港町ダスザイン
第26話 星空と汐の香り
辺りには潮の香りが充満していた。波が岸辺に当たって、砕ける音が規則的に聞こえてくる。穏やかな内湾は航海日和の凪だった。
俺たちはブレイズの港に身を寄せていた。幸いあれから戦争が始まったということは伝えられていないが、ブレイズとエクリ双方の騎士や兵士たちの死体が同じ野営地で見つかって、面倒なことになるのは時間の問題だった。
帝国への渡航は、戦乱の中に巻き込まれる前にアイゲントリッヒに逃げるという意味もあった。というわけで、一行は船に乗り込んだのであった。
「ダスザイン……っていう町でしたっけ?」
ルアは行き先であるアイゲントリッヒの港町の名前を思い出すようにして言った。
「ああ、師匠の地元だ」
「楽しみですねえ、異国の港町っ!」
そんな危機的な状況にも関わらず、ルアは船の上ではしゃいでいたのっであった。甲板の端に出て、海とその先に続く地平線を見ものにしている。
一方、イーファはいつもより更に元気が無さそうな感じになっていた。
彼女は下階に下るための階段へと足を向けた。この大型船には帝国に渡る冒険者達などを大量に輸送するために、個室が備え付けられている。今では翻訳魔法が無くなって、言語文化が大きく異なる帝国に行く人は少なくなったため、がら空きの個室を超安値で指定できた。
「海見ないんですかー? 綺麗ですよ!」
「はあ……」
ルアに引き止められたイーファは不幸そうにため息をついた。ルアは「あらら……?」と不思議そうにそれに反応する。
もしかして、こいつはこいつで船酔いするタイプだったのかもしれない。
「本当に船以外に行く道は無いんですか?」
「今更、何言ってるんだ」
「だって……」
イーファは胸の前で手を組みながらしゅんとする。
「ルアの次はお前か……」
「あーっ、キリルさんまたそういうこと言って!」
ルアが腕を組んで、ほっぺたを膨らませた。
「女の子には黙って優しくしたほうがいいですよ。だから、モテないんですよ、キリルさんは――あいたっ!?」
後頭部をはたいてやった。ルアは怯んで縮こまる。そのやり取りを見ながら、イーファは首を振った。
「違うんですよ、実は船に乗るのが怖いんです」
「ああ、そうだったんですね! 大丈夫ですよ。このルアお姉ちゃんがハグしてあげますから、心配なことは何もありません!」
「あっ、えっと、ルアさん……その……」
問答無用でハグされてしまうイーファ。彼女の表情はなんともいえない微妙なものになっていた。
そういえば、確かに彼女の視線はずっと足元にあった。船酔いするなら遠くの風景を見ているはずなので、つまりそういうことなのだろう。
急に申し訳ないような感情が湧き上がってきて、俺は二人をおいて甲板の先の方へと黙って去った。
甲板の先の方には航海士や船長が居る。船の運行を司る頭脳がここに集まっている。若くて血色の良い航海士が近づいてくる俺の姿に気づいて、顔を向けた。
その顔に声を掛ける。
『何の星を目印にダスザインまで行くんだ?』
『えっ?』
『どうせ、この大型船なら観星航行でいくんだろ?』
『観星航行を知っているんですか? あなたも航海士で?』
航海士は驚いた様子だった。
『いや、遠くのことを学んだときに知識を得てな』
翻訳者というのは多種多様な知識を要求する。一つの言語を紐解くのには、話す人々の歴史や環境、食事から何までの情報が欠かせない。そうでなければ、単語と文法だけ知っていてもカタコトになってしまうからだ。
件の伝説の誤訳者――ナッチ・トーダーは、「ログデナシ」を表す「腐った卵」をそのまま直訳してしまったという。イディオムも文化の一つで? こりゃコトだ!
航海士は俺の答えを聞いて、感心したように顎を撫でる。
『航海士でもないのに知っているとは……』
『それで星は?』
『ああ、そうですね。ええっと』
航海士はそういってから、何か詩的な言葉を言い始めた。それは頭の中に書き留められていたものを読み上げるような言い方だった。
航海の詩というやつだ。星を目印に航行する船を指揮するに当たって、ブレイズやエクリの航海士が星を見つけるために覚える歌だ。その歌を一通り詠み終えると、俺は航海士に背を向けた。
「ありがとう」
つい、エクリ語が出てきてしまった。しかし、格好が悪いので言い直さない。
黙って去る俺の背中に航海士は『物知りだ』とぼんやり呟いた。
夜、俺は個室のドアをノックして中に入った。ここにはイーファとルアが居る。ルアはくかーっと粗野な寝息を立てながら寝ていたが、イーファは毛布に体をくるんで震えていた。
「き、キリルさん……?」
「イーファ、甲板の方まで出ようぜ」
「む、無理ですよ……」
俺は震えるイーファの手をとって、無理やり毛布の中から引っ張り出した。イーファは足をもつれさせながら、引かれるがままに付いてきていた。
「ちょちょっと、キリルさん!」
「見てみろ」
甲板まで出てきたところで、イーファの両肩を持って上を向かせる。
「この海域を通る船がある星を目印に航行するとき、綺麗な星空が見えるんだ」
「凄い……綺麗です……」
イーファは自分が怖がっていたことも完全に忘れて、夜空を眺めていた。
「それだけじゃないぞ。これからが本番だ」
「えっ?」
イーファの疑問の声と同時に天体ショーが始まる。光が夜空をなぞるように落ちてゆく。流れ星だ。幾つもの流れ星が空を通過してゆく。空で躍る星にイーファは完全に圧倒されていた。
俺が彼女を無理やり連れてきたのは、時間に間に合わなくなるかもしれなかったからだった。この海域で流星は毎年見えるのだが、実は数分しか流れないのである。
思ったとおり、流星は過ぎ去っていった。夜空は静かなきらめきに戻る。一つ咳払いをして、俺は話し始めた。
「俺も実は海が苦手でな」
「そ、そうだったんですか? いつもあんなに強そうなキリルさんに苦手なものがあるなんて……」
「誰にだって怖いものはある。人間だからな」
イーファは静かにこくこくと頷く。
「昔、師匠と一緒にアイゲントリッヒに来ることがあった。アイゲントリッヒ語の実際に使って、習熟度を試すためだ。そのときの俺はお前みたいに部屋に引きこもってたんだ」
「想像できませんね……」
「ま、若かったからな。感情に敏感だったんだ。それで、師匠に個室から引っ張り出されて、星を見た。その時だけ、海の上に居ることが忘れられた。それ以来、夜通しで船に乗るときは星空を楽しみにしているんだ」
イーファは感心したような顔をしていたが、ややあって少し心配そうな顔でこちらを見た。
「キリルさんのお師匠さんは、悪い人なのでしょうか」
「いや……」
そんなはずはない。師匠と共に言葉を学び、その精神を学んだ。彼に師事できたのは学ぶべき人間性を感じたからだ。ただ、言葉を知っているだけでは翻訳者や通訳者にはなれない。
剣士は剣を、魔術師は魔法を、貴族や王は権威を武器とする。では、翻訳者や通訳者の武器はなにか。すなわち、「感情を繋げる人間の力」であると師匠は言った。
だが、目の前で師匠は人を殺した。戦争の端緒を産もうとした。俺を「
人類の資産」と呼んで、助けた。その端々に妙な違和感を感じる。
過去の師匠とは違う。だから、即答できなかった。
「キリルさん……?」
イーファが心配そうにいったその瞬間、後ろから足音がした。ルアだ。大きなあくびをしながらこちらに近づいてくる。
「ふぁあ……部屋に居ないと思ったら、ここに居たんですかあ」
「キリルさんが星が綺麗だって教えてくれたんです」
「良いですねえ、どれどれ」
ルアは手でひさしをつくって、空を見上げた。そして、きゃっきゃと喜びながら、星を指差して結んだ。
「あそこらへんの星、ミートパイみたいじゃないですか?」
「お前はいつもそれだな」
「えへへぇ、それほどでもないですぅ」
「褒めてねえよ」
なんだか気分が緩んでしまった。イーファもにっこりして、さっきまでの心配そうな表情は影を潜めていた。
あまり深く思い悩むべきことじゃなかったのかもしれない。師匠が変わっていても、そうでなくても。本人に訊くまでは、わからないのである。
師匠と見た星空と今見えている星空は変わっただろうか。そう思って、俺は頭をもたげて星空を見上げた。
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