旅人と白亜の港と坂道の少年少女

 雲一つない青空を、一羽のカモメが、クークーと鳴きながら飛んでいく。

 青天の下に広がるのは、穏やかな色に揺れる大海原。

 この光景に、私がふと思い出したのは、少し前に古書店で見つけた、外国の古い詩集の一節だった。

 そこそこ古い作品だけれど、それでもじんわりと心に沁みる、素敵な詩。


   白鳥は

   かなしからずや 空の青

   海のあをにも 染まずただよふ


 あのカモメは寂しくないのだろうか、空の蒼にも海の碧にも染まることができず、孤独に空を漂っていて。

 あのカモメはいとおしくないだろうか、空の蒼にも海の碧にも染まらず、悠然と空を舞っていて。


「(やっぱり、素敵な詩だなあ)」


 街のシンボルである、『鐘楼の塔』。

 その展望スペースで、一人きり、そんなことをぼんやりと考えた。

 手すりから軽く身を乗り出して、空へ手を伸ばしてみる。

 空の半球の天井どころか、あのカモメにすら手が届かないことなんて、分かり切っているのに。

 我ながら馬鹿みたいだと溜め息をついて、ゆるゆると手を引っ込めれば、潮の香る涼やかな風が吹き抜けていった。


「……はあ」


 本当にいい天気だ。

 何だか、いっそ物悲しい気持ちになるくらいに。

 風に煽られて少し乱れた髪を整えつつ、溜め息をついたその時。

 ギィッと木がきしむような音がして、床の扉が開いた。


「あ、やっぱりここにいた!」


 静かだった空間にいきなり響いた音と声に、思わずビクッと肩が揺れる。

 振り返ってみれば、写し身かと言いたくなるほどそっくりな男の子たちが、揃って顔をのぞかせていた。

 同じ学校に通っている双子の兄弟、ユーノ君とカルロ君だ。


「ユーノ君、カルロ君」

「やっほー、元気ー?」

「うん、元気元気。っていうか、よくここが分かったね?」

「神父様が、多分ここだって言ってたんだ」


 ずるっと這い上がってきた二人の服は、ところどころ埃で汚れている。

 ここはそれほどしっかりと掃除がされているわけじゃないから、仕方ないと言えばそうなんだけれど。

 二人が近付いてきたのを見計らって、ぱぱっと軽く服をはたくと、二人はおんなじ顔で笑った。


『ありがと、メリー!』

「いえいえ。よくやってることだし、大したことじゃないよ」


 そう言って、ひらひら手を振って、そっぽを向いた。

 褒められたり感謝されたりするのは慣れているけれど、それでも、何だかくすぐったくて苦手なんだ。


「それで、二人は何の用事?」

「え? えーと……何だったっけ、カルロ君?」

「もう、肝心なことを忘れてるんだから……。もうすぐ海軍の船が帰って来るから、メリーも誘って見に行こうって言ったのは、ユーノ君でしょ?」

「あは、そうだったそうだった。ってなわけでメリー、早く行こう!」

「え!? わわっ、ちょっ!」


 そう言うや否や、右手をユーノ君に、左手をカルロ君にぐいっと引っ張られる。

 その時の二人の笑顔の、何て輝かしいことか。

 足がもつれて転びそうになった瞬間に、私はあわててストップをかけた。


「ま、待って待って! 二人ともストップ!」

『なーに?』


 すると、二人はまたおんなじ顔で、不思議そうに小首をかしげる。

 そんな二人に、私はぶんぶんと首を振った。

 今日は、この公国を守る海軍の船が、この港町に戻って来る日。

 それを記念して、港では帰港のお祝いと労いの意味を込めた、ちょっとしたパーティーも開かれることになっている。

 興味が無いわけじゃない、むしろ行きたくてたまらなかった。

 だって、私は、この国の海軍の人たちに憧れている。

 だから、日夜海の平和を守り続けている彼らに、「おかえりなさい」と「ありがとう」を言いたかった。

 それに、私はもう一つ、別の意味で、海軍に強い思いを寄せている。

 だけど――


「わ、私、行かないからね!? 絶対港には行かない!」

『えぇー?』


 とっさに二人の手を振り払えば、ユーノ君は思いっきり唇を尖らせ、カルロ君は露骨に残念そうな顔を見せる。

 不満を漏らすユニゾンは、やっぱりきれいに揃っているけれど、褒める気にはなれなかった。


「何でー? ひょっとして、身なりがどうとかって言いたいの?」


 そう言って、私の着ている古着を見やるのは、カルロ君だ。

 私が今着ているのは、街の人が孤児院に寄付してくれた服で、もうかなり着古されたものだ。

 だから、布地はよれよれだし、ところどころに落ちない汚れも残っている。

 カルロ君は、私がそれを気にしているんじゃないかと思ったみたい。


「孤児院の他の子たちも、同じような格好してるんだし、別にいいじゃん。みんなもう、港に行ったみたいだよ?」

「それもあるけど、そうじゃなくて!」


 ユーノ君にそう言い返してから、私はぷいっと二人から顔をそむけた。


「……行っても、あの人が私のこと、覚えててくれてるか、分からないし。不安なの」


 だから、できれば行きたくない。

 私のそんな言葉に少ししゅんとした二人に、ごめんねと謝った。


「だから、ほら。二人で行っておいでよ」


 これでいいんだ、これで……

 そう思ったけれど、私はすっかり失念していた。

 この二人が、そう簡単に事を諦めるような性格じゃないということを。


「なあんだ、そんなこと気にしてたの?」

「大丈夫だよ、きっとあの人だって、メリーに会いたがってるって!」

「え、ええ? で、でも……」

「とーにーかーくー! 今日はメリーも一緒に楽しめないと、ダメだから!」

「そういうわけで……」


 ニッと笑ったカルロくんが、再び私の腕を引く。

 次いで、ユーノくんが手早く床の扉を開けて、私たち二人を押し込めた。

 ほとんど転がり落ちるようにして塔の一番下まで降りたあとは、全速力で街中を駆けていく。

 なだらかな傾斜になっている、レンガ造りの坂道を。

 もしかしなくても、これは……




『強制連行だー!』




「ああああっ、やっぱりぃ……!」


 私が、どうあっても首を縦に振ることはないと悟ったのだろう。

 とうとう二人は、無理やり私を連れ出すという手段に出ることにしたらしい。

 猛スピードで過ぎていく景色の中で、道行く人たちの視線が刺さる。

 騒がしくしているせいなのか、それとも、人ごみの中を猛然と走っているせいなのか。

 多分、どっちもなんだろうなあ……

 そう思いながら、思わずため息をついた。


 だけど、どうしてかな。

 今は、港に行くのが、少しずつ、楽しみになり始めていた。


 思えば、せっかく海軍の皆さんに――そして、『あの人』に会えるチャンスなんだもの。

 着ている服がどうとか、気にしている場合じゃない。

 ここで行かなきゃ、勿体ない!


「……ユーノ君、カルロ君!」

『なーに?』


 私の言葉に、足を止めた二人。


「ありがとうね、連れ出してくれて!」


 振り向く双子に、私はそう言って、今度は手を引かれることなく、自分から、街を走り抜けていく。


「行こう!」


 そう言って二人の間を通り過ぎたその瞬間、一度顔を見合わせた彼らが、揃って笑うのが見えた。

 そこからは、港までのかけっこの始まりだった。

 追い抜かれては追い抜いて、時折じゃれあうようにしながら、港へ続く坂道を下っていく。


 やがて、目の前に、陽の光を乱反射してキラキラ光る海が見えてきた。

 紺碧の水面を裂いて進む帆船の、真っ白な帆が見えるまでもう少し。


 あと、少し――――



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