咒法の解法

涌井悠久

最終話とプロローグ

「私ね、呪われてるの」

 出逢であってすぐに、彼女はそう言った。

「呪われてるから、ここから出られない。死ぬことは許されないし老いることも許されない。『永遠を保つ呪い』なの」

 彼女は言葉をつむぐ。昼間だというのに薄暗いこの廃墟に、彼女の言葉だけが木霊こだまする。

「可哀想だと思わない?こんな暗い場所に一人ぼっちで、何もすることがなくて、何も食べるものがない。ねえ、可哀想だと思わない?」

 僕はその問いに答えるのがやっとだった。呼吸も瞬きも忘れ、ただ茫然と彼女を見つめていた。

「…はい」

 彼女は実に奇麗だった。称賛に言葉は要らなかった。

「ありがとう。君は私のこと、気味悪いと思わないの?」

「も…勿論、です」

 正直に言えば、気味が悪い。暗闇の中でセーラー服を着て、雪のような白い肌を持つ女の子が佇んでいたら誰だって怖がる。ただ、僕はそれ以上にこの関係を終わらせたくなかった。

 迷子になって偶然にも廃墟を発見した少年と、その中に閉じ込められていた少女。そんな不思議な関係。

「良かった。みんな私を見て幽霊だって騒ぐものだから、君みたいな子が来てくれて凄く安心した」

 その言葉にまたドキッとした。男子は一目惚れしやすいなんてよく聞くが、その言葉に何も間違いはなかった。僕は一目惚れしているんだ。この人に。

「そんな玄関に立ってないで、こっち来て」

 彼女はたおやかに僕に向かって手招きする。電灯に誘われる馬鹿な虫のように、彼女の方へ歩みを進めた。

「お話ししましょう」

 連れてこられた場所はバルコニーだった。外には静かにざわめく木々と青空。日の傾きで影が出来ており、涼しく過ごしやすい環境だった。バルコニーには白い木製の椅子が二つと机が一つだけ。

 彼女が一方の椅子に座り、座ってどうぞとでも言いたげに僕に視線を向けた。僕も座ると、彼女は満足そうな表情で一冊の本を机の上に開いた。

 それから彼女は、その本を通して様々なことを教えてくれた。この街のこと、聞いたことのない単語、人間の思想、失われた文化。

 教えられるたびに僕はどんどん知識が増えて、彼女の横顔を見るたびに僕はどんどん惹かれていった。彼女に出会ってやっと人生が始まったようにさえ思えた。

「ねえ。ペトリコールって知ってる?」

「いや、知らないです」

「ペトリコールってのはね、雨が降った時に地面から上がってくる匂いのことなの。ギリシャ語で『雨のエッセンス』って意味。…私はずっとこの廃墟から出られないけど、ペトリコールのおかげで外の雰囲気を感じられる」

「…そうですか」

「…ねえ。君、名前は?」

「名字ですか?下の名前ですか?」

「どっちも」

間杉ますぎ晴風はるかぜです」

「晴風くん。さっき、私のことを可哀想だって言ってくれたよね」

「…はい」

 僕の胸が高鳴る。

「だったらさ…」

 彼女の一挙一動に目が行ってしまう。彼女はゆっくりと立ち上がり、近くにあった棚の一番下から何かを取り出した。


「――私の呪いを終わらせて」


 瞬間、視覚以外のすべての情報が遮断された。彼女の持つそのから、僕は目を離せなかった。

「…何を、しているんですか」

 やっと正気を取り戻して出てきた言葉は、そんなありきたりな言葉だった。僕は彼女に気の利いた一言も上げられない。

「聞かなくても、分かるでしょう?」

「だって、そんな…」

「大丈夫。ここは町はずれの廃墟。そう簡単に私の死体は発見されない」

「そうじゃなくて…」

「『好きな人が死ぬのは嫌だ』?」

 突然の言葉に思わず顔を赤らめてしまう。全てお見通しだったんだ。僕の気持ちも、横顔を見ていたことも。

「好きだからこそ、だよ。晴風くん。君じゃないと私は殺せない。好きだから私のために献身してくれる、君だからこそ」

 晴風はしばらくうつむいていた。彼のその表情からは様々な心模様が読み取れる。困惑、哀惜あいせき愛慕あいぼ

 おもむろに彼は椅子から立ち上がり、彼女の前に立った。まっすぐと透き通った瞳で彼女の目を見つめ、そして――ナイフを右手に取った。

「ありがとう。私も晴風くんのことが好き。純粋でまっすぐで」

 晴風は目に涙を浮かべながら、ナイフをゆっくりと彼女の腹部へ向ける。そしてそのまま前に突き出した。

 ぷちっという、服と皮膚を貫通した音の後に、刃物はどんどん彼女の腹部へ入っていく。セーラー服にはたちまち赤い染みが出来て、手を前に押すたびにその染みは大きくなる。

 彼女の息が荒くなり首筋に温かく湿った吐息がかかる。

 ナイフは更に奥へ奥へと刺さっていく。彼女を愛撫あいぶするかのように、丁寧に、確実に、じっくりと。

 刃の部分が全て刺さった時、彼は初めて力を弱めた。そしてナイフから手を放すと同時に床に倒れこむ彼女を、晴風は見つめていた。浅くテンポの速い呼吸をしながらも、彼女は恍惚こうこつの笑みを浮かべていた。

「死ねる…やっと…。長かった…」

 彼はそんなことを譫言うわごとのように呟いている彼女に膝枕をして、そっと頭を撫でてやった。艶やかでさらさらとした髪だった。

「やっぱり、私…晴風くんのことが好き。…」

 思わず彼女の頭を撫でる手が止まった。彼の表情に困惑が浮かぶ。

「ふふ…これが、私が教えられる、最後の…知識」

彼女は、膝の上で不敵に笑っていた。


「呪いって、伝播でんぱするのよ」

 そう呟く彼女は実に奇麗だった。

 それを最後に、彼女は息を引き取った。彼女は『呪い』から逃れられたのだ。

「伝播って…」

 さっき彼女から学んだ言葉の一つだ。伝わり、広がっていくこと。

「――まさか」

 彼は彼女の亡骸なきがらを置いて玄関へ向かった。靴を履き、ドアノブに手をかけた。

「…開かない」

 次に彼が向かったのはバルコニーだった。ここから落ちれば骨折するかもしれないが、ここに閉じ込められるよりましだ。

 だが手すりに手をかけた瞬間、体が動かなくなった。

――『呪われてるから、ここから出られない。死ぬことは許されないし老いることも許されない』

 そんな彼女の言葉を思い出した。

「…待てよ」

 彼は棚を漁り、縄を取り出した。藁でできた荒縄だ。

 それをバルコニーへ続く掃き出し窓の縁にくくり付け、もう一方を輪の形にした。そして白い木製の椅子に乗り、輪の形の縄に首を通した。

 僕が刺して死ぬのなら、死ねない訳がない。彼女は嘘をついていた。死ぬことは許されているのだ。

 後ろにある白い彼女の死体を見て、彼は覚悟を決めた。彼女のいないこの世にもう用はなかった。

 これが『咒法じゅほう解法かいほう』だ。


――ガタン

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る