ある夫婦の話

紙飛行機

ある夫婦の話

 俺が黙り込んでしまってから15分が経った。辺りは流し台の蛇口から落ちる水滴の音が聞こえるくらいしんと静まりかえっている。向こうの居間からは2歳になる息子がタブレットで好きな音楽を流していて、ラッパやドラムの音がリズミカルに響いている。

 テーブルを隔てて向かいには妻が座っている。部屋着に着替え、少し呆れた表情でこちらを見ている。俺は両脚の膝がガクガク震えている。重役の前でのプレゼンですらこんなに緊張したことはない。ひと思いに切り出してはみたものの、肝心なところで次の言葉が出ない。振り絞った勇気は言い出すきっかけを作ったところで力尽きてしまった。

「で、何?何か言いたいことがあったんでしょう?」

 妻はいい加減苛立ってきたようだ。貧乏ゆすりの音がテーブルの下から聞こえてくる。ここまで追い込まれても口から言葉が出ないとは我ながら情けなくなってくる。後ろにある冷蔵庫の冷却器が唸りをあげる。蛇口の水は時折、思い出したように滴り落ちる。動画に飽きた息子は電車の運転士に職を変え、定刻通りに駅を発車したところだ。俺はテーブルの上おいてある、冷えてしまったお茶が残るカップを見つめるばかりだ。こちらを見る妻の目線へ視線を合わせられずに。


*****


 西日も淡く赤らめかけた頃だった。息子をやっと寝かしつけたところで、妻は先日出しておいたクリーニングを今のうちの取りに行くと言って出かけた。俺は子守と合わせて夕食の野菜炒めを作っておくように言われ、日も暮れかかる頃に準備を始めた。間食をとる習慣のない俺にとってはちょうどこれくらいの時間が一番腹の中に物足りなさを感じる。腹が口寂しいと合図するのだ。

 熱したフライパンにキャベツ、ニンジン、タマネギ、豚肉を放り込むと音と匂いでこちらに応えてくれる。木づくりのヘラで混ぜ合わせると、やがて豚肉は色を変え、野菜も鮮やかになる。調味料で味を調えれば完成だ。できた野菜炒めは大きな皿に移し、フライパンを洗う。その時、何かを思い出したように俺はそれが有る方向を見た。かすかな記憶では以前、妻が買い物から帰って来たとき、他の食材と一緒にそれをこっそりと冷蔵庫の奥へ潜ませているのを見たのだ。息子は居間でタオルケットをかけられスヤスヤと眠っている。妻は未だ外から帰ってこない。

 俺は冷蔵庫の扉を開けた。買い置きのバターが3個。毎朝食べているヨーグルト。下の段には器に入れてラップで封をした野沢菜のつけもの。妻がダイエットの為と言い出して買ったこんにゃくゼリーの袋。あった。その奥にあった。手にとった瞬間、自分の卑しさ食い意地に思わず苦笑してしまった。

 その時は後日代わりのものを買って元の場所に置いておけばいいだろうと思っていた。ただ、食べ終わってしばらくたった後、妻がわざわざとっておいたものをコッソリ食べてしまうという行為そのものに対して罪悪感が湧いてきたのだ。

 空になった器をゴミ袋の奥底へ忍ばせた頃、妻が玄関のドアを開く音がした。「先に二人で食べちゃおうか。」と言って、夕暮れの空気の匂いをさせながらクリーニング店の帰りにスーパーで買ったものをテーブルに置き、足早に受け取った冬物のコートを寝室のクローゼットにかけに行った。


*****


 溜まりかねたのか、妻は不意に立ち上がり息子の寝息がする方へ向かい、寝息の主を抱きかかえて戻ってきた。

「途中で眠っちゃったみたいだから、寝室に連れていくね。」

 そう言って足音を立てないように静かに寝室へ向かっていった。キッチンは俺1人になり、再びシンと静まり返った。目の前にあるマグカップには冷めてしまった紅茶がまだ半分ほど入っている。俺はそのカップを手に取り、残りをすべて飲み干した。やっと決心がついた。やはり言った方がいい。むしろなぜこんなにも言い渋っていたのか分からなくなるくらい気持ちが晴れやかになった。

 慣れない砂浜を歩くように、妻は床に響く音に注意しながらキッチンへ戻ってきた。人差し指を口に当て、会話の音量を抑えるようにと俺に伝えた。

「言う決心がついたよ。」

 急に少し重苦しい空気になった。妻は見たことのない食べ物を口にした時のように困惑した表情になる。しかし、言ってしまったからには俺ももう後戻りはできない。

「実は・・・」

 妻は向かいの椅子に座ってぐっと手を握る。この男は一体これから何を言い出すのか、もしかすると別れを切り出されるかもしれない。そんなことすら言いかねない空気だ。

「冷蔵庫の奥にあった、お前がこっそり買った瓶詰めプリンを食べてしまったんだ。」

 沈黙が流れる。沈黙という煙の中で換気扇が音で主張すれば、冷蔵庫の冷却器もそれに応える。妻は一瞬唖然とした表情になったが、ふと顔を落とした。顔をよく見ると笑いをこらえているようだった。

「あれ、食べちゃったんだ。」

 妻はそう言って声を噛み殺しながら笑っている。俺はただただ困惑しっぱなしである。どちらかといえば怒りをぶつけられると思ったからだ。

「俺、なんか笑っちゃうことでも言った?」

 ごめん。そうじゃないのと手で抑えながら、妻の返答が俺の予想を上回っていた。

「じゃあ、私も白状するね。あれ、賞味期限が一か月前に・・・。」

 その告白を最後まで聞くまでもなく、俺はトイレへ駆け出していた。

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