第122話 老人の覚悟
ユウナギははっと気付いた。ここからどうやって戻るのか。祖父の顔を見たが彼はそれどころでなく、少年の元へ無心に向かう。ともかく彼に付いて、気を抜けば即滑り落ちそうな狭い足場を注意深く進んでいった。
「ダイチ!」
彼が名を呼んでも、やはり少年は声が出ないようだ。右足首が腫れている。この足場を戻るのは困難だと悟ったのだろう、声を失ったのは精神的なものだった。
泣いて祖父に抱きつく彼は猛省している様子。ちょうどそこに
邑人らはなんとか向こうとこちらを繋ぐ太い木を用意し、近くで作業を始めた。
その間にもユウナギは、川の水を目にし、恐怖で足が震えてきた。水位が徐々に上がってきている。この救助は間に合うのだろうか。それでもただ待つしかない。
「大丈夫だ」
彼はそんな彼女にも声を掛ける。
そこで、祈り始めるユウナギに彼はこう言った。
「みんながちゃんと丸太を用意してくれる。怖いだろうが、それを伝ってふたりは向こうへ渡れ。腕と腿に力を集中させて、全力でしがみつき、落ちないように気を張りながら少しずつ進むんだ」
落ちたら一巻の終わりだからな、と彼は苦笑いする。
「……え? ふたりって……。あなたは!?」
ユウナギの身の毛がよだつ。
「俺はここで丸太を押さえる。こちら側も押さえていないと、丸太が動いたら渡っている者が危険だ」
「!?」
それを聞いた少年も青ざめる。
「それじゃあなたが向こう岸に行けないじゃない!!」
「それは仕方ない」
彼は目を細めてそう答えた。ユウナギは丸太を押さえつけるための岩か何かないかと辺りを見渡すが、細かな石や枝しか落ちていない。
「だめ! こんなところでっ……死んでしまったら」
「
少年はより一層青くなって、祖父の腕の中で震えている。
「まだこの子にはあなたが必要よ!」
「他人が面倒みてくれないこともない。君も、もし良かったら頼む」
「そんな……。それなら……」
ユウナギは思った。自分は新しい命を生むことも育てることもないのだから、子を育てている彼の方が、命の価値が上なのだと。
「私が……残ります……」
そして更に思い至る。自分の残りの時はそれほど長くないのだ。もう戦で命を落とすと、神が示しているのだから。余命で言うなら自分のそれがいちばん短いのだ。
「この子に、家族を失うところを見せてはいけない。私が来なければきっと、こんなことになっていなかったんだし。私の木を支える力が信用できないというなら、見てこの腕。女の割に、すごいでしょ……」
そう言って見せつけるが、その手は震えている。死が怖い。どうせ遅かれ早かれと諦めているつもりだ。その時が迫っていることはずっと前から理解している。
それでも今ここで死にたくない。再びナツヒの「一瞬でも長く」が頭の中で鳴り響く。帰りたい。会いたい。どうしようもなく怖い。
「死ぬのは誰でも怖い」
そんなユウナギを察したのか、彼は強く伝える。口調は穏やかだが、意志の強い瞳で。
「こんな年寄りになってもだ。しかし若い時のそれと、今のそれは少し違う」
彼は少年の頭を抱いていた手を、ユウナギの手に添えた。
「若い頃は知らなかった。時を経た今だから思う。若者は未来への希望を捨ててはならない。たとえ明日の生すら確かでなくても。十分に生き、共に生きてきた伴侶を見送った俺を、最後に役立てて欲しい。ダイチをどうか、よろしく頼む」
彼の覚悟は本物だった。ユウナギの、自分はこうありたいというただの理想とは、強さがまったく違う。それを実感した彼女はついに頷いた。
その頃、邑人たちが数名で力を合わせ、長く太い木を渡してくれた。まず先に、ダイチを渡らせることにする。
少年は泣きながら首を振る。祖父に抱きついて離さない。しかし時間にそう余裕はない。それは彼も分かっている。
「立派な大人になるんだぞ」
「…………」
少年は何度も何度も、出ない声でありがとうとごめんなさいを言った。少なくとも祖父にはその声が届いた。
彼は丸太にしがみついた。そして大人たちが見守る中、木を上るように少しずつ前進した。落ちたらまさに一巻の終わり。その恐怖に打ち勝って向こうに着く頃、大人たちに引き上げられた。こちら側のふたりは安堵した。
「必ずダイチを無事に帰します。それから私に、できることをさせてください」
彼はそれを聞いて幸せそうな笑顔を返した。
ユウナギも向こう岸に渡ろうとする間、少しずつ岸が削れて非常に怖い思いをする。一瞬でも油断をすれば落ちてあっという間に流される。水位も徐々に上がっている。しかし迫りくる死の恐ろしさを思えば、泣いて震えてもいられないのだ。辿り着いたら手を振る彼に一礼をし、負ぶわれた少年と共に走って帰宅した。
その夜少年の声は戻り、彼は声をあげて泣き続けた。ひとしきり泣き叫んだ後、これはただの白昼夢で、祖父はいつも通り帰ってくるのではないかと、できるだけ起きて待っていた。
当然、幾日待っても祖父は帰ってこない。少年はしばらく洞窟に籠り、そこを掘り続けていた。しばしば彼の仲間がやってきて共に励み、ユウナギも同じく手伝っていた。
まだ彼は、それでも祖父がひょっこり帰ってくるのではと、心の隅で希望を捨てていなかった。だから掘り続ける。ここで共に暮らすために。時に寝食を忘れ掘り続けた。
ただユウナギにしたら、彼がこれにばかり傾倒するのも心配だ。現実逃避以外の何物でもない。今はある程度食料も確保しているし、住居には困らない、衣服も足りている。周囲の人々からの同情も余りある。
しかし彼の日常が止まったままでは、ユウナギも安心して元の世に帰れない。
「ねぇ。近所の人たちと一緒に農作業しましょう? 彼らに指示してもらって、いま生活のためにできることをしましょ。これは、その余った時間にやればいいじゃない?」
想像に難くない、彼はただ無心になってこれだけをしていたいのだ。今まで育ててくれた、祖父との思い出にだけ浸っていたいのだ。
「今すぐ誰かの役に立ちたい……」
彼は悲痛のにじむ声でつぶやいた。
「誰かを助けたい。でなきゃ俺なんか、生きていちゃいけない気がする!」
ユウナギも当然、彼の祖父への申し訳なさや感謝、尊敬の思いなどが心に在るが、きっと彼は比べようもない。大事な人が自分のために、自分のせいで、命を落とすこととなったのだから。
その自責の念はユウナギにも覚えがある。たった数日で前を向けるわけもないことは、存分に知っている。
「お祖父さんは何十年も、一生懸命生きてきたからできたことよ。今すぐなんて言わずに、今は自分の事だけ考えて」
少年はまた掘り出した。
「そしていつかそんな、お祖父さんみたいな人になればいい」
それが罪滅ぼしの方法なのだろう。彼も自分も。
ユウナギは借りている家に戻り、ここに来た時の装いに着替えた。彼女の普段着であるが、今回に限りこれは勝負服だ。いつも首に掛けている2本の飾りも、彼女の奮起を後押しする。
集落の人に聞き、邑の高官の働くところへ、彼女は勇んで向かったのだった。
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