第29話 智の花

 還鶴玄楼を奏でたことは、あっという間に周家の間で広まった。

「あの御曹司が、奏でたってのは本当らしい」

「まさか、殿中曲を初曲にするとは」

「御曹司らしいな。だが、それは斎殿や子牙殿の助力あってのこと」

「御曹司も周家を継ぐ意思が固まってきたようだな」

 弟子達からの言葉に、羽は複雑な思いでいた。たしかに認められるのは嬉しいし、今までさんざん馬鹿にされてきたから、ここで一矢報いた気持ちはある。

(確かに、俺の楽ではないかもしれない)

 殿中曲は素晴らしい曲だ。けれど、何かが収まらない気がする。


「なに難しい顔をしているの?」

 周家の庭先にある長椅子に腰かけていた羽の隣に、明英が座る。じきに冬が来る。もう外套なしでは外に出歩くことも難しいだろう。

「兄ちゃん送り出せたかな、って」

「子牙お兄さまはもう出られたでしょう。辰に帰ってくるときはもう、周子牙じゃない」

「分かってる。もう、兄ちゃんを頼りにすることはできないんだなって」

「そうよね、あんた。何につけても子牙お兄さまに頼りっきりだったし」

 少しはこちらを向いてもよかったのに、この御曹司はまったく。

「兄ちゃんがいなくても、俺は大丈夫だって言えた……と思う」

「煮え切らないわね」

「うっさいな。俺はお前みたいに何でもかんでも物分かりがいいわけじゃない」

「まぁ、失礼ね」

「……………ありがとう」

 唐突な感謝に心臓が飛び跳ねる。そうだった、この御曹司はうじうじ悩んでいるかと思えば、突然こんなことを言う。

『感謝されるほどではないわ』

 そう言いかえしたかったけれど、何も言えずに黙っておくことにした。

「なぁ、明英。お前の玄国での名前ってなんだ?」

「なによ唐突に」

「いや、なんとなく」

「やけに素直じゃないわね、言いなさいよ、理由」

「いいだろ別に」

 そう言ってそっぽを向く羽の頬を両手で挟んでこちらを向かせる。つり目がちな黒目が狼狽えているのが分かる。

「言ってくれたら、私も言う」

 そう力強く言ってみたのだけれど、内心心臓がばくばくとうるさい。こんなことなかったからだ。

「淳の奴にからかわれてさ。そういや、俺、お前のことあんまり知ろうとしなかったな、って」

 諦めていた時には、全てがどうでもよくなっていた。けれど、こうして去っていく人の背を見て思った。

「玄国に帰りたかったお前がどうしてここに居てくれるのかなって、思ったら、どうしても知りたくなってさ」

「…………」

 そんなの、自分も知りたい。もう、玄国に帰る気持ちはなくなっていた。それよりも、この危なっかしい少年が向かう先を見てみたかった。

「……」

「なに?」

「オユンチェチェグ、よ」

 視線をそらさずに言えただけでも、良かっただろうか。それより、顔が熱い。今の自分は変な顔をしていないだろうか。

 きょとんとした羽は、何度もその名を口にする。初めは弱く、だけれども次第にしっかりとした声に変わっていく。

「どういう意味なんだ?」

「智の花。知恵の花、って意味よ」

 その意味を知った時、羽はすとんと腑に落ちた。どんな時も、機転を利かせて諦めずに咲き続けている彼女に、その名は相応しく思えた。頬を染め、まっすぐに自分を見つめてくる顔に、羽は同じような顔で見つめ返していた。


「はっ!? 明英ちゃんに悪い虫がついた予感!???」

 こちらは所変わって黒狼族の野営地。大きな布を梁で支える家に黒雷と黒雲、そして子牙がいた。天狼族の生き残りといえば聞こえがいいが、領地もそれを運営するだけの力はない。それらは次の大部族会議で決めることとなり、子牙はまた宙ぶらりんな立場に戻ってしまう。

 そして、領地が確定するまではすべての氏族の領土に交互に住まうことになった。

「また始まった、黒雷。姉上が独り身になったら黒雷が悪いから」

「うるさいな! 明英ちゃんが嫁に行くなんて、想像しただけで……! くぅ!」

「あのですね、黒雷。それは遠回しに羽では不服だと?」

 黒雷の言葉を先程まで羊の乳を飲んでいた子牙が止めた。

「不服に決まってるだろ!?」

「あの子の腕前は黒雷だって分かったでしょうに。まだ不満ですか?」

「楽器なんて弾けて何になる。明英ちゃんを守れる男じゃないだろ?」

「へぇ、腕っぷしだけで度量が分かると? 浅慮ですね」

 すっと立ち上がった子牙に、黒雲はぼそりと呟いた。

「馬鹿が増えた」

「なんだと!?」

「もう一度言いなさい! 黒雲!」

 鬼の形相でこちらを振り向いた二人に、黒雲はため息をついた。しばらく黒雷との兄弟げんかは子牙になすりつけよう、と黒雲は思った。

(戦にならなくてよかった)

 戦なんて知らない。形ばかりの将軍である自分に命は握れないと思っていたから、この終わり方でよかったと心から思う。

 まだ互いのきょうだいについて言い争う二人を残し、黒雲は外に出た。冷たい風が火照った体を冷やしてくれる。どこまでも広がる平原を黒雲は眺めていると、人影が目についた。傍の馬小屋の影でこちらを窺っている。

「誰かと思えば、黄花姫様。どうされましたか?」

「その……子牙様にお会いしたくて……」

 そのもじもじした様子に黒雲は最大級のため息をついた。黄花姫はその見た目と血筋から威厳を持って振る舞うように育てられたが、実際の所は声も小さいし、いつも下を向いてもじもじしている姫君だ。

(それを知っているのは、昔から姫君に付き従ってるごく一部だけだけれど)

「いってこればよいではないですか。今、黒雷と馬鹿を晒しているので」

「まぁ、それは……。子牙様にとって、黒雷将軍は、竹馬の友と伺っていますから、その。悪いですわ」

(なんでここには馬鹿しかいないんだ……)

 黒雲は決意した。すかさず黄花姫の手を引いて、子牙達のいる家へと連れて行った。姫君を家に押し込み、黒雲は家の裏側にある物置から、馬頭琴を取り出した。傍の小箱に腰を下ろし、黒雲は奏で始めた。それは、還鶴玄楼とよく似た音。玄国では有名な友を見送る風と大地の音。

 あの還鶴玄楼の曲を聴いた時、父の顔を思い出していた。記憶にある父は体の大半を焼かれていた。それでも、懸命に生きようとしていた。守れなかった主に対しては懺悔を、戦士ではなくなった己には、慚愧を。

 ――― なぜ、そこまで己を呪っても生きようと思うのですか。

 その問いかけに、父は力が抜けたように笑った。

 お前もこれを弾けばわかる、と。黒雷は楽器は嫌いで、半ば押し付けるように渡してきた。父は動けぬ体を動かし、楽を教えた。

(この風を俺に託したかったのですね、父上)

 弓を動かすたびに、馬頭琴は風を生み出し、空へと返していく。まだ14歳の少年は目を閉じながら、父から受け継いだ音色を紡いでいた。

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