episode10『鬼の居ぬ間に』

「失礼、します」


 数回のノックに続いておずおずとそんな控えめな声を出し、シンはゆっくりと木製の大扉を開く。重厚な扉はどうやら中に魔鉄による基板が仕込まれているようで、思いのほかの重量に、少し開けるのに時間を要した。


 クリスマスも過ぎて、既に今年も末になった。12月31日――つまりは大晦日も既に暮れを迎えようとしている、窓から覗く夕日は、すぐにでもその地平の裏へと沈んでいくだろう。

 場所は心斎橋に変わらない、が、その風景はあまりにも慣れぬものだった。


 巨大というよりも、広大という方が適しているだろうか。


 近所に存在する小学校の運動場なんか四つは簡単に入ってしまうだろうというサイズの人工芝のグラウンド、そこに隣り合って存在する、芝のグラウンドほどではないにしろ大きな、砂の敷かれたグラウンド。そちらには端に短距離走の線が見え、現在は近隣の高齢者たちの集まったゲートボール大会が催されている。


 校舎は四階建て、だが余りにも広い敷地にいくつも建てられた校舎は明らかに尋常の数想定ではなく、この場所に集まる人々の多さを示していた。


 “聖憐製鉄師養成学園”。日本全国に存在する10の製鉄師養成学園の内、大阪……京都に存在する聖境製鉄師養成学園と並んで、近畿地方の製鉄師達の育成を担う、製鉄師、魔女、ドヴェルグ魔鉄加工技師達にとっての学び舎。


 シンは今、その学園長室に招集を受けていた。


「……えー、っと」


「ん。あぁ、逢魔君ですね。お話は伺っています、そちらに掛けてお待ちくださいな」


 部屋の奥の作業机に腰掛けてパソコンと睨めっこをしていた女性がシンに気が付いたらしく、朗らかな笑みでそう声を掛けてくる。彼女の指示に従って部屋の中央に置かれた応接用らしいソファへ腰かけると、暫くすればその女性が3人分の湯飲みをお盆に乗せてシンの対面側のソファに座った。他にも誰か来るのだろうか。


 髪は綺麗な黒髪を腰ほどにまで伸ばして、前も目にかかる程度まで伸ばされている。深い藍色のスーツに身を包んだ姿からはきっちりとした印象が漂いそうなものだが、彼女のにこやかな表情、或いは雰囲気なのか、どちらかというと和やかな空気があった。

 だがその空気とは裏腹に、片目には額から頬に掛けて大きな切創が刻まれている。眼帯を付けていることを見るに、そちらの眼は機能しないのだろう。


 腕には金の腕輪――OICC登録証が填められている。それは彼女が製鉄師であることを示していた。


「えっと、白崎さんは……?朝からウチに居なかったので、こっちに居るのかなって思ってた、んですが」


「あぁ、学園長と街花様は今東京にいらっしゃいます。前聖玉学園長が以前亡くなられまして、現在その娘さんへの引継ぎ作業の補助に当たっていらっしゃるとか」


「と、東京に!?じゃあ、あの、えっと……」


「……?あぁ、ヒナミちゃんの護衛の事なら心配いりませんよ。代わりの製鉄師が現在も周囲を監視していますし、彼らの手に負えなくとも、常に連絡が取れるようにして下さっています。あの方なら戻られるまで10秒も掛かりません。そういう鉄脈術をお持ちですから」


「は、はぁ」


 鉄脈術ならばそう言ったこともあるのだろうか、あまりにも途方もなくてイマイチ現実味がない。魔鉄技術によって随分と交通手段の利便化は進んだが、それでも大阪と東京を行き来しようと思えば、最速でも片道2時間は掛かるだろう。


 それを10秒と掛からない、という。昔から続く某ネコ型ロボットのどこにでも移動できるドアを連想した。あの人はワープの力でもあるのだろうか。


「ふふ、あんまり信じられないといった顔ですね」


「……まあ。製鉄師っていうのがそう言う存在だっていうのは知ってるんですけど……やっぱりこうしてアニメとか漫画みたいなことを“出来る”っていわれても、どうにも信じがたいというか」


「製鉄師の活動している姿なんて、普通に暮らしていたらそうそうお目にかかりませんしね……でも、君にも見える世界オーバーワールドがその証明です。自分でも分かるでしょう?」


 にこやかな笑みのままでもっともな返答を受けて、つい黙りこくってしまう。確かに、シンの見える世界だって現実的なんて言葉からは遠くかけ離れたものだ。自分の姿が鬼に見えるなんて、もし歪む世界が認知されていなければ幻覚でも見ているだけだと一蹴されるだけに終わるだろう。


「大丈夫です。学園長は一見だらしないようですが、実力は日本皇国でも指折りですから」


 安心させるためなのか、それとも元からそういった人なのか、心を落ち着けるような喋り方でそう締めくくった彼女は、湯飲みのお茶をくい、と少しだけ飲む。シンも小さく頷いてお茶に口を付ければ、思いのほか苦くって内心で少々顔をしかめた。甘いものが食べたい。


 ……と、そうではなかった。シンがここに居るのは別の目的だという事を、今更ながらに思い出す。


「それで、検査、っていうのは」


「っとと、そうだった。君に今日来てもらったのは、ちょっと特殊な検査をしなきゃいけないからなんです。……というかまあ私がその担当なんですけれど、そんな緊張はしないで下さいね?すぐ終わる簡単な検査ですから」


 頬を掻きながら笑う彼女の声と共に、背後から扉の開く音がする。気になって振り返れば、そこに居たのは随分と小柄な赤毛交じりの少女……というか、どうやら魔女のようだった。


 光の当たり方によって所々が銀色に見えるその髪は肩口で切り揃えられて、体躯にしては随分と大きなコートを纏っている。裾は地面すれすれで、場所によっては汚れてしまっていた。

 コートには大きなファーの付いたフードが目立ち、更にその上から首元には薄ピンクのマフラーを巻いていた。手もモコモコの手袋で覆っているらしかったが、その八割はコートのポケットに突っ込まれていて見えない。


 時期が時期なので寒いのだろうが、そうは言っても室内だというのに随分な重装備だ。寒がりなのだろうか。


「あ、来た来た。いいタイミング。ごめんねあざみ、こんな日に呼び出しちゃって」


「……構わない。彼が、例の?」


「うん、逢魔シン君。学園長が言ってた子よ」


 アザミと呼ばれた魔女は女性の隣に座ってちらりとシンを一瞥すると、次いでシンの全身をゆっくりと見下ろしていく。何やら眉を顰めて腹立たし気な気配を感じたが、何か失礼をしてしまっただろうか。


「……何と、酷な」


「え?」


 ぽつりと何かを呟いたらしいが聞き逃してしまって、ついつい聞き返す。だが彼女は小さく首を横に振ってから表情を優しげな笑顔に変えると、今度はシンにもしっかりと聞こえる声で話し始めた。


「……いいや、何でもない。ジロジロと不躾にすまないな、私は花宮薊はなみやあざみという」


「あ、そういえば私も自己紹介がまだでしたね、九条悟くじょうさとりといいます。お察しの通り、薊とパートナーを組んで、白崎学園長の下、製鉄師をしています」


 隣に座るアザミをガバっと抱きしめて「仲良しなんですよぉ~」なんて上体を揺らすサトリに、アザミはなにやら諦めたような表情で、真顔且つ無言のまま揺らされている。確かに仲は良いのだろうが、随分と振り回されているであろうことはこの様子を見るだけでも何となく察せられた。


 暫くするといい加減アザミもピキリと青筋を立てて腕を振りほどくと、「いい加減にしろ」と苛立ち交じりに何度も拳骨を脳天に落とす。まぁ魔女の小柄な体躯、しかもあそこまでモコモコの手袋だとダメージは知れているのだろうが。


「……全く、話が進まんだろう。さっさと済ませるぞ」


「あたたた……分かってますぅ!ちょっと緊張してるみたいだからリラックスっさせてあげようっていうお姉さんなりの気遣いをしてただけですぅ!」


 ぶーぶーと不満を全身に表しながら立ち上がったサトリはシンの座るソファの後ろに回ると、「ちょっとだけそのままで居て下さいねー」なんて言ってシンの頭に手のひらを添えた。


 一体何を、と声を発する前に、ふわりと不思議な感覚が全身を包む。


精錬開始マイニング我が瞳に糸を結びユア・ブラッド・マイン


精錬許可ローディング汝が糸を共に括らんマイ・ブラッド・ユアーズ


 サトリの声に応えるように、アザミが鋼の祝詞を謳う。ぞわりと体中が総毛立ち、四肢に、二十の指に、無数の糸が括りつけられたかのような奇妙な感覚。前後左右、無数の方角へ張り詰める何かに、全身を軽く引っ張られるような、そんな感覚だった。


 不意に、シスターの顔が脳裏に浮かぶ。聖憐に出向く直前に、玄関で軽く会話を交えたときの記憶だった。


 ヒナミの顔が浮かぶ。出発前、洗面所で身支度を整えていた時にばったりと出くわしたときの記憶だった。


 マナの顔が浮かぶ、シュウヤの顔が浮かぶ、教会に暮らす家族たちの顔が順々に浮かんでいく。それだけではない、白崎夫妻、近所に暮らす心優しい老夫婦、よく使うコンビニに勤めている気のいいおばさん、果てには関わったことも忘れていたような懐かしい顔、たった一度すれ違っただけの人達、逢魔シンという人間が生まれてきて今までに出会ったことのある無数の人々の姿がフラッシュバックする。


 記憶が手繰られていく、深く、深く、深く。


鍛鉄トライン――『一期一会、我が眼、えにしを辿る瞳なればオオクニヌシノミコト』」


「……ぇ」


 サトリが静かに、その名を謳い上げると同時。


 シンの意識は、途切れた。






 ――――――――――――――






「あ、目が覚めましたか?お疲れさまです、もう検査は終わりましたよ」


 想い瞼を開けると、すぐに頭上からこちらを見下ろすサトリの顔が目に入った。


 体が少しだるい、若干の疲労感が全身に広がっている。肩から下に掛けては何やら暖かな感覚に包まれていて、心地よい手触りの布が手に触れる。どうやら、眠ってしまったシンを気遣って毛布を掛けてくれていたらしい。周囲をざっと見渡したところ、アザミはもう居ないようだった。

 と、後頭部に存在する柔らかな感触に気付く。我ながらなぜ今まで気づかなかったのか、どうやら膝枕をされているらしかった。


 慌てて飛び上がる。あまりにも気が動転していたせいか、ソファからずり落ちて隣の机の角に思いきり頭をぶつけてしまった。ごすんと鈍い音がして、頭にきつい衝撃が走る。

 くらくらする頭に手を添えてよろよろと立ち上がると、くすくすと笑うサトリの姿が見えた。あまりにもあんまりな自分の行動を振り返って赤くなる、恥ずかしい。


「あら残念、もう少し横になってても良かったんですよ?」


「……か、揶揄わないでください。それで検査って、結局何だったんですか」


「え、学園長に聞いていません?何も?」


 シンがこくりと頷くと、彼女はなにやらせわしなく視線を右往左往させると、やがて大きなため息をついて頭を抱える。「典さんの馬鹿ぁ……どうしてそういうこと私にさせるんですか、もぉー……」なんて小声で愚痴のように漏らしたサトリは、しばらくたっぷりと時間を使って悩むと、観念したように肩を落とした。


 すっと、彼女の表情が引き締まる。それまで漂っていた穏やかな空気が鳴りを潜めて、周囲にはどこか緊張した雰囲気が漂い始めた。


「……あまり考え過ぎないように聞いてくださいね」


「……?」


「逢魔くん。流石に、君のOI深度が少々洒落にならない領域にまで深まっていることぐらいは聞いていると思います、というかお願いですから聞いているって言ってください。でないと、事と次第によっては学園長をぶん殴っておくことになりますので」


「き、聞いてます聞いてます!」


 若干恐ろしい雰囲気を漏らして話すサトリに、慌ててフォローを入れる。「ならよかったです」なんて言いながらすっと怒気を消した彼女は、少し視線を宙に彷徨わせる。さっきのように少し躊躇うような素振りを見せたサトリはやがて決心したように、真面目な顔で話を進め始めた。


「私の鉄脈術、『一期一会、我が眼、えにしを辿る瞳なればオオクニヌシノミコト』は、人の想いと縁を覗き見る鉄脈術なんです。細かい説明は省かせてもらいますが、先ほどは逢魔くんの“世界との縁”を覗き見させて頂きました」


「……世界との、縁?」


「はい。この『物質界マテリアル』との縁……言い換えれば、繋がり、でしょうか。貴方を貴方としてこの世界に繋ぎ止める鎖……というよりは、いかりのようなものです。通常、この錨はあまりにも重く、どうこうしようとして出来るものではありません。己が己として物質界ここに在ることを、疑いなどしませんから。

 ……ところが、一部のOI能力者。あまりにも重度のOWを抱えた方は、その限りではないのです」


 曰く。

 位階が振鉄ウォーモング――さらにその中でも重度の歪む世界を抱えたものの中には、稀に意識が『歪む世界』に引きずられて、己が存在する世界が曖昧になる事があるという。


 歪む世界とは即ち、OI能力者が垣間見る霊質界アストラルの風景だ。そして歪む世界に取り込まれるという事は即ち、己の本来の居場所を見失うという事。

 だからといって、人間が霊質界に向かう事は無い。だが、本来の居場所たる物質界においても、その者は異端の存在となってしまう。


 詳しい原理は分かっていない、だが、その者はいずれこの世のものではなくなってしまう。別の何かに『羽化』してしまうのだ。


「……それ、確か、白崎さんが言ってた、『崩界モルフォーゼ』っていう」


「はい。それが崩界モルフォーゼ……行き過ぎたOIオーバードイメージが膨れ上がって、冥質界の情報生命体、『カセドラルビーイング』に“成って”しまう現象です。そして」


 ジッと、サトリがシンの眼を見つめる。「しつこく言うようですが、心を冷静に、落ち着かせて聞いてくださいね」と念を押してシンに確認を取る。こくりと頷いた彼の態度に、ようやく、サトリはゆっくりと口を割った。


「――君は、今もまだこの物質界マテリアルに留まれているのが不思議なほどに、繋がりが薄くなっています。どうにかしなければ……長くとも、この世に留まれるのはあと一週間が限界、と言ったところでしょうか」


「……!」


 それは、実質的な余命宣告に等しかった。


 たった一週間、たった七日間、それだけの期間でこの鬼の姿をどうにかしなければ――少なくとも、ただのOWオーバーワールドとして実害を与えない領域にまで落とし込まなければ、シンに未来はない。

 待っているのは死、という訳ではないのかもしれない。だがそこに居るのはシンではなく、別の生き物。人間にとって重大な被害を齎しかねない、完全な怪物に成り果てる。


 人間性の残留など、とても期待は出来ない。


「……そう、ですか」


「酷なことを言って、ごめんなさい……でも!まだ絶対そうなると決まった訳じゃありませんから!現実的なラインだと、それまでにパートナーを見つけて契約を済ませれば、十分に助かる可能性はあります!」


 “安心してください、とは言えませんが……”と頬を掻いて付け足すサトリに、シンは思わず頬を緩める。今日初めて出会ったばかりの子供にこうも親身になってくれるなんて、優しい人だなと感じた。

 そんなシンの表情ですこしは元気を出してもらえたと思ったのか、彼女はほっと安心したように息を吐く。“ありがとうございます、悟さん”というシンの例に、少し照れたように彼女はぱたぱたと手で顔を煽ろうとして――


 続くシンの言葉に、硬直した。




「――じゃあ早いうちに、皆にお別れを言わなきゃいけませんね」


「……え?」



 一瞬、言っている意味が理解できなかった。


 絶対に生き残ると、死に物狂いになるならば分かる。精神に余裕がなくなっても生き残ろうともがき足掻いて、焦りを抱きながらもどうにか走るというのならばそれがいいだろう。


 これまでの経験を鑑みて、諦めるのなら分かる。絶対に無理だという意識が強く張り付いて、かすかな希望を追うことに疲れてしまっているのだ、というのならば仕方のない事だ。もっとも、そうだとしてもサトリは諦めさせるつもりはないが。


 だが、彼は。

 そもそも自分から、命を捨てようとするかのような。


「……なんで、ですか?まだ、諦めるには……」


「もしも間に合わないと、周りに危険が及びかねないんですよね?だったら、早いうちに誰にも迷惑が掛からないところに行って、せめて誰かに害を与える前に殺してもらったほうが良いですから」


 にこやかな笑顔だった。たまたま出会った友人と路上で世間話をしているみたいに、本当に穏やかな笑顔のままだった。


「それに、僕のエゴで魔女の子を危険に晒すのは相手に悪いですから。契約はやめておきます」


「相手に、悪いって……自分の命が、掛かっているようなものなんですよ?」


「僕が助かるために、相手に酷い怪我させちゃう訳にはいきませんよ。教会の皆には、ちょっと寂しい思いをさせるかもしれないけど……でも、“あんなこと”がもう一度起こるよりはまだマシだから」


 すこし気まずそうに苦笑して、シンは首に手を当てる。

 目の前の小さな少年が、本当に中学生にもなっていない子供なのかと疑りそうになった。


 齢の割には大人びた子だな、とは思っていた。だがこれは大人びているだとか、そういう話ではない。似ているようでまるで違う領域の話なのだ、これは。


 この子には、自分を尊重するという考えがない。


 それは献身とは似ているようで違う、自分よりも他人を優先させているのではなく、そもそも“自分”というものが勘定に入っていない。自分の事を考えるという選択肢がハナから存在しないがゆえに、他人のためにしか動けない。そうする以外に、自身の存在意義を見いだせていない。欲望が存在していないのだ。


 無欲で片付く話ではない、それは人間としてあまりにも不自然な状況。人間という生き物の心の在り方としては、あまりにも大きな欠陥。


 ――この子の心は、壊れている。


「……逢魔くん。君は……」


 先の検査で、気がかりなことがあった。

 繋がりを紐解いていく中で、本来あって然るべきのものがない。繋がりというものは、たとえ死という別れを迎えようとも残り続けるモノなのだ。

 たとえ相手が死んでいようが生きていようが、サトリの瞳はそれを辿れる。だというのに、本来人間ならば――いいや、生物である限りあって当然の繋がりが、彼にはなかった。


 それは、“親子の縁”という必定のえにし。如何な生物であっても、自然発生でもしない限りは存在する“親”という縁者。


 それだけではない、サトリはその縁を全身に絡みつく糸として視る事が出来る。それらは例外なく、そして当然ながら外へ向けて伸びているのだ。

 だが、たった一本。たったの一本だけではあるが、シンの胸の中に、複雑に絡んでくるまった糸があった。


 その要因は、恐らくのレベルではあるが推定できる。だが、それは本人の様子を確認しながら解き明かさねばならない。故にこそ、彼の名を呼んだ、その時だった。


「――!!」


 がたり、とシンが立ち上がった。


「……。」


「……?……逢魔くん?」


 何かに釣られるように歩き始めたシンは、学園長の扉を異様に鋭い視線で見つめていた。少しずつ早くなる足のまま思いきりその扉をこじ開けて、すぐ目の前に存在する大窓に体を張り付かせる。


 既に時刻は21時を回っていた。とっくに夜は深まって、道頓堀の明るい街並みが敷地の外に広がっている。

 学園長室は、聖憐の校舎でもひときわ高い15階建てのエリア、その最上階だ。故にマンションの立ち並ぶ都会でもある程度見下ろすことはできる。


 異変は、すぐに見つかった。


 各所から、サイレンの音が響いていた。ここから見下ろしても、御堂筋の大通りをいくつかの消防車が通っていくのが分かる。だが問題はそこではなく、それらの目的だ。

 消防車が出張る目的など一つだ、火事を除いて他にない。であれば火事が起こっているのだ。


 そんな当然の事を敢えて再確認した理由は、たった一つ。


 シンが、その光景を信じたくなかったから。


「……うそ、だ」


 ――轟々と燃え盛る炎の柱が、まるで竜巻のように渦巻いていた。


 夥しい量の黒煙を天上の空にまで噴き上げて、ここからでもその凄惨さが見て取れるほどに激しく燃焼している。幸いながらその建造物は周囲の建物からは離れているようで、周りに燃え広がっている様子はない。

 それはそうだ、だって中庭が広がっているのだから。燃え移るような距離には何も建っていない、毎日のように義兄妹達と遊んでよく知っている。


 炎が大きいのは、きっとそもそもその建造物自体が巨大だったからというのもあるだろう。しかも建物はまだ完全に魔鉄化も終わっていないのだ。普通の木材なのだから、火をくべれば燃える。当然の摂理だろう。


「うそだ」


 ばきり、と、併設されていた書庫の小屋が倒壊したのが見えた。何度も何度も入って色んな絵本を読みあさった、思い出の詰まった書庫だった。

 手が震える、喉が痙攣する、乾いた眼を瞬きで潤すことも忘れ、ただその光景を受け止める事に全ての思考を費やすしか出来なかった。あまりにも受け入れがたい事実が、そこにはあった。


「僕たちの、家が」


 何故、どうして、そんな疑問が次々と浮かび上がる。だが暫く硬直していたところで、ひと際大きく脳裏に響いた言葉が、シンの頭蓋で延々と反響した。


 ――“私を助けてくれる?シン”――


 気が付けば、背後のサトリの静止すら耳に入る事も無く。


 シンは、窓の外へ身を躍らせていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る