「本当にもういいから。大学行けよ! お願いだから行って! この通り。お願いしますよ!」


 俺のお願いなど知らんぷりで、姉ちゃんは考える素振りを見せるととんでもないことを言い出した。


「ねえ、もしかして花純ちゃんと喧嘩でもしちゃった? なかなか仲直りできなくて、ついには無意識に枕を濡らしてしまった! ぐすんぐすん的な感じ? 溢れる涙が止められない。花純! 俺はもっとお前と一緒に居たいのに! 的な?」


「ち、違うから……! な、なんで俺があいつと喧嘩したくらいで枕を濡らさなきゃならねえんだよ!」


「あ〜。図星かぁ……。翔太は本当にわかりやすいなぁ〜……」


 勘弁してくれ。とは思うも、いい感じに誤解してくれたもんだなと内心ホッとした。


 なんせ、枕を濡らした理由は凄惨で無慈悲なものだからな。

 姉ちゃん。あんたの弟はな、純情を弄ばれちまったんだよ。あんたの大好きな花純ちゃんって女の子にな。


 知らぬが仏。だからここが落とし所だな。……しゃくには触るけど。


「ああそうだよ。正解だよ姉ちゃん。わかったならもういいだろ。この話はおしまいな」


 しかし姉ちゃんはため息を履くと神妙な面持ちに変わった。


「いい? お姉ちゃんからの忠告。変な意地は張らないこと。ちゃんと捕まえておかないと取り返しのつかないことになるよ? 翔太はそこんところをわかってなさそうだから言ってあげる。もう高二でしょ? いつまでグダグダやってるつもりなの? さっさと付き合ってやることをやりなさい。お母さんから聞いた話だとね、お父さんのすごいんだって。だからお父さん似の翔太なら大丈夫。自信を持つこと!」


 なんだよ姉ちゃん。突然どうしたんだよ……。

 すっげー下ネタじゃねえかよ……。親のそんな話、聞きたかないよ……。


 でもなにが言いたいのかは痛いほどに伝わる。

 あのな、姉ちゃん。もう手遅れなんだよ。捕まえるどころか、昨日振られちまったからな。


 言えないよなぁ。いつかは言わなきゃいけないけど、あいつはまだ俺と幼馴染で居ようとしているし。


 ……はぁ。


「わかった。肝に銘じておくよ。だから姉ちゃんは早く大学に行けよ」


 ごめんな姉ちゃん。今はまだ話せないんだよ。すべてを清算した、そのときには──。


「うん。良い子だね翔太。じゃっ、お姉ちゃんは大学に行って来ようかな〜」



 ふぅ。どうにか乗り切ったか。


 と、思ったところで──。

 おそらく最悪のタイミングでインターホンが鳴った。

 

 ──ピンポーン。


「こんな朝早くに誰かな?」


 言いながら姉ちゃんはドアモニターを確認した。


「あっ、花純ちゃーん! 翔太が遅いから心配して迎えに来ちゃったのかな? わぁ、超良い子じゃ~ん。しかも相変わらずかわいい〜。ぎゅーってしてこよ!」


 ……おいおいまじかよ。

 いったいどんな神経をしていたら、振った男の家に来れるんだよ。確かに手打ちにはしたけどさ。まじでなにも変わらないんだな。


 だからこそ、遠慮なくわからせられるってもんだが、やはりイライラが先行してしまう。


 ──落ち着けよ、俺。


 なんて思っていると、玄関から二人の話し声が聞こえてきた。


「ちょっと花純ちゃん! しばらく見ない間にまた大きくなったんじゃないの? うわ、重っ!」

「えへへ。肩凝りがひどくて困りものですよぉ〜」

「羨ましい悩みだなぁ。やっぱりあれかな? 翔太に揉まれて大きくなっちゃったのかな? とか、あはは。うそうそ! じょーだん!」


 姉ちゃん……。早く大学行けよ……。


「ふふんっ。それはしょーちゃんとわたしだけの秘密ですッ! しーっ。ですよっ! 言えませんッ!」


 おい。やめろ。まじでやめろお前。

 思わせぶりにデマカセ言うのやめろ! 


 だめだこいつ。本当に昨日までとなにひとつ変わらない。


「あははっ。なーんだ。仲良しそうで安心したよ〜。てっきり喧嘩でもしてるのかと思ってたからさ」

「おぉっ! さすがですお姉さん! 喧嘩、してますよ? というかわたしが怒ってますッ! しょーちゃんの横暴な態度には困ったものです! むっすー」


「あらら。やっぱりそうだったか。でも、それなら話は早い! 翔太が花純ちゃんにごめんさいしたいんだって。話だけでも聞いてあげてくれないかな? あの子、結構思い悩んじゃってて。だからお願いっ。お姉さんの顔を立てると思ってさ」


 ね、姉ちゃん……。いや、こればかりは仕方がない。

 喧嘩して枕を濡らしたってことにしちゃったんだからな。


 に、してもこの女。

 自分のしたことを棚に上げてよくもまあ、ぬけぬけと言えたもんだ。


 この女の腹の中はいったいどうなってんだよ。ったく。


「うーん。話だけならいいですよぉ! でも、しょーちゃんの横暴な態度が治らない限りはむっすーですからねッ!」

「大丈夫。その辺はよく言って聞かせておくから。お姉さんに任せなさい! じゃあ花純ちゃん、上がって上がって〜!」

「はぁい。おじゃましまーす!」


 本当にクソッタレ女だな。普通に家の中にまで入って来るのかよ。



 しかしこれは、いやはや。

 俺だけの問題だと思っていたけど、事は思ったよりも深刻だな。


 言うなれば我が家は『花純ちゃん大好き家族』だ。


 姉ちゃんは実の妹のように花純を溺愛している。

 それと同じように、父ちゃんと母ちゃんも娘のように花純を溺愛している。


 なのにこいつは仮面を被った悪魔だ。

 良心の呵責かしゃくもなく純情を弄んで、なおも飽き足らずに弄び続ける。


 わからせた後に訪れる『ロスト花純ちゃん』を前にして、姉ちゃん父ちゃん母ちゃんはなにを思うのだろうか。


 知らない方が幸せなことってあるからな。



「……はぁ」


 ため息を吐くと、廊下から声がしてきた。

 そういえば、おじゃましますとか言ってたのに。なにやってんだ。


「ちょっ、お姉さんっだめです! 後ろからは、めっ、ですよッ!」

「ああー! ごめんね。ついうっかり手が伸びちゃった! でもさ、これ何カップあるの? 気になちゃって仕方ないの!」

「えっと……。Gカップですけどぉ……」

「G⁈ そうだよね。こんなに大きいんだもん。それくらいあるよね。手に収まらないし……。ねえ花純ちゃん、もう一回だけいい?」



 姉ちゃん……。まじで早く大学行けよ……。


 

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