第7話 春想月花
人前で弾くことができた。
自分でも信じられなかった。去年の年始の宴は、裏方に徹し、厨房から出てこなかった覚えがある。家を追い出されたことで、自分に自信が持てた。
(俺だって、できることがあったんだな)
今年の殿試が近づくにつれ、羽には二つの道があった。
今まで通り、殿試を受けるか、否か。
(答えは決まってる。でも、一つ違うところがある)
もちろん答えは是だ。でも、それは家のためだとか、伝統のためだとか、そういう意味ではなかった。殿試を受けて、もっと自分の腕を磨きたいと思ったのだ。もっと多くの楽人と出会いたいと思ったのだ。そこに到達した楽人たちの楽は、自分の腕を軽く飛び越えていくだろう。
さわやかな風が吹き抜けていく殿中に羽は進んでいく。あれから一年が経ったのだと思うと、不思議な気分になっていく。まるで昨日のように思えてきた。殿中は塵一つ落ちていない、真白の石段が続いてく。丹塗の柱が立ち並ぶ殿中は、いつ来ても背が伸びる気分になる。
(今年はいける気がする)
「周羽、参りました」
羽の目の前に置かれたことをじっと見つめる。指の感覚を確かめる。冷たくはなっていない。目を閉じて、息を何度も吐く。
「課題曲は?」
去年と同じ老爺が羽に尋ねる。羽は目の前に並ぶ人々の顔を一人一人見ていく。去年と全く変わらない面々に、羽は落ち着いて口を開いた。
「春想月花を、即興で奏でたいと思います」
羽の言葉に、ざわめきが起きるのは必然だった。試験官はそれぞれ互いを見あい、こそこそと話し始めた。
「即興だと!?」
「周羽さん、即興出来るのかい?」
「周家の人間が即興をするなんて聞いたことがありませんわ」
課題曲といっても、それはあくまでも分かりやすい基準でしかない。腕に自信があれば、即興曲でも自作した曲でもいい。
(俺だって驚いてるよ、即興なんて)
周家の正統後継者として、ありえないことをしていることは分かっている。楽譜を正確になぞることだけを追い求めていた自分ではたどり着けなかった。
「周家として、即興をすることがどれだけ愚かなことかは分かっています。ですが、今までの自分に足りなかったものが、この一年で分かった気がするのです」
あの破天荒な叔父は、まごうことなき天才だ。あの境地にたどり着くためには、殿中で腕を磨かなければならないと思ったのだ。天才がひしめく殿中で腕を磨きたい。
「春想月花は、それ単体では殿試に相応しくないことは分かっています。だから、殿試でも通用するような曲に編み直します」
「そうか……」
「では、弾いてみなさい。あなたの一年がどのようなものだったか、楽で私たちに示してごらんなさい」
「はい!」
弦に向き合い、指を乗せる。主となる楽の音に、自分なりの音を重ねていく。旋律は頭の中に流れていく。優しいだけではなく、凛とした雰囲気をまとわせる。楽ですべてが決まる楽人たちの世界で、楽で己を示せ。
指がどんどんと音を奏でていく。去年は全く動かなかった指なのに、今は勝手に動いていく。
ふわり、と領巾が羽の目の前で舞った気がした。
(……后陛下)
音もなく羽の前に現れた娘は、領巾を宙に投げ、足をさばき袖を振るう。この景色も、一年前には全くなかった光景だ。完璧に弾くことばかり頭に浮かんでいたせいで、楽に込められた思いを読み取ることが無かった。
羽の音に合わせて娘が躍る。まだ后としての威厳はなく、かと言え何の力もない農民の娘というには、気品がある動きだった。
高く跳ぶために体を必要以上に曲げることなく自然と高く伸び上がっていく。空中で姿勢を取るときの軸も全くぶれず、領巾のうねりさえ計算されている。片足で着地するときすら音一つ立てない。
舞の名手だった彼女は、初めて聞いた曲だろうに、まるで何年も踊り続けてきたかのように、悠々と音に合わせて踊っていく。
羽の曲はだれもが聴いても、春想月花をもとにしたのだとはわかった。けれども、そこに重ねられる音は、確かな実力に裏付けられたものだ。自然に溶け合う音に、まるで初めからその曲があったかのように思えてしまう。原曲よりも少し速くなってしまってはいるが、雰囲気を壊してはいない。
「……ありがとうございました」
弾き終えた羽は、深々と頭を下げた。緊張は全くしていなかった。むしろ今まで弾いてきたどの瞬間よりも満ち足りていた。
(まだ弾き足りない)
そう思えた。今までなら、弾き終ればそれで終わりだったのに、まだ弾き足りない気持ちでいっぱいになった。
「弾き足りないって顔しているね?」
「はっ!?」
「いきなり即興と言い出すものだから、驚いたが、さすがは周家だな。春想月花のたおやかさを失わずに、ここまで弾けるとは」
「ええ。ですが、今までの周羽さんとはどこか違う気がしますわ。この一年で、とても励まれたことが分かります」
「なるほど、曲速を少し速めて舞の曲としての側面を強調したのか。史料に忠実な点も見過ごせないな」
「速い曲でも外さない正確さはさすがと言ったところだ」
「そ、それでは……」
急に心配になってしまうが、試験官たちの顔は明るい。
「周羽。殿中で楽士としてあがることを許可しよう」
「あ、ありがとうございます!」
深々と羽は頭を下げた。今までは暗い顔をして殿中から去っていたというのに、今年こそ通ることができた。
「あのおっさんのお陰だな」
へへっと、羽は頬をかいた。もし、彼に会わずにいたらまた同じような目に遭っていたに違いない。これでようやく、楽人としての一歩を踏み出すことができた。
(けど、おっさんと父上との問題は解決してないよな)
家に連れ戻されて以来、周策とは一度もあっていない。こちらから文を出そうと思ったことはあったが、あの顔が頭から離れない。それに、彼からしてみれば因縁のある兄の息子だ。顔も見たくないに決まっている。
(殿試に受かったことぐらいは話しておきたいな)
はぁ、と息をついて羽は町中を歩いていく。あの人のことだ、どこかで弾いているに違いない。命知らずにもほどがある殿中曲を。
耳をすませば、風に乗せて聞こえてきた。勇ましい武人をたたえる笛の音が。
「ほらな! ったく、役場につきだすぞ! おっさん!!」
出会ったときと同じ音が聞こえてきて、羽は走り出した。キラキラとした日差しが、羽を照らしていた。走って行く度に心も、体も弾んでいく。それは舞のよう。
かくして、歴代で最も才能が無いと言われていた周羽は殿中に上がることになった。彼が殿中に名を刻まれるのは、まだずいぶん遠い話。だが、偉大な楽人として称えられた彼のはじまりは、いたって平凡な青年だったのである。
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