御子神先生の「鉤括弧」の話がなかなか終わらない(笑)② 鴫野亜実

 御子神みこがみ先生の「鉤括弧」の話はなかなか終わらなかった。

「鉤括弧の役割を意識したことはあるかな?」

 意識する、という表現がみな気になった。

「私は、今でこそ国語教師をしているが……」と御子神先生は身の上話(笑)を始めた。「学生の頃は演劇をしていた。役者ではなく、演出の方だ」

 香月かづき先輩は美しい顔で耳をすまし、鴇田ときたは腑抜けた顔で聞いていた。

 あたしは、どんな顔をしていただろう。父親より年上のおじさんの話に興味はないのだが。

「舞台演劇はなかなか面白いぞ。小説とはまた違った楽しみがある。小説と舞台の違い、あるいは漫画、アニメ、映画、テレビドラマ、そういったものの違いをじっくりと考えたことがあるかな。それぞれ人間の五感に訴えて何らかの物語を視聴者に疑似体験させるものだが、それぞれ情報源が異なる。もっといえば必ず何かが欠けている……」

「「欠けている?」」

「たとえば小説は文字だけだ。文字を読んで人間の脳のなかで映像や音を構築していく。それぞれの経験に基づく構築だからイメージは人それぞれだ。文字で美人と書かれていても、たとえそれが、黒髪だの、鼻が高いだの、つぶらな瞳がきらめいているだのと表現しようと、それぞれ思い浮かべるものは同じではないだろう。でもそれでも良いんだ。それぞれが思う美人だと思えれば。それが舞台や映画、テレビドラマなどの画になると、もう役者さんの顔と表情になってしまう。漫画やアニメも顔は強制的に視覚的に訴えてくる。小説は文字だけで画がない。小説以外は画によって視覚的に訴えてくるが、逆に文字がないんだ。文字という情報が欠けている。だから登場人物の感情だとか心に思っていることなどは役者が自分の表情と動きで表現するしかない。中には演出的にナレーションで『御子神は悲しかった』と言ったり、テレビドラマの画面に聴覚障碍者ちょうかくしょうがいしゃ向けの文字放送のように文字を入れるという技法もあるが、少ないわな」

「「なるほど」」かたちだけの相槌が打たれた。

「漫画は画と文字がある。しかし動きがない。音がない。アニメになると動きと音が出てくるが、文字がなくなる。これも演出で『ゴゴゴゴゴ……』と文字を入れることもあるが、やっぱりレアなケースだな。漫画の吹き出しで心の叫びがよく描かれるけれど、アニメになると声優が声に出して言うしかない。とにかく、何にせよ視覚、聴覚に訴える情報源のどれかが欠けている。ついでにいうと、匂いだとか、触感だといったもの、触覚、振動覚などといったものはどれも表現できない。ゲーム機器などはコントローラで振動を感じさせるものがあるようだが、さすがに匂いはむりだ。将来的には匂いも含めた五感すべてに訴えかけるバーチャルリアリティが出来るかもしれないが、私が生きているうちにできるかな。

「話をもどそう。舞台や映像の世界ではカメラとマイクというものが使われる。実は文字しかない小説の世界でもカメラとマイクという概念があるのだ。カメラにあたるのが『視点』といわれるもの、マイクにあたるのが『鉤括弧』なんだ、と私は思う。

「そして、小説においてカメラとマイクを操作しているのが『語り手』と呼ばれるものだ。『語り手』とは何なのか、という話は一旦おいておいて、一人称小説であれ、三人称小説であれ、小説は『語り手』が語っている。『語り手』が自分でマイクを持って語っている部分が『地の文』といわれるもの、そして登場人物にマイクを持たせて喋らせている部分が『鉤括弧』で囲われている。学者によってはこれを『語り』と『報告』と呼んでいる。『地の文』が『語り』、『鉤括弧』の中が『報告』だ。地の文がある間はマイクは『語り手』が握っている。そして『始め鉤括弧』がついたら登場人物にマイクが手渡されたことになる。そこから登場人物による『報告』が始まり、『終わり鉤括弧』が出れば登場人物はマイクを手放す。その後が『地の文』ならマイクは『語り手』に返されたことになるし、『地の文』がなくて続けて『始め鉤括弧』があれば別の登場人物にマイクが手渡されたことになる。という具合だ。ということで、もし地の文を挟まずに鉤括弧つきの会話文が二つ続いたら、別の人物が喋っていることになるのだよ。それを同じ人物が喋ったことにしようとしたら、『終わり鉤括弧』をつけない、という技法を用いることになるわけだ」(作者註:『御子神先生の「鉤括弧」の話がなかなか終わらない(笑)① 鴫野亜実』後半部分参照 なお今話の御子神先生の長セリフも『終わり鉤括弧』をつけないかたちで表記した)

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