第25話 崩れ落ちる常識
風を切るような音が聞こえた。
その瞬間、エクリの騎士隊長の胸に細い木の棒が突き刺さる。同時にやってきたのは耐えきれないほどの静寂だった。
騎士隊長は自分の胸をそっと確認する。大量の血が、手のひらにベッタリと付いていた。
「なんじゃあこりゃああ!?」
「クソッ、騙された!」
「寝返ったな!?」
エクリの騎士、兵士たちは一斉に武器を抜いた。
「なっ――!?」
「待て! 弓兵など我々は連れてきていない!!」
強気だったブレイズ側の使者は焦りながら、叫ぶ。しかし、信頼は既に決壊していた。
馬を疾走させ、その場を離脱する。両者は俺には構わず、既に戦闘を始めていた。血しぶきが地面を染め、お互い何人もの兵士が倒れていく。
「どうしてこんなことに……?」
背後でイーファが悲しげに小さく呟いた。
ブレイズの使者が言ったとおり、護衛に弓兵は居なかった。それなのにエクリの騎士隊長は矢を撃たれて斃れた。
騎士や兵士は基本的に高度な魔法は使えないはずだ。風属性魔法であるエアアローのように空気の矢を撃ち出すような初級魔法は使えるかも知れないが、それなら矢が胸に突き刺さっていたことを説明できない。
完全に謎だった。一体誰が、何のために矢を騎士隊長に撃ったのか。
農民や市民、冒険者が面白半分で撃ったとはとてもじゃないが考えられない。なぜなら、戦争が始まると騎士や兵士は道中の村や町で物資を巻き上げ、強奪しながら戦うからだ。
騎士や兵士を雇う貴族は戦功に従って土地を渡すのであって、戦闘にまつわる補給は完全に当人任せなのである。だから、戦闘が起こるたびに道中の治安は悪化の一途をたどる。面白半分で撃った矢がそれを引き起こすことを、一般住民が予測できないはずもない。
では、一体誰が?
疑問とともに馬を止める。何処かにくくりつけておく余裕など無い。馬から降りるのに難儀しているイーファに両手を広げて飛び降りろと示す。彼女は逡巡の後に意を決して馬から身を投げた。彼女の軽い体を抱き止めてから、木陰に隠れた。
兵士たちに見つからないようにルアの居る泉まで行くのは現状では難しい。しばらく様子を見ることにした。
イーファもまじまじと目の前で起こっている戦闘を見ていた。俺は彼女の視線を遮るようにして、彼女の顔の前に手を出した。
「見るな」
「何故ですか……?」
「慣れるからだ」
イーファは不思議そうな顔をしていた。その言葉の意味を説明する意欲は沸かなかった。人が殺されている前で何もしないでただ見ていることに慣れれば最後、俺のような虐殺の片棒を背負うことになる。彼女にはそうなってほしくはなかったのだ。
新たな静寂が訪れた。地面には血が染み込んで黒くなっているところがあり、大量の兵士が斃れていた。
顎に何か生暖かいものを感じた。手を触れると血が流れていた。いつの間にか唇を切れるほどに噛み締めていたらしい。悔しい。止められたのに誰かに邪魔をされた。今回も無駄な犠牲を生んだ。
「キリルさん、唇が……」
イーファが心配そうに見上げてきた。はっとする。今は感傷に浸っている場合じゃない。袖で拭って、前を向いた。
「大丈夫だ」
イーファは答えなかった。否、答えられなかったのだろう。
その瞬間、がさっと茂みの方から音がした。出てきたのは軽装の若い兵士だった。まだ幼さが残る顔で俺たちを見た瞬間、怯えていた。
彼我の距離はそれ以上縮まらなかった。お互いに見つけた瞬間、足が棒のようになってしまったからだ。
色々な思考が頭の中を巡った。
このたぐいの若い兵士が担当しているのは伝令だ。彼を見逃せば、エクリに戻ってこのことを伝えて、戦争に発展することだろう。そして、俺とイーファ、ルアは裏切って騙し討ちをさせた者として伝えられることになる。
果たして、どうしたものか。説明したとしても理解してもらえるとは思えなかった。無為に時間が流れていた。
「――ぐぁっ!?」
若い兵士がいきなり悲鳴を上げた。そのまま彼はうつ伏せに地面に倒れた。背中の布地に血が滲んでいた。後ろから刺されたのだ。
倒れた兵士から視線を上げると、そこには血に濡れた刃物を持った老人が立っていた。目蓋に縦の傷が入ったスカーフェイス、白髪は整えられており、灰色のフォーマルな服装は落ち着いた印象を感じさせる。
そして、何よりも驚いたことは、彼が俺の知っている人物であったことだった。老人は落ち着いた笑みを顔に浮かべながら、こちらを見た。
「キリル君、久しぶりだねぇ」
俺の翻訳者としての師匠――アルト・フサールは何事もなかったかのようにそう言った。イーファは状況がよく分かっていない様子で、口をつぐんでいた。
一方、俺は混乱していた。別の意味で状況への理解が追いついていなかった。
「師匠、何故こんなことを……?」
「何故かあ、不躾な質問だなあ」
「おい、騎士や兵士たちに同士討ちさせた挙げ句、俺たちまで殺すつもりか」
「まさか、君は人類の資産だ。僕は君を助けたかったんだよ」
「人の命を奪ってまでか! 他にも方法はあったはずだろ!!」
俺の追求をアルトは無視した。俺に背を向けて、その場を去ろうとする。自然に体がその背中を追いかけた。
「おい、待て……!」
「そういえば」
アルトは振り向かずに呟いた。
「ルア君は大丈夫なのかな?」
アルトは去っていく。俺はそれ以上動けなかった。彼の姿は森の中へと消えていき、また新しい静寂が戻ってきた。
俺は拳を握りながら、イーファの方に振り返った。
「泉に行くぞ」
泉に着くと、ルアが木の幹に背中を預けているのが見つかった。慌てて近づくと、彼女は完全に脱力した様子でよだれを垂らしながら呑気に寝ていたのであった。
「おい、ルア」
「ふぇっ、ありぇ? キリルさん、もう終わったんですか?」
「まあ、色んな意味でな」
「……何かあったんですか?」
疑問を呈するルアに事の経緯を説明する。言葉が通じ合わないことで誤解し、戦争が起こりかけていたこと。俺の過去。ブレイズ人を野営地にまで連れてきたとき、矢が騎士隊長の胸に何処からか撃たれたこと。そして、アルトが生き残りを始末したこと。
アルトが出てきたところで、自分もやっと理解した。師匠は少なくとも俺やその仲間に危害を与えるつもりはなかった。ただ、俺に理由を聞かれたくはなかった。
大きなため息が自然に口から漏れ出した。
「してやられた……」
「キリルさんはあのご老人のことを『師匠』と呼んでましたね。どういう関係なんですか?」
イーファが不思議そうに聞いてきた。師匠の話は確かにあまりしたことがない。
「あの人はアルト・フサールって言うんだ。俺が翻訳者になろうとして師事した師匠で、ブレイズ語とエクリ語とアイゲントリヒ語が話せる」
「じゃあ、『感情を繋げる人間の力』っていうのも……」
「そうだ、あの人が言っていた言葉だ」
だからこそ、不思議だった。何故、そんなことを言う人間が戦争のきっかけになるようなことをする?
この野営地で隠れられるところは少ない。先に来ていなければ、見えないところから矢を撃ったり、気づかれずに生き残った兵士を始末するなんてことは難しい。とするならば、全ては計画されたことになる。
「キリルさん、そのおじいさんを追いかけましょう」
「何?」
ルアは至って真面目な顔で続けた。
「翻訳魔法が無くなり、戦争が勃発しかけ、そこに翻訳者を育てた師匠が居た。これはもう翻訳魔法に関わっていると言わず、なんというんですか」
「それはそうだが……」
手掛かりがない。アルトにルアの安否を言われてから、彼を追いかけることは実質不可能だった。今分かるのはアルトが森の奥へと消えていったという事実だけだ。
言いよどんでいると、イーファが胸の前で手を組んで呟いた。
「そういえば、アルトとフサールも不思議な名前ですね」
「確かにそうです、エクリでも聞いたことが無い名前ですねえ……」
二人が不思議に思うのも無理はない。
エクリテュールとブレイズはそれぞれアマ・サペーレ大陸の中央部と西部にあり、陸続きである。このため、エクリ語とブレイズ語の名前はお互いに同一とは言えないが、よく似たものになっている。例えば、イーファはエクリ人の名前になるとエーヴァになる。
「師匠はアイゲントリッヒ人なんだ」
イーファとルアは納得した顔になる。
エクリテュールの東方に山脈を隔てて存在するアイゲントリッヒ帝国は他の二国とは文化的に大きく違う国である。名前も独特のものが多いために、こちらでは不思議な名前だと思われやすい。
「じゃあ、アイゲントリッヒに行けばいいじゃないですか?」
「手掛かりもなくか」
「まあ、今までだって明確な手掛かり無く旅してたじゃないですか」
確かにそうだった。始めからこの旅は明確な手掛かり無く、憶測と希望で町を回っていた。
「分かった、俺もなんだか嫌な予感がするからな」
「嫌な予感ですか?」
「ああ」
俺は短くそれだけで答えた。
アルト・フサールは魔王討伐戦争のあと、俺の前から消えた。嫌な予感はきっとそこから湧いて出たものだろう。もう一度会いたい。
何故あんなことをしたのか。何故失踪していたのか。その理由は本人以外知るところではないと思った。
「行こう、アイゲントリッヒへ」
イーファとルアは首肯する。頭の中には過去の優しく、正しかった師匠の姿がちらついていた。
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