四章 誾景涼王と片翼の鳳凰

第30話 空白の絵画

(ねぇ、約束よ)

 そう言って、目の前でわらう私がいた。

 いいえ、私とよく似た私。

(あなたと一緒なら、あたし、きっと何でもできるわ)

 笑う。笑う。私にはない表情であたしが笑う。

 差し出された手にはおそろいの指輪が二つ。

(二人で天を目指しましょう)

 二人で一つずつ指にはめる。

 私は赤、そしてあたしは青。子どもの手には随分と大きな指輪。

 弟の命と引き換えに旅立った母から譲り受けたもの。

(私たちは二人で一人。だから、そうね)

 そうね、名前を決めなくちゃ。二人で生きていくための名前。

 名前は――――。


「兄ちゃん、向こうで上手くやっているみたいだな」

「子牙さんは要領がいいですし、黄花姫様の手腕も一役買っているとか」

「姫様も、堂々と求婚すればいいのに。いや、兄ちゃんが逃げるから悪いんだよな。黒雲の手紙にそう書いてあった」

 今晩の宴が終わり、羽と澄は教坊の一角でぼんやりと空を見上げていた。ふぅと、息を吐けばそれは形を作っては消えていく。季節はもう冬になり、先日は今年初めの雪空だった。澄ははしゃいで、雪を固めて像を作っていた。弟たちも、澄に混ざって一緒になってはしゃいでいた。

(何をそんなにはしゃいでいるんだか)

 子どもの時ならいざ知らず、羽はもうとっくに元服していて、雪にはしゃぐ気持ちはこれっぽちもなかった。そもそも、寒さが苦手な羽にとって、冬は一年で一番憂鬱な季節だ。冬は演奏に集中しやすい分、寒さで指が動きにくくなる時期で、火鉢を横に置かなければ演奏できない。

「そういえば、そろそろ年が明けますね」

「そうだっけか」

「市場の方も、暮れに向けていろいろ準備しているらしくって、必要な物は早く買っていけ、っておっしゃってました」

「そうか。そろそろ新しい筆が欲しかったし、明日の朝買いに行こうか」

「じゃあ、おれもついて行きます! ちょうど、新しい帳面が欲しかったんです」

「あぁ、そうか。大叔父上から教わってたな」

 澄は二胡だけでなく、殿中で必要なことを周福から教わっている。二胡の練習の合間に本を読んでいる姿をよく見かける。福の名前を聞いたとたん、澄の表情がちょっとだけ固まった。

「福殿は……いつも笑っていらっしゃいますね」

「あぁ。大叔父上が笑顔以外の表情を浮かべることは滅多にないな」

「どんなに間違えても、正解していても、笑っていたんですよ」

「あぁ……」

 羽は澄の戸惑いにあいまいにうなずいた。

(大叔父上も変わらないな)

 笑み閻魔の周福、と弟子たちが噂しているのを思い出す。彼は弟子がどんなに間違っていても、何も言わずに微笑みを向ける。三度同じ間違いをしてようやくここが違います、とか、もう一度よく考えてください、というのだ。

「大叔父上の笑みの裏を考えちゃだめだぜ。それを考えたら、まともに答えることすらできなくなるんだ」

「分かってます! 分かっているんですけれど! どうしても考えちゃうんです!! ずっと笑顔でいられるくらいなら、ちょっとくらい叱ってくださっていいんじゃないですか?!」

「まぁまぁ、大叔父上だからな、諦めろ」

 澄の叫び声に、羽はなだめることしかできない。普通なら、厳しい師匠より優しい師匠がよいと考えるのだが、福に師事すると逆転する。

「福叔父上は見込みがある人間ほど無口になるんだ」

「そ、そうなんですか?」

 見込みがあると思った若者であればあるほど、彼は多くを語らない。言わなくても分かると思っているからだ。

「とにかくわからない事があれば俺もちょっとくらいなら教えられるから……」

 そういうだけで精いっぱいだ。


「………」

 描けない、と彼女はつぶやいた。

 火鉢も、明かりもない。月明かりだけが唯一の明かり。

「私は、ここに居られないわ」

 彼女は指にはめた赤い指輪をなぞる。そして、その手を前に伸ばす。

 月明かりに照らされて、彼女は何も描かれていない紙面に手で触れる。

 なにも頭に浮かばない。描かなくてはいけないものがあったはずだ。

 でも、それが浮かばないのだ。まるで雲のように形が定まらない。

「おーい。今帰りましたよー! 嶺さんの言う通りに、ちょっと多めに野菜を買ってきましたよー」

 不意に聞こえた声に、彼女ははっとする。どくどく、と心臓がなりだした。足音はどんどん大きくなる。彼女を探し、あちこちを回っているのだろう。

(そうよ、ここにはいられない)

 描けないのなら。私があたしでいられないのなら。

 ――― 彼の隣にいられない。

「いかなきゃ」

 彼女はそうつぶやくと、窓枠に手をかけた。


 次の朝の市場は、いつもより人の数が多い。人ごみになれていない澄の様子をうかがいながら、羽は少し先を歩く。玄国との関係が進展したことで、町の雰囲気が少し和らいだのだろう。

(去年までは兄ちゃんが案内してくれたのにな)

 自分の少し前を、子牙が歩いていた。けれど、今は羽がそれをしている。

「羽さん。書店はこちらですね」

 澄が大通りの曲がり角を指さす。何度も連れ出しているからか、地理も分かってきたようだ。

「あぁ。金が足りなくなったら言ってくれ。やるから」

「いえいえ?! 大丈夫です!」

 上ずった声を出して、澄が人混みに消えていく。その声の理由を知らない羽は、なんとなく歩いていく。筆をおいている店まで歩いて行こうとすると、妙な声を聞いた。

 ぶぇんぶぇんと、人が出すには現実離れした、泣いているような声だ。その声に導かれるように羽は歩き出した。声の出ているところはすぐに分かった。

「おっさんの家??」

 家の門の近くで、策の教え子たちやその親たちが集まって中を窺っている。誰が行こうか、いやそっとしておいた方がいいのでは、といろいろな声が聞こえてくる。

「あ、坊ちゃんだ!」

「ぼっちゃんだー」

「坊ちゃん久しぶりー」

「元気だった―?」

 羽の姿に気づいた子ども達がこれ幸いと駆け寄ってきた。子ども達も初めて会ったときよりも大きくなっている。と、そういうことを言いたいわけではない、と羽は首を振った。

「あの声、まさかおっさん???」

 子ども達は首がもげそうな勢いでふる。

「そうなの!」

「なにがあったんだ?」

 子どものような男だが、それにしたって近所迷惑を考えないほど泣きわめく人間じゃないはずだ。しかもあんな声だったら、迷信深い誰かが妖怪がいると勘違いして、衛士を呼びに行くほどのだみ声だ。

「御曹司、どうか見に行ってくださいませんか?」

「……」

 逃げようか、と思うが子ども達が羽の両腕に絡みついてきた。

「ぼっちゃんー」

「おねがいー」

「曹先生が心配なの―」

「しんぱい―」

 濡れた子犬のような顔で見つめられれば、断ることなどできない。羽はこれも次期当主の定め、と思うことにして策の家にはいることにした。


「おっさん、入るぞ」

 そう言って入ったものの、泣き声が止む気配はない。羽が入ってきた事にすら気づいていないようだ。家の中を進むと、何かを探しているように衣類や、小物類が散乱している。策の声の方に向かうのがよいと思ったが、まずは先に厨に向かうことにした。

(ここまでうるさかったら嶺さんがいるはずだけれどな)

 嶺がいないのなら、食事もまともにできていない可能性が高い。すぐに食べられる饅頭があればそれを持っていこう。そう思い、厨に向かうと棚の中に焼き菓子が残っていた。

「おーい、おっさん。邪魔するぜ」

 声を辿っていくと、私室の一角で布団をかぶって震えている何かが見えた。そこからおおよそ人のものとは思えない声が漏れている。

「おっさん、何があったんだよ」

「その声、羽だな!」

 がばっと布団を弾き飛ばして、策が羽の肩を掴んだ。初めて会ったときと同じくらいぼさぼさの髪、手入れされていない髭は本当に大聖なのかと疑うくらいだ。

「嶺さんがいなくなっちゃった!!!」

「はぁ?!」

「嶺さんが画題探しに出かけるための行李がそのままだし、大切にしている画材だってそのままだったんだ」

 そう言われ、辺りを見ると確かにあちこちに画材が転がっているし、旅道具らしきそれも置きっぱなしだ。

「なにがあったんだよ。まさか、離縁――――」

「それはない」

 きりっとした表情になり、策が言う。どの口が言うのかと、羽は言いたくなったが飲み込んだ。この夫婦は世間の常識というものが成立しないことは以前一緒に暮らしていて知っている。だからこそ、不可解だ。

「嶺さんがあんたを置いてどこかに行くなんておかしいよな。まさか、曹家の財を狙った誘拐とか?」

 曹家ほどの名家ならそれもあり得る。けれど、それほど大きな事件が起こったなら、まず父の耳にも入っているはずだ。

「嶺さん、数か月前にとある貴族のご令嬢の婚儀の屏風絵を依頼されていてね、それの作品に取り掛かっていたんだけれど……」

「婚儀の屏風絵? 鳳凰や蓮、牡丹の絵かな。でも、そんなもの……」

 どこにもない。見渡してみても、何も飾られていない屏風ならあるが、婚儀に使われるような華やかな絵はどこにも見当たらなかった。落ち着いた雰囲気の風景画ばかりだ。

「嶺さんは水墨画が得意でね。特に人物画が得意なんだ」

 その言葉に羽はえ、と疑問の声を上げた。実家にある嶺こと伯燕の絵のほとんどは華やかな花々や色鮮やかな動物の絵ばかりであったからだ。

「伯燕先生の絵は婚儀に使われると、父上が仰ってたけれど」

「そうなんだ。嶺さん、久しぶりの大きな仕事だったから張り切りすぎちゃったのかな。時々そうなるんだ。嶺さんが華やかな花や祝いの席の絵を依頼されると、雲隠れするんだ」

 時々そうなるなら、あの奇声はどうにかしろ、と言いたかったけれどやめることにした。羽と話しているうちに落ち着いてきたらしく、策は赤くなった目をごしごしとこすった。

「嶺さんは多分、曹家の別邸に向かったのかな」

「曹家の別邸?」

 淳が時々別邸に行くというから、別邸の存在自体は知っていた。別邸は確か、都から南に行った赤夏せきかという所にあるらしい。赤夏は赤夏湖という広い湖をたたえた場所で、避暑地として有名だ。

「嶺さんが別邸にいるなら、迎えに行けばいいじゃないか」

「それがなぁ、無理なんだ。嶺さんが落ち込んだ時は、俺が行っても意味がないんだ。だから、いつも淳に頼んでいるんだけれど、お前がいるなら一緒について行ってやれ」

「俺が行っても意味があるのかよ」

「お前、あんまり都の外に出たことないだろ。いい機会だし、行って来い。赤夏湖は名勝地だし、静かだから稽古にも身が入るだろ」

「う……」

 赤夏湖については知らない羽ではなかった。詩歌にも歌われ、絵画でもたびたびその地は描かれる。湖は冬になればその澄んだ水を鏡のように空を映していく。避暑地だから夏に訪れることが多いが、冬に訪れると異なった風景を見ることができる。

「どうだ? 行ってみる気になったか?」

「………」

 周家の仕事が、と言いかけたがそんなものはないと勘づかれるに違いない。

「そうと決まれば淳にも連絡をとるか。あ、そうだ。丁度いいから劉家のお嬢様にも声をかけてこい」

「このっ!?」

 にやにやと笑う叔父の顔に枕を投げつける。心配して損した。

 それにしても、あの嶺がかけないということなんてあるのだろうか。伯燕という絵師は完成度はさることながら、仕事ぶりは真面目と聞く。常に多くの作品を生み出していると。それなのに、なぜ。

 ――― 描けない。

 家を離れ、一人市に戻った羽は胸のあたりに拳をつくった。どこか、数年前までの自分の影がついてくるような気配がした。

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