雨の日の善福寺公園

武蔵山水

雨の日の善福寺公園

 一


 竹藤平嗣は何もこの日に外に出ることもなかったなぁと大雨の下でしみじみ思った。

 吉祥寺の駅舎を降りたその途端、雨が強まったたのである。くそ、ついてねぇな。そう悪態をついてみたところで天候は回復しはしない。根が人一倍小心者に出来ている平嗣はどうも他者に対しては威勢よくは出られないのであった。故に感情のない自然現象に腹立ちをぶつけるのである。

 古本屋に入ったは良いが特にこれと言って購うべき本は見当たらなかった。古本屋なんぞに行って購うべくもクソもないが平嗣はその他、興味を引かれる本すらないことに落胆した。仕方ねぇから無理矢理にでも買ってみようか、と滝沢馬琴日記なるものを手に取ってみたが存外の価格に驚愕しそっと元に戻した。結句は何も贖わなかったのである。

 本屋より出ずればそこは土砂降りの別世界だった。往来の人々は不意を突かれたのか上着か何かを雨除けとして代用している。平嗣は急ぎ足で斜向かいのコンビニに立ち寄った。平嗣はそこでビニル傘とそれとわかばを購った。ライターも持ち合わせの物がなかったので購った。

 一旦駅舎内に入り反対側の出口より出た。少しばかり歩いた。傘をさしつつ雨音のみが滴ってた。平嗣の肩はすで雨でぐっしょりと濡れていた。

 小路に入った。住宅街である。少し立ち止まって今し方購ったわかばを取り出し火をつけた。然し傘をさしつつ煙草を喫むのは一苦労である。ようやく点いたのを確認し再び歩み出した。

 平嗣が煙草を喫む様になったのは実に最近の事ではある。周辺の目を恐れて吸うのに憚れたのであった。然しそんな忌憚も今や消え失せた。人は言う。何故に寿命を縮めるのか、と。平嗣曰くこの俺は一刻でも早く地獄に堕ちたいのだ、と。勿論、根が臆病出来ている彼は万一地獄が存在した場合、地獄なんぞはまっぴら御免を被りたく思っている。思ってはいるが、地獄をも恐れぬ己は何と勇敢なんだ、と酔いしれているのであった。

 

  二

 

 雨が降る日とは平嗣に取って思い出さざるを得ない記憶がある。それはもう刻々と遠のく日々にある。

 平嗣がまだ中学生の折、好きな女がいた。Nという女は別段美人でもなかった。かと言って不美人でもなかった。殆ど口を聞かずに学校にいるような女だった。後年、平嗣が周りにかの女の印象を問いただしても皆一様に(口裏を合わせたが如く)あゝ、そんな奴いたな、というのであった。平嗣はその度にそう返答した男衆に対し呪詛を吐くのである。

 (愚鈍野郎めが。手前みてぇな痴呆者が社会に蔓延ってんから日本は年々、比喩的な意味で沈没して行ってんじゃねぇか)

 兎も角、平嗣に取ってNという女は恋愛という忌まわしい鎖を教えてくれた人間だったのである。女に恋したのはそりゃもう小学生の頃まで遡る。恋という感覚はわかりゃしねぇ時期ではあったがNと顔を見るだけで体温が上がったのだった。平嗣は第二次性徴期に至ってその現象は恋たる事を悟ったのだった。で自覚的に恋をした。態と彼女と話す口実を作っては無口な彼女に無理矢理喋らせ嬉々とした。平嗣はゆっくりと彼女の心の氷を溶解させる事に成功したようだった。彼女は喋らないおろか滅多に人の名を呼ばぬ女であった。いわんや男の名前をや。然しある日、当然彼女は平嗣の名を呼んだのである。彼は嬉しくなって彼女に更に近づいた。そうやって中学二年生の頃付き合い始めた。

 然し、束の間の幸福はすぐに去った。それは女と共に。

 平嗣はNと性行した。然しそれはもはや、ある意味では合意の上であったかどうかが怪しい。勿論レイプという訳では決してないが完全たる、全てが行き届いた性行では決してなかった。そしていろんな意味で果てた。

 あっという間に破局して平嗣はその敗北感から学校なんぞには行かなかくなったのだった。


 三


 女は、と平嗣は歩きながら考えた。

 今しがたの追憶は想像以上に心を掻き乱したようだった。過去に目を向ければいつの間にか得体の知れぬ怪物の腹中にある。そういう意味では過去なんぞは見ない事に限る。然し、とは言え未来ばかりを見ていても深い藪の中に紛れ迷うのみである。今しかない。そんな事は平嗣に取ってみればわかりきった事であるがどうも実際的な行動には還元できないでいるのだ。

 いけどもいけども住宅で埋め尽くされるつまらない小路を行く。平嗣は別段それを気にしない。雨は次第に強まり凹凸の道には水溜りができていた。


 四


 さて、平嗣は歩き続けてようやくたどり着いた。善福寺公園である。三大湧水公園である井の頭公園、石神井公園そしてここ善福寺公園。平嗣にとっては予々訪うてみたかった一つのスポットなのである。彼は思った。これで武蔵野三大湧水池全制覇だ!と。圧倒満足感、充足感、多福感にかられた。

 喜びをかき消す様に雨が強まる。そして案の定、喜びを消え失せた。

 結局ここ善福寺公園にも平嗣以外、誰一人としていなかったのである。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 便所に籠る時間は長かった。どうするべきなのか私にも判断しかねたからである。勿論これは私が書いている物語に他ならない。故に私以外には誰もわかららない。進めるもまた中絶するも私の腕次第ではある。

 今一度、物語の前に立ち戻ってみたもののこれ以上の動向は書くだけ、或いは創作するだけ無駄な気がしてきた。さてどうするか。

 私がもう一度、フィクションの中に入り込もうとした瞬間それを妨げる様にチャイムが鳴った。

 「先生、居ますか」

 どうやら毎度同じ女の子である。私はフィクションを放っぽり出して玄関に向かった。

 「先生」

 彼女はかなりの力で戸を叩く。

 「はいはい。今開けるから待ってて」

 そして開ける。目の前にはいつもの通り制服姿で立っていた。

 「レイちゃんこんちわ」

 そういうと彼女は一礼して無遠慮に上がり込んだ。そして今しがたフィクションを書いていたパソコンを覗き込んだ。

 「仕事ですか?」

 「まあね。でももうそれは消すかな」

 「どうして?」

 「つまんないから」

 人に見せられる様な文章ではないと判断しパソコンを閉じた。

 「で、今日は何しに来たの?」

 そういうと少しばかり凹んだ様に見えた。

 「用がなくっちゃ、来たら迷惑ですか」

 そう呟いた。彼女は非常に未熟だ。だから愛おしいのかも知れない。

 私は彼女にキスをした。

 「いや、いつでもおいで」

 そう耳元で囁くと嬉しそうに頷いた。

 そして私は彼女の服のボタンを一つ一つと確実に外して行く。

 平嗣君、男の幸せはいくら否定したとしても女ありきなんだよ。


(了)

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