邪心のない瞳

四十物茶々

邪心のない瞳

俺は子供の無垢な目が嫌いだ。


全てを見透かすような、それでいて全てを頼るようなそんな瞳だ。

子供には子供の言い分がある。それは当然理解している。何故なら、俺だってかつては子供だったからだ。


しかし、いつからだろう。


あの目が、あの声が、あの態度が癇に障るようになった。

愛されて然るべきだという態度が本当に気に入らない。

それを目の前の男に言うと、男は「ハッ」と鼻で笑った。


静かで、落ち着いた雰囲気の喫茶店のカウンターで俺と男は横並びに並んで珈琲を嗜んでいた。

ブラックで飲めるのは大人の証拠だ。そう、鼻を鳴らす俺を見て男は「ハハハ」と笑った。

タバコを燻らせる男は、俺より、10は年上だった筈だ。


「まだ、赤子のミルクみたいな匂いさせてる奴が言う台詞かね?」


男は喉の奥でクツクツと笑う。

手の中で転がされるように馬鹿にされている筈なのに、俺は不快には思わなかった。

子供である自覚はある。しかし、どうしても子供が許せない。


「ただの同族嫌悪だろ」


俺の目を指さして男は、ニヒルに微笑んだ。口角に刻まれた皺が、男に重厚感を与えている。


「同族嫌悪なんでしょうか」

「俺から見たらお前も同じような目をしているよ」


無垢で、ガラスのように煌めきながら空っぽに見える瞳。俺はそう、指摘されて言葉を詰めた。

いつまで藻掻いて居ても、俺は彼にとっては子供らしい。悔しくて、しかし、心地よくて、俺はゆるゆると口角を緩めた。



男は、俺の勤める会社の上司だ。

バリバリ仕事ができるエンジニアでありながら、出世街道からは疎遠な彼を、俺は心の底から尊敬していた。

白髪が混じるごま塩頭を揺らしながら出社する姿はいつもどこか疲れているようで、草臥れたダークカラーのスーツが長年会社に貢献している証拠のようで、俺はどこも敵わないなと思いながら、パリッとノリの効いたシャツとクリーニングが行き届いたスーツで出社していた。


「昇進、おめでとう」


男、山田は今日から俺の部下になる。新年度の人事異動で空いた課長の席に着いたのは、俺だった。

皆に、「おめでとう」と喜ばれても、何故か素直に喜べなかったが、彼に声をかけられた時、胸が苦しくなるのを感じた。

嬉しさと、羞恥心と、悔しさと、孤独感が綯い交ぜになった心中は、極彩色を混ぜて、混ぜて真っ黒になった水彩絵の具のパレットのようだ。


「なんて顔してるんだよ」


男の皺が刻まれた顔がくしゃりと歪む。アルミホイルをぐしゃぐしゃにしたような顔をしているのは、そっちじゃないかと思うが言葉が出ない。


「珈琲でも、奢ろうか?」


山田は、そうケタケタ笑いながら珈琲缶を投げ渡してきた。そこそこの重量が両手にかかる。


「次からは奢ってくださいよ、鈴木さん」


普段から、俺を「坊主」と呼んでいた山田から、初めて苗字を呼ばれて、涙腺が崩壊していくのを感じる。

視界が滲んでダークカラーのスーツが水面で揺れる。

ボロボロ無邪気に泣く子供のような俺を見て、山田が「あーあ」と頭を抱えるのを感じた。胸がキュッとなる。


「そんな、邪心のない目で見るんじゃねぇよ」


山田は、俺の肩を叩きながら「ハハハ」と笑った。ごま塩頭が、水面を漂う海藻のように揺れている。

俺は、その海藻にゆっくりと頭を埋めた。

一瞬驚いたように体を揺らした山田は、困ったように笑いながら俺の頭をゆっくり撫でた。

その心地の良い振動がただただ許されているようで幸せだった。



「転職ですか?」

「ああ、オファーを貰ってな」

「ヘッドハンティングされることを否定することはしたくありませんが、俺は、貴方が働きにくい環境を作ってしまいましたか?」

「否?そんなことねぇよ。ただ、俺も次のステージに行こうかな、ってな」


書類を手元で纏める山田が、机の向かい側にいるのに対岸にいるように遠く感じる。


「俺は、貴方にステージを提供できなかったんですね」

「鈴木は、そろそろ俺から巣立つ時なんだよ。子供を迎え入れてやれ」


子供が嫌いだ、と山田の服の裾を掴んで駄々を言うことができる関係は、唐突に終わりを告げた。

突然旅立つことを強要されたタンポポの綿毛のように、俺の心はふわふわと落ち着かない。


「無理ですよ……。俺は、まだ子供なのに」

「お前は、もう十分立派な大人だよ」

「嫌ですよ……山田さん」

「しっかりしてくださいよ。鈴木部長」


困ったように笑う山田の目尻には涙が浮かんでいた。

顔面の血の気が引いていくのを感じる。血圧が急激に下がって指先が冷えるのを感じた。

山田に昇進を祝われてから、随分と時が経っていた。

新入社員として入社してから、俺は気が付いたら、山田を押し退けて出世街道を歩いていた。


今や部長の名で呼ばれている。俺はまだまだ子供なのに。


「鏡を見るんだな、鈴木」


差し出された手鏡には、ロマンスグレーの中年が映っている。


子供が嫌いだ、子供が嫌いだと言って、半世紀が過ぎてしまった。


社の中核を担う大人になっていた。

鏡の向こう側では、山田の変わらない変わらないごま塩頭が揺れている。

少し濃くなった目元の皺を指で伸ばしながら、山田は変わらず軽やかに笑う。

聞きなれたテノールボイスが心地よい。


「もう、お前は一人で大丈夫だ」


急にリードを外された子犬のように困った顔をする俺を見て、山田は「行くんだよ」と囁いた。

会議室のドアの向こうでは、今年の新入社員が困ったような顔をしてパソコンを睨みつけている。

その様子が、かつての自分に重なって俺は小さく息を吸い込んだ。

あの時、声をかけてくれた山田は「大丈夫だ」を繰り返している。

俺は、ゆっくりと会議室のドアを開けて大人の道を歩き始めた。


かけた声は上ずっていたと思う。


弾かれたように振り返った新入社員の目は赤く腫れていた。

その瞳は、磨き抜かれたガラスのように澄んでいる。その中には沢山の夢や希望を詰め込むことができる筈だ。


俺がそうだった。


「大丈夫。きっとできるようになる筈だから」


そう呟いた俺を遠くで山田が優しく見詰めていた。

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邪心のない瞳 四十物茶々 @aimonochacha

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