第5話 楽譜泥棒
夏が過ぎ、子ども達は農繁期に入ったのか、全然学問所に来なくなった。三人だけの家は静かすぎた。三人いれば家事ができるかと思えば、全然そうではなかった。まず第一に、嶺は綺麗好きであっても料理はあまり得意ではなく、「食えればなんでもいい」という強い信念を感じる。符に至っては何もできない。
(簡単な料理を覚えててよかった……。ありがとう、子牙兄ちゃん!)
厨房で涙をこらえながら羽は鍋を振るっていた。辰国の男は慣例的に家事を全くしない。けれど、昼夜を問わず稽古を続けている周家では手が空いている人が厨房で軽食を作るという習慣ができている。羽は心の底では面倒だな、とは思いつつも、子牙と一緒になら厨房に立つことが多かった。その流れで、簡単な食事を用意することができた。
「よし、こんなものか」
三人分の食事を卓に並べると、羽は背伸びをした。さて、あの夫婦を呼びに行こうか。そう、羽が厨房から出ようとすると、バタバタと足音がした。
「御曹司っ!!!」
「嶺さん? どうしたんですか? 顔色が悪いですよ?」
「そんなことはどうでもいいんです! 御曹司、今すぐここから逃げてください!」
「は?」
そう言われても、何のことか全然わからない。でも、あきらかに動揺しきっている嶺からは何も聞けないだろう。嶺の頭の中には、羽をここから逃がすことしか残っていないようだ。
「御曹司、ここから裏口に出られますから!」
「なにを言っているんですか?」
「御曹司、その……」
「伯燕先生、我が愚息をどこに連れて行こうとしているのかね?」
「!!!???」
嶺がびくりと身を震わせる。その声に、羽は覚えがある。ゆっくりと近づいてくる気配に羽は喉を鳴らした。
「あ……」
「まさか、ここにいたとは、な。久しいな、羽」
「ち、父上……?」
厨房に現れた父親は、苦々しげな表情で羽を見ていた。
「どうしてここが……。子牙兄ちゃんが?」
父はため息交じりに頷くと、帰るぞ、と告げた。
「帰る? なんでだよ!」
「ここにお前を置いていくわけにはいかないからだ」
「そんな事言われても、俺を家から出したのはどこの誰だよ!」
「たしかに、お前を出したのは私の判断だ。だが、どこに流れ着いてもよいとは言っていない。ここだけは特に」
「ここ? ここは確かに楽人の家だし、曹家にも迷惑がかかることは分かる。けれど、父上がそう考える理由にはならないはずだ」
「違う、違うのだ。羽よ、この家だけは駄目だ」
「どういう意味だよ、父上」
「ここには奴がいるからだ」
「奴?」
「奴がお前を拾ったということは、まだ未練があるのか」
「未練?」
「ご当主様。茶を用意たします」
冷静さを取り戻した嶺が、低い声で父に告げる。羽の目の前に立つ嶺は、あくまでも丁寧に腰を折る。けれど、羽の耳には強く衣を握る音が聞こえた。
「あぁ、頂こう。伯燕先生」
伯燕、と繰り返し父は言う。羽は父が現れた真意を見透かせずにいた。父は”奴”と言っていた。それは、おそらく符の事で間違いないだろう。周家と符の間には何か確執があるのは、この間の子牙の様子から分かる。
卓に座り、茶を飲んでいる父の向かい側に座り、羽は切り出すことにした。
「なんで、ここにいちゃ駄目なんだ……ですか?」
「あぁ、お前に入っていなかったな。この家には盗人がいるからだ」
「盗人?」
「ご当主」
お茶を注ごうとした嶺の手が止まった。険しい顔を向ける嶺に、更に険しい顔を向け、父はあざけるように笑った。
「これは周家の問題。先生……いえ、曹家には関わりない事。あまり事を荒げて、御父上殿の耳に届いたらいかがなさるおつもりですかな? 嶺殿?」
「………」
あからさまな脅し文句に、嶺は口を強く結んだ。
「嶺殿には感謝しているのですよ。なにせ、あの無能を引き取っていただいたのですから」
「……あの人は」
「おや、かばうのですか?」
「…………いえ」
こんな嶺は見たことが無かった。心の中に渦巻いている感情を出すことなく、ただ押し黙っている。気力を削がれているのか、それとも、聡明な彼女の事だ、自分の発言がどんな意味を持つのか理解しているのだろう。
「周家には秘伝の曲があることを知っているか?」
「ええ、ありましたね。年始の宴で弾く曲ですね」
楽人が集まる周家では、時折身内間で宴を行うことがある。節句ごとに開かれる宴で、周家の中での地位を確立していく。羽は上り症のせいで、その宴でさえ満足に弾くことができなかった。それでも、普段の練習時の姿や、かつて殿中で名を残した父や祖父の七光りで正統後継者と見られている。
その宴の中で、年始の宴は一際重要視されていた。なぜなら、正統後継者のみ弾くことが許される秘伝の曲が演奏されるからだ。羽もその曲を弾く資格は一応有しているし、一昨年から弾くことを父から言われていた。
(その秘伝の楽がどうしたっていうんだ?)
「その曲の楽譜が盗まれたことがあったのだ」
「盗まれた?」
盗んだところで、あまり価値のあるものとは思えない。希少な曲はごまんとあるし、古ぼけた楽譜は何度も修復した後がある。
「盗んだところで価値が無い、とでも言いたげだな」
愚か者が、と言われたが羽はその通りなので黙ることにした。
「この曲を弾くことは己が正統後継者だという証拠になるのだ。楽譜が無ければ弾けないだろう。盗まれたのは、正統後継者になりたい野心のためだ」
「正統後継者になったって、そんなに意味があることだとは思え―――っつたぁああああ!!??」
「我が息子ながら浅慮にもほどがある!」
思いっきり頬を殴られた。殴られた左頬を庇いながら、羽は椅子から転げ落ち、床を転げまわった。
「よいか! 我が周家は、辰国建国よりその長きにわたって楽によってなり上がってきた!」
椅子から立ち上がり、父が怒気をはらんだ声で叫ぶ。
「貴族のお歴々だけでなく、陛下からも絶大な信頼を頂いている周家の正統後継者になるということは、大変な名誉であると心得よ!」
「名誉で飯が食えるかよ」
「まだ言うか! 生まれたときから正統後継者になることが決まっていることに胡坐をかき、腕を磨くことをやめたお前にはこの価値が分からぬのだ!」
「俺が……なにもしてないだって?」
それは聞き捨てならない。羽はふらふらと立ち上がった。
「俺はたしかに人前で演奏できない半人前かもしれません。でも、腕を磨くことをやめた事なんて、一瞬たりともなかった! 俺はどんな時でも腕を磨いてきた! 殿試に向かう時は寝る間を惜しんで練習したし、曲だって選んだ! 宴に呼ばれれば、楽人たちが演奏しやすいように場や雰囲気を整えた! 俺自身が弾けなくても、周りが最高の演奏ができるように! それを、なにもしていないだって?!」
「御曹司!」
嶺の叫び声が聞こえ、はっと我に返った。そうだ、ここは実家じゃない。肩で息をしていた羽は深く息を吐いた。息をつき、何を言いかえそうかと思案した時、新しい気配がした。
「すごい声だったけど……。嶺さん、何か飲み物を……」
符が戸口に立っていた。符の姿を見つけた父はにやりと笑った。
「久しいな。あれから20年……いや、15年か?」
「そ、その声っ―――!」
ひぃ、と符が息をのんだ。羽が顔をじっくり見なくても、符の顔がみるみると青ざめていき、下ろした手の指先が震えている。
「なぜ……ここに?」
「お前はまだ正統後継者を諦めていないようだな。その証拠に、曲を知っている我が息子を家に匿ったのだろう?」
「ち、ちが……。羽の事、なら……。羽はあなたの息子?」
羽の事を無視して父は符に怒りの目を向けている。符はまるで蛇に睨まれた蛙のように固まってしまっている。
恐怖、混乱、そして憎悪。様々な負の感情が符に取り巻いているように見えた。
「そうだ。羽は私の息子だ、曹符………いや、我が弟周策よ」
「!」
今度は羽が驚く番だった。
「ま、待ってください! 父上! 弟は、子牙兄ちゃんの父様以外いないのではなかったのですか!?」
そうだ。羽の知っている父のきょうだいといえば、子牙の父と妹である周露以外にいなかったはずだ。いきなり、弟と言われ、何のことだか分からなくなってしまう。
「あぁ。お前には言っていなかったな。楽譜を盗んだことで、我が父より家を出されたのだ。哀れなことだ。お前如きが正統後継者になれるわけがないはずだろう」
「おっさんも何か言えよ!」
「良く手なずけたものだ。策、息子は連れて行くぞ。大人しく曹家で安穏と暮らしていればよかったものを」
「手なずけた?」
「違うのか? 策はお前に楽譜について聞いただろう」
「んなわけないだろ! 嶺さんが、俺が父上の子だって言わないでくれって………。そういう事、だったのか?」
胸元で強く拳を作っている嶺が下を向いたまま、頷いた。
(正統後継者になりたくて、楽譜を盗んだ?)
そうだろうか。殿中曲を、弾いたら死罪になるかもしれない曲を弾いていた男がそんなことをするだろうか。
「おっさん、演技だったのか?」
だが、もし、もしもだが。あの道化のような行動は羽から秘伝の曲を聞きだすための物だったら?
「違うよな? だって、おっさんは俺が父上の子だって、正統後継者だって知らなかったんだろ?」
「……だよ」
「?」
「そうだよ。俺だって、周家の人間だ。名を残したかったんだ」
く、と歯を食いしばり符が叫んだ。
「周家に生まれ、笛の名手ともてはやされ、俺は無謀にも思っちまったんだ! 正統後継者になって、当主になり、当代一の楽人と名を残そうと! 楽譜を盗んだのは本当だ! 笛だけなら、兄上たちにも負けないと思っていたからな!」
「あぁ、お前の笛は見事なものだった」
「兄上の息子だと気づかない方がおかしいだろう。羽、お前が気づいていないだけで、お前の事は兄上の琴によく似ているからな。後継者の曲はそのうち聞きだそうと考えていたんだ」
「ほら、そうだろう。帰るぞ」
「……」
引きずられるように、羽は曹符……周策の家から、実家に戻ることになった。
数か月ぶりの実家に、羽はしばらく放心状態だった。少し前までは、1日でも早く帰ることしか頭になかったというのに、心の片隅にあったのは、あの夫婦は夕飯をどうしたのだろうか、ということばかりだった。
「坊ちゃん」
部屋に入ってきた子牙がためらいがちに声をかけてきた。
「伯父上に坊ちゃんの居場所をつたえたのは私です」
「うん、知ってる。子牙兄ちゃんが心配してるのは、分かってたから」
「事件の事は、坊ちゃんがまだ幼かったこともあって、つたえなかったんです」
幼い頃祖父に叱られていたのは策だったのだ、とわかっても心のもやは晴れない。
「策叔父上は、笛の名手として有名だったんです」
「それも知ってる。あの笛は、そこいらの楽人じゃないって」
「周家の人間であっても、在野の楽人にも気さくに接していて、人望も厚かったのです。だから、その人望の厚さを買われ、正統後継者の一人として名が挙がったんです」
「でも、当主は父上じゃないか」
「はい。楽を奏でたのは、伯父上です。その事は変わりありません、けれど、楽譜を盗んだ事実は変わりません」
「おっさんは、正統後継者になりたかったのか? おっさんは笛はうまいし、人付き合いもよかったけれど、なんというか……」
「野心がない。坊ちゃんと一緒です」
「………」
照れくさそうに視線を逸らす従弟に、子牙はふっと笑った。
「楽を純粋に愛し、誠実な姿勢は、坊ちゃんと一緒です」
「…………なぁ、子牙兄ちゃん」
「はい?」
「楽譜が盗まれたのは、本当の事なのか?」
「……ええ。証言もあります。証拠として、叔父上の部屋から見つかったと言われています。周家で策叔父上はいないことになっているのは、いつか叔父上が正統後継者としての名乗りを上げるからだと考えられているからです」
名乗りを上げる。そう告げられ、羽は両手を握りしめた。父と再会した時の策の表情が頭から離れない。あの顔は、どう考えても何も知らなかった人間のそれだ。父に対してのあからさまな恐怖心から、振り払うように叫んだに違いない。
「みんな、おっさんが正統後継者になるんじゃないかって怯えているんだな?」
「………」
目を閉じた羽の脳裏には、策と過ごした数か月の風景が浮かぶ。たしかに腹が立つ言動をさんざんしているけれど、どうしても父が思うような人間だとは思えなかった。
――― おっさんは、ただ、好きに笛を奏でたいだけだ。
ここにいたら、自分の楽ができないからね、と苦笑した人達がいた。当時の事を知らない自分が言うのは、おかしいことかもしれない。でも、父を始め何人かは策が何らかの計略を用いたと考えている。
――― 違う。
「おっさんに楽譜を渡してない。渡すつもりもない」
「ええ、渡すなど恐ろしいことを言わないでください。彼は、坊ちゃんを利用したんですから」
「それは違うよ、子牙兄ちゃん。おっさんは本当に何も知らなかったんだ。もし、俺を利用するはずなら、数か月も小間使いさせることはなかったはずだ」
子牙は羽の意図を図りかねているようで、首をかしげている。
「父上に会ってくる」
「え?」
自室を出て、羽はまっすぐに父の部屋に向かった。その足取りはしっかりしており、ほんの数か月前までとは全く違って見えた。家を出されるまでの羽は、どこか自信が無く、嵐が起きても、やり過ごしていたというのに。
今の羽は、己から嵐を呼び起こそうという気迫に満ちていた。
「父上、策叔父上が正統後継者に名乗りを上げると本気でお思いですか?」
「唐突になんだ?」
「どうなのです?」
文机に視線を落としていた父が羽の目をまっすぐに見る。策とよく似た釣目が羽を見ている。
「あぁ。お前が未熟なままでは、子牙も含め3人で座を争うことになるだろう」
「ならば」
すぅ、と羽が息を吐いた。背筋を伸ばし、父の目をまっすぐに見上げる。
「俺が年始の宴で奏でられれば、問題なく俺が正統後継者になるでしょう」
「なにを言っているんだ? いままでのお前は、宴であっても奏でることを避けていたというのに」
それはそうだ。上り症のせいで、奏でられないと自分で自分に蓋をしていた。正統後継者についても、子牙がいるからいいだろう、自分はできなくてよいのだと、心のどこかで諦めていた。
「俺が正統後継者になれば、策叔父上が当主になることはないでしょう」
「お前、それがどういう意味か分かっているのか? お前は、人前で奏でられないだろう」
「もう、弾くことはできます」
それは半信半疑だ。父の顔も、困惑の色で塗りつぶされている。
(おっさんはもう、ここにはいたくないんだ。俺が諦めていたせいで、おっさんが過去を思い出してしまった)
子牙ではだめだ。自分でないと、証明できない。自分が自分の楽を奏でなければ、策は再びこの家に呼び戻されてしまうだろう。正統後継者の座は生まれたときから与えられていたものだけれど、今こうしてその意味が分かった気がした。
「年始の宴の稽古をさせてください」
羽の言葉に、父はしばらくの沈黙ののち、静かにうなずいた。
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