第3話
二階の老人の自室に向かって、僕らは階段を登った。木造の階段は今にも抜け落ちてしまいそうに、一歩踏み出すごとにギシギシと嫌な音を立てる。
二階には二部屋あって、左が書斎、右が老人の自室とのことだった。先に書斎を見ても良かったんだけど、さっきの『ラップ音』でなんとも嫌な気持ちになっていたので、僕はすぐに老人の自室に入ることにした。少しでも早くこの建物から脱出したいと思ったのだ。(今だったら、「自室なんて見なくてもいいから、さっさと帰れ」と言うんだけど、その時はその後起きることなんて知らないから)。
部屋のドアを開けようとノブに手をかけたが、どうやら建物が歪んでいるらしい。建て付けが悪いようでなかなか開かない。ふんっと力を込めて思いっきりドアを引いたら、なんとか開いたのだが、勢いで思わず転びそうになってしまった。それを冷たい瞳で見下ろす松永氏。まるで「馬鹿みたい」とでも言いたげな瞳である。
僕は恥ずかしい気持ちを押し込めて、なるべく平静を装い。部屋の中を覗き込んだ。瞬間、鼻をつく悪臭。タンパク質が腐ったような臭い。開けた瞬間に舞った埃の臭いと合わさって、僕は思わずえづいた。
松永氏には感じないのか、松永氏はいつもの冷徹な表情のまま部屋の中をまっすぐに見つめている。
少し経って、鼻が慣れたみたいで僕はゆっくりと部屋の中に足を踏み入れる。不思議とさっきの臭気は感じない。代わりに部屋の中がえらく寒いように感じた。
「霊がいるところは他の箇所よりも気温が下がり、悪臭があることもある。と一般的に言われています」
松永氏が淡々と言った。あの悪臭、松永氏も感じていたのか。それなのにあの無表情、もしかして感情がないとかなのだろうか。
「この部屋には、まだ姿は現していないですが、確実に霊がいますね」
そう、言う。
そうか、確かにこれだったら僕にもわかる。
部屋の中は一階とは違ってがらんとしていた。当時の家具はほとんど撤去されていて、あるのは部屋の真ん中にあるソファのみ。おそらく皮張りの、元は白かっただろうソファは至る所に黒黴が生えていて、ほとんど真っ黒だった。普通だったら触りたいとすら思えない。
だが、その時僕はなぜかソファにどかりと座ったのだ。
松永氏が信じられないとでも言ったような顔で僕を見た。
その時、突然バタンと音を立てて扉がしまった。
建物の中だ。もちろん風なんてない。そりゃあ、崩れかけの築何年かもわからないような建物(それでも日本家屋とい言う風ではなくて、ちゃんと近代風の建物)だから、隙間風は入ってきてはいるのだけど、でも扉が音を立てて閉まるほどの強風なんかじゃない。
僕と松永氏は扉を見る。同時にあたりの気温が一気に下がった。さっきまでは少し涼しいかなと思うくらいの温度だったのに、今ははもう、凍えるほどだ。急激に指先から体温が奪われていく。明らかに夏の気温ではない。
「言い忘れてましたが、例の老人、自室にあったソファで喉笛を掻っ切って自殺をしたらしいです」
「それを早く言ってよお」
僕は涙目になって、松永氏に言う。
「まさか、そんな大それたことをするとは思っていなかったので。とりあえず、早くこの部屋から−−いや、この家から出た方がいいかもしれないですね」
冷静にそう言った。僕もそう思う。
僕は大慌てで、ソファから立ち上がろうとして、ソファに手をついた。
ピチャン。
濡れた感触。
雨漏りでもしてたのかな?と思って、僕は自分の手を確認した。声にならない悲鳴が出る。
「どうしました?」
「ち……血……!!」
僕の手にはべったりと赤い液体が付着していた。飛び上がるように立ち上がった、僕のズボンにもべったりと。ソファを確認すると、さっきまでただ黒黴が繁殖していただけだった。ソファから赤い、血液のようなものが滴り落ちている。
僕は腰が抜けそうになるのを何とか堪えた。
「早く、出ましょう」
「何であなたはそんなに冷静なんですかねえ?!」
「慣れていますから」
淡々という松永氏を尻目に僕はドアノブに手をかける。開かない。どんなに力を込めてもビクともしない。何かに向こう側から押さえつけられているような、そんな感触。
でも、貧弱ながらも僕も男だ。こう言う時に頼りにならなくてどうする。
僕は思いっきり足を上げて、ドアを蹴り飛ばした。二回、三回。四回目にして、ドアがバキンと言う音を立てて壊れる。もっと鍛えていたら、もしかしたらここまで苦労しなかったのかもしれない。部屋の外の空気は生温かった。
僕は、ゆっくり歩こうとする松永氏の手を引っ張って走る。松永氏は困惑したように僕に続いた。そうして、僕と松永氏は階段を駆け降りて、なんとかそのゴーストハウスの外に出たのだった。
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