86


 

  少年は、男と寝所に行くことが嫌だった。


  だが灰色の祭司である親から、それは必要な事だと教えられ、幼い頃から通わせられた。


  祭司の中でも、階級の低い女祭司が主祭司に認められ男児を産むと、母親として共に暮らせる者もいる。


  呼び出しに少年が行かないと、母親が境会裏にある、古びたみすぼらしい場所で働かされると泣き崩れ、それを言われると断ることが出来なかった。

 

  その日も老人と共に寝所に入り、苦痛に耐えて森の中の泉で身体を清める。


  何もかもが嫌になり、灰色の空の下、瓦礫の中でぼんやりと赤い紋を見上げていた。


  ーー「離しなさい!!」


  大きな声に驚いて、声のした方に向かい、崩れた柱の影から教会跡地を覗き込む。すると、そこには絵に描いた様な、美しい黒髪の男女が抱きしめ合っていた。


  真白い肌に蒼い瞳は宝石の様で、離れた少年の場所からも赤い唇が見える。


  普段は目にする事の無い本物の美しい少女を見て、初めて頬が赤くなり心が早鐘を打った。


  「……あれは?」


  男の顔に見覚えがあった。


  境会内でも忌避すべき盗賊の血族。そのエンヴィーが、美しい少女と抱き合う姿に黒い感情が芽生える。


  よく見ると、離れた二人、少女はエンヴィーから逃げるように後退りしていた。


  「そういえば、離しなさいって彼女は言っていた」


  泉に向かって行く二人。少年は、下位の祭司を懲らしめるために、急ぎ大聖堂に向かって走った。



 **


 

  アトワの三騎士が速駆けで王都に引き返し、ようやく見えた空に突き刺さる赤い紋。それを怪訝に見上げたフィエルは、紋が明滅するのを確認した。


  「見たか」


  「はい。魔法は、発動切り替えに際し、陣や紋が一時途切れるのを見たことがあります」


  「守護の結界と掲げてありますが、あの様な不気味に空を突き刺す赤い矛、境会アンセーマの企み以外に他ありません」


  フィエルの護衛に同伴した三伯の二家、ヴァーリアル家とヴァートレイ家、その跡取りであるヘイリエルとエリスエルは、空に浮かぶ魔法紋に眉をひそめた。


  走り抜けた閑散とした王都内。王城の正門を目指していたフィエルだったが、閉校されているはずの学院の文門が大きく開かれている不自然に、ふと手綱を引いた。


  それに二人も慌てて手綱を引き、正門前の街道を馬首を返して門に近付くと主の顔を見る。「あれは!」エリスエルの指した先、灰色の外套が数名、学院裏手の森へ駆けて行く。


  「フィエル様」


  頷いたフィエルを確認し、騎乗したまま乗り込んだ学院の門。三騎は、学院裏手の森に踏み込んだ。



 **



  静かな泉の畔に時おり聴こえるのは、森の奥から響く鳥の呼び掛け。

 

  蒼い瞳は、きょろきょろと周囲を見回し、こちらをまともに見ていない。リリーの上げられた片手、それを拒絶と捉えていたエンヴィーは、「お互いが想い合って、お互いが同じ気持ちでないと、意味がない」という言葉の意味を考えていた。


  (拒絶では、意味がない?)


  「貴方、親の血筋とか、他人の評価なんてどうでもよいから、自分がここに居るって、ここに立って居るって、まずはそれだけ考えたらどうかしら?」


  ゆっくりと後退るリリーを追って考えていると、深刻な表情で質問された。


  「血筋それが無かった故に、愛を与えられなかったんだ」


  「そうね、そうなのよね。ならね、それは取りあえず置いておいて、行きたい所とか、好きな場所に行けばいいのよ。……そうね、お買い物でも、お散歩でも、お手洗いでも、行きたい所に」


  「場所は、与えられていない」


  「そう……ならね、食べたい物でも食べたらいいわ。きっと、お腹が美味しい物で満たされれば、そこに幸せとか感じられる」


  「腹が減れば、動けるのに必要な栄養を摂取する。味に意味はない」


  「そうよね、そういう考えもあるかもね」


  「…………」


  何かを考えてこんでいる、無言で泉の畔を少し進んだところで、エンヴィーを拒絶していたリリーの手が下ろされた。


  それを許可だと理解して、踏み出した一歩と共に手を伸ばした。


  「!!」


  だがエンヴィーが伸ばした手に見開かれた蒼い瞳、そして再び強く拒絶の片手は上げられた。


  「貴方、愛って何? みたいな人によっては意見の変わる悩みより、私が何故、貴方と同じように、この場で動けるのか、その答えを知りたくはないの?」


  「?」


  自分に翳された拒絶の白い手を見て、エンヴィーに苛立ちが込み上げてくる。


  「私と貴方の共通点、それなら直ぐに答えてあげるわよ!」


  その言葉に、エンヴィーは愛を与えてもらうより、呪いから外れたリリーを自分の元に引きずり下ろそうと考えを変えた。


  「何をしている!!」


  「?」


  厳しい声に振り返ると、ここには居るはずの無い男が立っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る