第3話 紅梅の女主人

 曹符の家に居候することになった羽の毎日は、周家にいた物とは全く違うものになった。まず、何より稽古が無い。周家では、一日の大半を稽古に費やす。日の出る前に起きだして、そこから朝の稽古。昼餉を適当に取ると、次は座学。陽が沈むまで稽古を続ける。自分だけでなく、門下生たちもやってくると家中に楽の音が響く。まるで、音楽を閉じ込めた家だ。

 夜になると、宴がある日はその準備に取り掛かる。そんな毎日だったから、楽の音が響かない学問所は不気味に思えた。けれど、代わりにここには子ども達の声が響く。


「羽兄ちゃん。この計算で合ってる?」

「ああ。だが、まず先に支払う金額をまとめていた方が計算が楽になるぞ」

「兄ちゃん、この詩の解釈って、冬で合ってる?」

「馬鹿言え、夏に雪が降るなんておかしいだろ。これは高山に上ったから、その山の湧水が澄んでいた、って意味だ」

「羽さん。さっき昼餉を作ったので食べてください」

「お、ありがとう。おっさんにも伝えとくよ」

 女の子たちが厨房から声をかけてきたので、羽は曹符を探しに町中に出てきた。町中は今日も平穏そのもので、夏が近づいているからか、行き交う人々の息遣いが荒い。額に汗をかいていく人もいる。露天商も日陰で煙草をふかして暑さをしのいでいた。


 体よく子ども達の世話を押し付けられたものの、羽は要領よくこなしていく。元々周家は名門と位置付けられているだけあり、羽には多くの師がいた。その気になれば羽は役人になるための科挙に挑戦できるだろう。

 符は使い勝手の良い小間使いができたようで、学問所に顔を出す以外は町中に出かけて笛を吹いて小銭を稼いでくる。羽にとってはあの腕を腐らせているように見えて歯がゆさで身もだえしそうになるのだが、本人はまったく気にしていない。奥方の嶺は奥に引きこもって絵を描いている。嶺も嶺で絵に向き合っている時は何も感じなくなっているようで、子ども達が世話を焼いている時もある。

(夫は笛で、妻は絵か……。似たもの夫婦だなぁ……)

 見合いで一緒になったにしても、へんてこな月下老人もいたものだ。子ども達がいなかったらこの夫婦の生活はひと月も持たずに瓦解したに違いない。子どもがいないのは、学問所の子ども達があまりにも世話焼きだからだろう。

(それにしても、あのおっさんまじふざけてやがる……)

 昨日も酒屋で殿中楽を吹いていたのだ。そして、曹符が向かった酒屋に近づいていくと、またしても殿中楽が聞こえてきている。初めこそ口を酸っぱくして反発していた羽であったが、のらりくらりと躱される日々が続き、疲れ果ててしまった。今はもう、好きにさせてしまっている。

(嶺さんも殿中楽だって知っていたみたいだしな……)

 いつぞや、嶺がそうこぼしていた。だが、夫の好きにさせているようで、殿中楽だからどうだ、ということは言わなかった。


「おっさん、帰ってこいや。さすがに俺だけじゃ大学の問題は教えられないぜ」

「へぇ……。大学の問題までは教えられるんだな。さすがは名家」

「心にもない世辞はいらねぇよ。つか、今度もまた殿中楽だな」

「そうだよ。これは彩雲妃。気高い天女を表現した曲さ」

 帰路につきながら、符はにやにやと笑いながら羽にいった。はたから見れば美形の男が舎弟を連れて歩いているように見えるだろう。嶺がいるからか、見た目だけは立派になるようにしてある。若い娘たちが頬を染めて符を見上げているのを見るたびに、羽はいたたまれない気持ちでいっぱいになった。

(こいつおっさんだし! 妻の尻にしかれ、殿中楽を弾くっていう最悪な野郎だぜ!)

 と、内心ツッコミを入れざるを得なかった。

「お、そうだ。今日も子ども達の前で弾いてやれよ。春想月花」

「唐突だな」

「いいじゃねぇか。周家じゃ、一日中弾いてばかりで、飽き飽きしてたんじゃないか? 楽っていうのは、時々するから面白いんだ」

「飽きるわけないだろう」

 だって、それ以外できないから。琴を弾いているときは何も考えなくて済んだ。父の叱咤もない、母の嘆息も、弟たちの羨望も何もかも。

「なぁ」

「なんだよ」

「春想月花、弾いてて何が”見える”か?」

「はぁ?」

 ゆっくりとした足取りで符が問いかけてきた。後ろからぼやぼやとついてきた羽にはその問いに即答することはできなかった。

「楽人なら、知っている感覚だと思うんだがな」

 違ったか? と符は頭をがしがしと掻いた。嶺が丁寧に結ってくれた髪がめちゃくちゃになっていくが、符は気にしていないようだ。後で跳び蹴りを喰らっても文句は言わないよな、と羽は思った。

(何が”見える”、か)

 それなら、答えはすぐわかる。

「紅梅の園。満月の映える晩冬の夜に、一人の舞手がいる。彼女は領巾を己の一部のように操っていた」

 奏でている時に頭に浮かんだ光景を羽は答えた。

「ふぅん。その舞手は”美人”か?」

 美人か、といわれ羽はもう一度頭の中に浮かんでいる光景を振り返ってみた。目を閉じ、腕を組み、映像を鮮明なものにする。美人、というより……。

(たぬき、だな)

 小さい顔に大きく丸まっこい目。鼻は少し高いようだが、目の印象が強すぎて隠れてしまっている。髪は結っているが先は軽く弧を描いて風に乗ってふわふわ舞う。小柄な姿は軽やかであるが、一方でどこか天然な感じがする。舞っている時の顔は多少は真剣であるが、それでも遊んでいるようにも見える。

(けど、たぬきみたいって言ったら馬鹿にされるかな)

 羽はそれらしい言葉を生み出そうと頭を抱えた。

「素朴な。田舎娘、って感じだ。美人じゃないけど、でも……」

「純粋な、咲き初めの花のような女人だろう?」

「そうそれ! 野暮ったいって言われればそれまでかもしれないけど、純粋な感じがした。化粧もそんなにしてないはずなのに、かわいい顔をしていた」

 羽の言葉に、そうだろうそうだろう、と符はうなずいている。

「お前さん、春想月花が何で市中で奏でてもお咎めが無いか知ってるか?」

「練習曲だからだろ? それか、祭り用の曲だからか?」

「違うなぁ。じゃあ、課題にしてやろう。なんで、春想月花が”特別”なのか、調べてこい」

 殿中楽はすべてが特別だ。なんて反論はさておき、振り返って言った符の目は真剣そのものだった。羽の背中がぞくりと音を立てる。バクバクと心臓を鳴らしている羽に曹符はひらひらと手を振った。

「んじゃ、頑張れよー。調べものぐらいだったらそんなにかからねぇだろー」

 すたこらと歩き去っていく符の背中を羽は目を白黒させながら見ていた。

(おっさん、本当に何者なんだ……?)


 学問所につくと、子ども達は嶺に昼餉を食べさせていた。手や顔に絵の具をつけたままの姿に符が大声を上げて揶揄ったので、嶺はその場で跳び蹴りを食らわせていた。嶺が符に手を挙げる光景はもう見慣れてしまった。符は嶺に頭が上がらないうえに、なぜか言葉も柔らかい。

 子ども達の前で楽を奏でるのも日課になってしまっていて、子ども達の方もやれこれを弾いてほしい、やれ一緒に歌いたいだの言いたい放題だ。それでも、どこか今まで出会ってきたどの貴族の子息たちとは違っていた。あのシン、とした空気にいまだなれない。

(仙人みたいなガキどもだな……)

 そう、思うことにした。


「春想月花について、ですか……」

 夕餉を終えた後、符を湯浴み所に押し込んだ嶺に羽は思い切って尋ねることにした。

「そういうことは、御曹司の実家に行けばあるのではないですか?」

「いえ、それが……楽譜はあっても、その曲の成り立ちについては、全く知らないのです。春想月花が特別な理由、何かご存じではありませんか?」

 学者の家であれば、その手の書物はあるかもしれない、と一縷の希望を見出したのだが、空振りだったようだ。

(そもそも曲の成り立ちなんて、知ったって意味ないだろ)

 周家では、曲と作り手は別個のものとして扱っている。なぜなら、作り手は基本規格外の人間であることがほとんどだからだ。

 曰く、何日も不眠不休で曲を作った、とか。

 曰く、何人も妻をめとったり別れたり、とか。

 曰く、大金を一夜で使い果たした、とか。

 曰く、下品な収集物を集めることが好きだった、とか。

 一部の楽人にも似たような部類はいるが、作り手はそれに輪をかけて特殊な人間が多い。むしろその特殊さゆえに多くの名曲が生まれていることも事実である。だが、作り手を理解したがゆえに、その印象が曲に影響し、響きがおかしくなってしまうこともあるため、別個のものとして扱うようになったのだ。

「御曹司が気に入ったのね、あの人」

「腹が立ちますが、そういうことなんでしょう」

 くすくすと笑う嶺はその顔のまま、書物が積まれた棚の中に消えていった。そして、しばらく何かを動かす音がしたあと、一つの掛け軸を持って現れた。

「参考になるかどうかわかりませんが、私の親族が描いた絵です」

 そう言って差し出された絵は、紅梅の描かれた見事な庭園だった。その中に、皇帝らしき人物が描かれ、彼の視線の先に一人の舞手がいた。

(あ……)

 羽が息を飲んだのも、おかしくはなかった。なぜなら、羽の頭の中に浮かんだのと、うり二つの娘がそこにいたからだ。

「この絵は、三代皇帝の御世に描かれたと言われています。春想月花を殿中楽に指定したのは、三代皇帝です」

 貴重な絵なのか、絵自体に手を触れずに嶺が言った。所々に金を使い、淡い色彩の絵はかなり古い物で、ちょっとしたことで傷ついてしまうことが容易に分かった。

「この舞手は、皇帝の后だと伝わっています」

「后? 妃ではなくて?」

 はい、と嶺はうなずいた。そういえば、いつかの時代に農民出身の娘を后に迎えた皇帝がいたような気がした。百年は昔の話なのと、あまりにも現実離れしている話なので、半ば伝説のように語られている。

「本当の話なんですか?」

「ええ。少なくとも、曹家ではそういうことになっています。でなければ、三代皇帝の御世に大規模な飢饉が起きた際、皇帝が下した命令に説明がつきません。なにせ、大規模な減税、免税措置ですからね。物流も盛んにしていますし、異民族への迫害も少なく、融和政策もありました。

 それに、皇后領の運営も農民の視点で行われていますし、后が農民出身である可能性は高いと思います」

 曹家が言うなら、間違いはないんだろうな、と羽は思った。

 三代皇帝が春想月花を殿中楽に指定した。

 そして、その皇帝の后は農民出身だ。

 后はその出自故に民を慮り、その姿勢が皇帝の治世にも関わっている。

(なんだか、分かりそうな……)

 羽がもやもやと答えを絞りだそうとしていると、湯浴み所からバタバタと符が転がり出てきた。ぼたぼたと水滴を頭から滴らせ、申し訳程度に身をぬぐった布を腰に巻いている。

「嶺さん! 頭から湯を被ったからいいでしょう?!」

「いいわけがないでしょう! まだ洗い残しがあります!」

「あ! まって! ちゃんと左腕はこすった!」

「嘘おっしゃい! そっちは右腕でしょう!」

 あわてふためく符の姿はまるで子どものようだ。その姿を見て、羽はひらめいた。

「もしかして、春想月花の皇帝は二人のような夫婦だったのでは!?」

「んぁ?」

 大きな布にくるまれ、頭だけをぴょこんと出していた符が首をかしげた。可愛くない赤ん坊は後にも先にもこいつだけだろうと羽は思いつつも、言葉を繋げた。

「春想月花は皇帝が后に贈った曲なんだよ!」

 ぽかんとしている符を無視して、羽は目を輝かせていった。

「皇帝は舞手だった后に曲を贈ろうとした。皇帝の命令で作った曲はすべからく殿中楽になるから、農民出身の后が怒ったんだよ」

「あぁ、課題か。それで?」

 こいつ忘れてやがったのかよ、と内心つっこみながらも羽は答える。

「農民出身の后にとって殿中楽は雲の上の存在だった。だから、そんなものを贈られる身分じゃないと思っていた皇后は、怒ったんだ」

 今のように楽人があふれている時代ならいざ知らず、まだ戦乱の混乱が続く時代、農民たちにとって楽は貴重な娯楽であり、殿中楽ともなれば手の届かないものだと思っていたに違いない。

「なによりも民を案じる后にとって、殿中楽を贈られる名誉よりも、民を幸せにすることの方が重要だったに違いない」

 農民には聞くことさえ叶わない殿中楽を自称農民の娘である后が聴く、その事実に后は怒ったのだ。自分は特別な人間になった覚えはない、自分の物は等しく民に与えるもので、民の幸せが己の幸せなのだ、と后は思ったのだ。

(まさに伝説だよなぁ……)

 言っていて、よくできた物語だなぁ、と羽は思った。そんな人間がいるものだろうか、と。その日暮らしもやっとな生き方から、一転、国中の誰からも慕われ、豪勢な暮らしができるというのに、傲慢にならずに謙虚に居続けられるだろうか。

「だから、后は春想月花を受け取らなかったんだよ」

「正解だ」

 可愛らしさの欠片もない、ただの芋虫のような男がきりっとした顔で答える。ものすごく気味が悪い光景だ。羽は嶺に目だけで、片づけてください、と訴えた。

「はい」

 にこりともせずに答える嶺の姿に、さすがの羽も凍り付いた。


「后が受け取らないとなった時、皇帝は慌てたそうだ」

 嶺がてきぱきと身をぬぐった後、しばらくふて腐れていた符だったが、少し落ち着いたようで羽に課題の解説を始めた。

「殿中楽を受け取らないと皇帝の権威が落ちる、かといって無理に押し付けてしまうと后の機嫌が悪くなる、まさに板挟みだな」

 農民出身とはいえ、後宮の主である后だ。后の影響力は強く、例えば后が「赤が好き」と呟いただけで、国中の娘たちが一斉に赤い衣をまとうこともある。后に宛てて様々な贈り物をする商人たちや、彼女を通じて行う外交もある。皇帝といえど、后との関係は慎重にならざるを得ないのだ。

「そこで皇帝が苦肉の策を講じたんだ。”春想月花は練習曲だ”といってな」

 練習曲として、全ての楽人に奏でるように強制したのだ。どの楽人も必ず弾かなければならない曲として位置付けることで、殿中楽の権威はそのままに、后に贈ることができると踏んだのだ。

「で、結局后は受け取ったんですか?」

「それは、この絵が教えてくれるさ」

 そう言って、符は先ほど嶺が出してくれた絵を顎で示した。


 美しい庭園の中、夫婦が互いを見つめ合っている。王族と農民という交わらない世界を生きていた二人が出会った庭園は満月の中、その色彩を鮮明にしていく。民を慈しみ、愛した后と、その姿勢を尊重する皇帝。二人しかいない世界で、梅は優しく咲き誇る。

 すぐそこまでに追ってくる春の気配に、ただただ羽はため息をつくばかりだった。

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