二章 遠吼孤虎と栴檀の朋

第8話 白露村の栴檀

 殿試に受かったからといってすぐに宴で奏でられるわけではない、ということは子どものころから知っていた。

 まずは、多くの楽人と混ざって奏でて、その中から頭角を現し、皇帝の前で奏でることになる。

「子牙兄ちゃんは、独奏はあっても皇帝陛下の前ではないだろ?」

「そうだね。私はまだ、周家の中では認められてはいるけれど、殿中ではまだまだだよ」

 二人がいるのは、殿中の中で楽人たちが待機をしている教坊というところだ。教坊、といっても内部は広く、大きく分けると楽人たちが住んでいる寮、練習をする寮、そして、舞手たちと最後の合わせをする寮、の三つに分かれる。そして、それぞれに小さな稽古場であったり、楽士用の調理場や洗い場など、こまごまとした施設が乱立している。

(小さな村みたいだな、楽人だけの村だ)

 周家の人間は、教坊に住んでもよいし、周家にいてもいいということになっている。基本的に、通勤している楽士もいるが、ほとんどが殿中に住むことを希望している。羽も、殿試に受かった際、子牙に勧められ殿中に住むことにした。

(さすが殿中だな、休む暇もなく楽が響いている)

 皇帝主催の宴はそうないが、御子や親族、高官の宴は週替わりで行われている。

「俺も、すぐに宴に引っ張り出されそうだったんだけれど、な。それこそ、周家の人間で、正統後継者なんだし」

 ぱち、ぱち、と手持ち無沙汰になった羽は前かがみになって手を叩いている。その姿に、子牙はうん、とあいまいな返事をした。

「なんと言っても、周家の正統後継者が殿中に入ったんだ。陛下もそれなりに期待しているだろうし、そこには高官たちの駆け引きもあるんだろう」

「げぇ」

「そんな顔をしても、仕方ない事だろう」

 苦虫を噛み潰したような顔をたしなめている。けれど、それも羽は何となく察している。殿中に入ってからというもの、周家の正統後継者という現実が否応なく突きつけられている気がしてならない。

 宴でよい演奏を聴いて、己のものとする、それを掲げてやってきたはいいものの、いまだに宴に呼ばれても存在を隠されているような気がする。

(俺にそんな価値があるのかね)

 楽人の価値、それは腕の良さだけで決まるものだと思っていたが、どうやら違うらしい。たとえば、そう。

 急に羽たちの周りがざわざわとし始めた。楽人や舞手たちが顔を見合わせ、ひそひそと声を出し始める。

「おい、来たぞ」

「あぁ、天才様のお通りだ」

「なんてりりしく、愛らしいのかしら」

「あぁ、早く宴で合奏したいわ」

 ひがみと、羨望と、一種の熱狂と、様々な感情が羽の耳に届く。彼らの視線にいたのは、赤毛交じりの茶色い髪と、猫のように大きな瞳。まだ幼さが残る顔立ちは、衆生のざわめきを聞いていないかのように、どこか虚ろだった。

 少年の名前は斎澄。今年で14になるかならないか、といったくらいだ。羽の殿試で、審査を務めていた人々の一人で、辰国で将来を期待されている若き楽人の一人だ。得意としている楽器は二胡で、羽はまだ澄の演奏を聞いたことはない。けれど、その佇まい、楽に対する姿勢から漂ってくる一種の「気迫」というものを感じている。

 彼の二つ名を「白露村の栴檀」という。


 彼のほかにも二つ名を持つような楽人がいる。二つ名は陛下から賜る者もあれば、周囲からつけられることもある。澄のそれは前者だ。この事からも、彼に対する期待は、羽のそれとは方向は違っていても、同じくらい重いものだと思っている。

「羽は、澄と話してみたいかい?」

 急に何を言い出すのかと思えば、子牙はにこにこと笑っていた。

「そう言えば、何度も宴で合わせてみたいと言われていたな。あれ、きっとわざとじゃないか?」

「そうでもないさ」

 そういうと、子牙は急に長椅子から立ち上がると手を振った。

「澄! 久しぶりだね!」

 そう言って駆けだしていく従兄の姿に、羽はやっぱり越えられない壁というものを感じた。

「子牙さん! お久しぶりです! たがいに宴でなかなか会える時間というのが無かったですから………あ」

「お?」

 目が合った。

「うわぁああああああ!!」

「うわぁあああ!?」

 澄が叫ぶものだからつられて羽も叫んでしまった。ずかずかと羽の目の前にやってくると、両手を上げた。

「周羽さん! 周羽さん! やっぱり殿中に来てくれたんですね! わぁ! 嬉しいな!」

 無邪気。そう思った。

「あ、改めて自己紹介させてください! おれ、斎澄って言います! 周羽さんに会えてとっても嬉しいです! う、うわぁ……本物だぁ……」

 ボロボロと泣き出してしまいそうなくらい、目が潤んでいる。

(演技には見えないな……)

 長年の経験のせいか、どこかひねくれて育ってしまった羽にとってこの反応は予想外だった。子牙は元々殿中で下働きをしていたこともあってか、教坊内での人望は厚い。子牙に対しては丁寧でも、自分なんかには目もくれないと思っていたのに。

「あ、俺は周羽。知っているだろうけど、周家の正―――」

「正統後継者になったって、子牙さんから聞きました! 本当、周羽さんが正統後継者になったと聞いておれ、感動しちゃって!」

 感情の塊だ、と羽は思った。苦手な部類だと思うが、どこか慕わしく思えた。けれど、それを素直に出せるほど呑気に育ってきたわけではないので、羽が言えたのはせいぜい、名で呼んで、ということぐらいだった。


 教坊の中にある、羽にあてがわれた個室の寝台に腰かけ、羽は大きくため息をついた。疲れた、というのが真っ先に出た感想だった。その先も、澄は自分がいかに羽を待ち望んでいたのか、何を弾きたいのか、というのを矢継ぎ早に語りかけていた。最後になってようやく、子牙が止めたくらいだ。そうでなかったら、あふれ出る言葉の洪水におぼれていたに違いない。

「はぁ……、疲れた」

 何度目かの疲れた、というのにも疲れてしまった。それくらい、彼の熱意がすさまじかったのだ。


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