重荷
Jack Torrance
重荷
私は12年営んでいたニュー オリンズの田舎料理を提供する食堂を閉店した。
それは、妻と二人で細々とやっていたささやかな食堂だったが子供のいない私達夫婦にとって掛け替えのない思い出が詰まった食堂だった。
私が初めて手にした食堂で飲食店のイロハも知らない妻がサポートしてくれた。
過去と今とを繋いできた希望に満ち溢れた私にとっては夢にまで見た食堂だった。
長年、雇われの身で下積み時代が長かった。
皮むきや下ごしらえ、衛生管理に食器洗いやゴミ出し。
人に顎で使われながらも耐え忍んでやっと手に入れた自分の城。
そんなに多くないにしろ私が作った料理を食べに来てくれる常連客。
そんな人達と交す何気ない一言。
「美味かったよ、御馳走さん」
その一言が明日への活力となった。
私と妻にとって店はそんなに繁盛してはいなかったが毎日が充実した日々だった。
二人で食っていけるくらいの生活は贅沢さえしなければ維持出来ていた。
そんな中。
昨今の不景気。
大手飲食店の進出。
店は競合し生き残りを賭けたサヴァイヴァルだった。
私達の店はその競合に敗れた。
日に日に少なくなる客足。
閑古鳥が泣いているという形容も烏滸がましい。
その閑古鳥すら止まり木に停まっていない開店休業だったのだから。
ここまで二人で頑張って来たけど…
「もう店仕舞いの頃合いか。済まない、ルシール」
「何もお店だけが人生の全てって訳じゃないわ。二人で楽しく笑い合って元気にしてれば、きっといい事もあるわよ」
妻が明るく励ましてくれた。
私達夫婦は存続という道を断念して借金という重荷を背負って廃業に追い込まれた。
追い込まれたと言うのには語弊があるかも知れない。
自分に腕があったら道を切り開く事だって出来たんだから。
実力不足。
その一言に尽きる。
己の不甲斐なさを痛感し忸怩たる思いに打ちのめされた。
ルシールは言った。
「何もあなた一人でこの重荷を背負う事はないわ。私もパートに出て一緒に返していけばいいじゃないの。あなたの重荷は私の重荷。だから、私にも半分背負わせてちょうだい」
ルシールは笑いながら私に言ってくれた。
私は皮肉にも私達夫婦を廃業に追いやった大手飲食チェーン店の厨房で働くようになった。
それは、もはや調理というにはあまりにも虚しいものであった。
冷凍食品、レトルト食品、工場でカットされて直送されて来る食材。
それらを温めたり焼いたりするだけ。
後は盛付け。
コストカットで安価な食事を提供し味もそれなりに美味しい。
しかし、私のように食の道を極めたいと思っていた人間には物足りなさを感じるだけであった。
今の仕事には満足はしていなかったが人生の敗者となった私に選り好みなどが出来る筈も無い。
ルシールは昼はクリーニング工場。
夜は皿洗いと寝る間を削って私を献身的に支えてくれた。
私達は食堂を営んでいた頃は24時間ほぼ一緒といったような生活だったが互いに外に出て仕事をするようになり一緒にいる時間は減ったものの少しずつ借金を返済していき互いが互いを思いやり貧しいながらも幸せな日々を送っていた。
私のシフト次第では先に家に帰っている事もあった。
私はスーパーで食材を買って帰りルシールの好物のシーフードガンボをよく作ってやった。
家も差し止められて借金の返済に回されていたので私達は築45年の古びたアパートに住んでいた。
アパートの玄関が開きシーフードガンボのスパイシーな香りをルシールが察知すると、いつも顔が綻んだ。
二人でガンボを突き食べ終えた後のルシールの嬉しそうな顔を見るのが私は好きだった。
「あなた、美味しかったわ。御馳走様」
「済まないね。いつも苦労かけて。肩が凝ってるんじゃないのかい。僕が揉んであげるよ」
「いいわよ、あなた。あなたも疲れているでしょ」
「気にする事ないさ」
彼女の肩はがちがちに固まっていた。
手もがさがさに荒れていた。
「あなた、気持ちいいわ。ありがとう。私ってやさしい旦那さんと結婚出来て幸せね」
彼女は目を閉じて気持ちよさそうに言った。
私はハンドクリームすら買わせてあげられない自分の不甲斐なさを改めて痛感し涙が溢れそうになった。
「僕の方こそ出来た奥さんを貰って幸せ者だよ」
溢れそうになる涙を堪えて私は肩を揉み続けた。
「まあ、あなたったらお上手なんだから」
幸せだった。
金銭的には切り詰めて切り詰めてやっていたがルシールのお陰で私は頑張れた。
しかし、そんな私達夫婦に更なる悲運は訪れた。
神は更なる試練をお与えになられた。
「あなた、ちょっと胸にしこりがあるみたいなの。心配だから病院で検査してもらってくるわ」
精密検査の結果ルシールに乳がんが見つかった。
ルシールは仕事を退職し治療に専念するようにした。
それは、私の望みでもあった。
乳房を温存するか全摘出するかルシールは悩み温存する方向で治療を選択した。
抗がん剤で美しかった亜麻色の毛髪は抜け落ち痩せ衰えていくルシール。
「あなた、髪の毛が抜け落ちて窶れちゃった私になんてもう魅力を感じなくなっちゃったでしょ」
わざと明るく振る舞う彼女が私には返って痛々しかった。
肉体的にも精神的にも彼女が疲弊していたのは私の目にも明らかだった。
私を悲しませまいとする彼女のその心遣いが耐えられなかった。
「髪が抜けようがどうなろうが君は君じゃないか。僕にとっていつまで経っても君は美しい君のままだよ」
ルシールの瞳が潤んだ。
私の肩には生活費、ルシールの治療費、借金という重荷が幾重にもなってのし掛かった。
朝も晩も身を粉にして働き頑張った。
今度は私がルシールの重荷を半分ではなく全て背負って生きていく覚悟だった。
ルシールは懸命に辛い治療に立ち向かい一度はがんが消え去ったかのように思われた。
私の嬉しい気持ちも束の間だった。
がんは再発しルシールの身体の至る所に転移していった。
彼女は入院生活を送る事を余儀なくされた。
それでも明るく振る舞おうと努めていたルシールだったが肉体的苦痛と私が抱えている重荷に責任を感じてその悲痛な胸の内を吐露した。
「あなた、私もう耐えられそうにないわ。身体が思うように言う事を聞かなくなっってきたし、あなたは頑張っても頑張っても稼いだお給料は私の治療費に消えていく。私、あなたの重荷になっているのももう耐えられないの。後生だから私と別れて誰か良い人を見つけてちょうだい」
ルシールは号泣しながら私に哀願した。
彼女の身体は痩せさらばえていた。
「何、馬鹿な事を言っているんだい。君と僕は一蓮托生じゃないか。君の喜びは僕の喜び。君の苦しみは僕の苦しみ。君が背負っている重荷を取り除けはしれないかも知れないが僕がその重荷の大半を担ぐ事によって君の負担は減らせるというものじゃないかい。それが夫婦ってものだろう。君が治療費の事なんか気にしないでいいんだよ。どうか、僕に君の肩に伸し掛かっている重荷を背負わせてくれないかい」
「ごめんなさい、あなた。馬鹿な事言っちゃって」
「また明日来るからね。少し何も考えずにゆっくり身体を休めるんだよ」
私は彼女の額にキスして病院を後にした。
それが私と彼女が交わした最期の言葉だった。
翌朝。
彼女は屋上から飛び降り自ら命を絶った。
それは、彼女が背負っていた病と薬剤の副作用から来たしていた肉体的苦痛という重荷。
私の背負っていた全ての重荷への責め苦から解き放たれた瞬間だった。
私は不甲斐ない己を恥じるとともに責任を感じ慚愧の念に襲われた。
しかし、その行為に及ぶまでのルシールの苦悩や苦痛。
私は悩み抜いた末に彼女が決断した意思を尊重した。
2月22日。
それは彼女の誕生日。
そして、私達の結婚記念日。
彼女は結婚式の日に言っていた。
「あなた、私の誕生日と結婚記念日が一緒の日だからプレゼントは一つで済むわね。安上がりな奥さんで記念日に疎いあなたの負担も減って良かったでしょ」
最期に彼女が手首に嵌めていたブルーターコイズのブレスレット。
彼女の35歳の誕生日。
結婚して節目の10回目の記念日に彼女に贈ったプレゼント。
最期は痩せさらばえた彼女の手首からすり抜けそうになっていた。
あの日の朝に枕元の置手紙とともに置かれていた。
置手紙にはこう書いてあった。
「もうじき、あなたと一緒になって20年。私にとって掛け替えのない幸せな20年でした。先立つ不幸をお許しください。ごめんなさい、あなた」
彼女が旅立って3ヶ月。
私達の20回目の記念日が訪れた。
今、私はルシールと何度も行ったケープコッド国立海浜公園に来ている。
私は彼女にあげたブレスレットを握りしめて海を眺めていた。
私も肩の荷を下ろす時が来たようだ。
ルシールのいないこの世に何の未練があるというのか。
私は海水に一歩足を踏み入れた。
冷たかった。
沖に向かって歩を進めた。
身体は震えるほど寒いのにルシールの温もりを私は感じながらゆっくりと進んだ。
もう肩はすっかり軽くなりルシールが語りかけてきた。
「あなた、光の射す方へ来て。そこに私はいるわ。愛してる、あなた。永遠(とわ)に…」
その瞬間、ルシールが私を解き放ってくれた。
重荷 Jack Torrance @John-D
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