声に溺れる
人権が欲しくば、アリエル・ローレライの声を聞いてはいけない。
その噂を王宮で耳にした頃、僕はまだ10にも満たない子供だった。初めてその噂を耳にしたとき、僕は何を馬鹿なことをと一蹴したと思う。
。。。
「ディラン、お前も今日で10になるな。そろそろ婚約者を決める頃だろう」
「貴方にふさわしいご令嬢たちの名簿は侍女長に渡しましたので、あとで確認しておきなさい」
「はい、お気づかいありがとうございます」
10の誕生日の朝、父上と母上に婚約者を決めろと言われた。今の王室の子は僕しかいないので、そろそろ頃合だろうと分かっていた。
結婚に対する負の感情はないが、今晩の生誕パーティのことを考えると少し気が重くなる。今でもご令嬢たちのアピールには疲弊していたのに、さらに激化するなど考えたくもない。さっさと婚約者を決めた方が身のためだろう。
執務室の前で待機していた侍女長からご令嬢たちの名簿を受け取る。名簿と言っても長々と情報が綴られているので、意外と分厚い。マナーの先生に見られたら行儀が悪いと叱られそうだが、パーティまで時間が無いので今日くらいお見逃しを願いたい。
「……アリエル・ローレライ」
最初に聞き覚えがある名前を見つけて、思わずページをめくる手が止まる。現在公爵家や他の侯爵家には男児しか居ないため、同世代ローレライ侯爵家のご令嬢が最も身分が高いことになる。僕と同じ歳だし、おそらく最有力候補に違いのだが、一度も彼女を見かけたことがない。
海の加護が強いこの国で赤髪は珍しい。それもこんな炎のような髪だったのなら、遠目でも気付くはずだ。
今までのパーティやお茶会の記憶を掘り返していたところで、ふと何年か前に聞いた噂を思い出した。
人権が欲しくば、アリエル・ローレライの声を聞いてはいけない。
釣書の方に目を通すと、「とても美しい声を持っており、一度でも耳にするとたちまち楽園へ至れる」とあった。
だいぶマイルドに書いてあるが、つまりは声を聞くと気を失うと言いたいのだろう。
「そんなこと馬鹿なことがあるわけないだろう」
いくら侯爵家の娘とはいえ、誇張が過ぎているのではないか。そんなもの実際に会えばすぐに分かるというのに。
……もしや、嘘がバレないように今まで顔を見せなかったのだろうか?それならば最初に会って噂の美声を確かめてやろう。
そうだな、もし僕が本当に失神したらそのまま彼女を婚約者にしてもいいかもしれない。
一人で勝手に賭けに出た僕は、初めて楽しい気持ちでパーティの準備を進めた。
早く彼女に会いたい。
。。。
ローレライ家は、だれもが優れた声を持っている。ある者歌えば動物が集まり蝶が舞う。またある者は話せばつい耳を傾けたくなり、警戒心を解いてしまう。
もとより、"声"に縁がある一族である。定かではないが、なんでも先祖にセイレーンや人魚がいるらしい。
あの日、結局ローレライ嬢は僕の生誕パーティにも現れなかった。またもや声を欠席理由にしていたが、父上も母上もそれに不満を示すことはなかった。
ますます好奇心を膨らませた僕は、早速ローレライ家に手紙を出した。
そして今日。
僕はやっと魔性の艶声と名高いアリエル・ローレライ嬢に会える。
何となく落ち着かなくて、何回も身嗜みをチェックした。長年使えてくれている執事が暖かい目で僕を見て微笑むので、外に追い出した。
本当は同じように見てくるメイドたちも追い出したかったが、さすがに婚約も結んでいない令嬢と2人きりで居ることは出来ないので、何とか耐えた。こっち見んなってば。
しばらくして、侍女長に連れられて僕の前にやってきたのは、姿絵よりずっと綺麗な女の子だった。
炎のような赤い髪は緩やかなウェーブを描き、まるで本当に燃えているみたいだ。猫のようにつり上がった目は綺麗なエメラルドグリーンで、他の令嬢と比べてとても大人ぽかった。
薔薇のような華やかドレスは彼女によく似合っており、彼女は流れるような動きでスカート摘んでカーテシーをした。
「お初に目にかかります、ディラン殿下」
「ミ゜ッ」
僕の口からすごい音が漏れた気がするが、正直そこから先の記憶が無い。
。。。
アリエルは、人を溶かすような甘い声を持っている。
砂糖を煮詰めてさらに砂糖をかけたような、極上なはちみつをたっぷり入れたホットミルクのような、チョコレートの砂糖とはちみつ掛けのような、天井の音楽のような、天使の囁きのような、あるいは深海の歌声のような。
上げたらキリがないが、とにかく彼女の声の例え方は十人十色だ。
あの日、とんでもない姿を晒した僕だが、目覚めてすぐにしたことは両親に彼女と結婚したいと申し出ることだ。
すでに自分との賭けに負けたことなんて一欠片も覚えてなく、代わりに脳は彼女のことに埋め尽くされていた。
その甘美な声は脳裏にこびりついて離れてくれず、彼女の姿を思い出しただけで息が上手く吸えなくなる。
心臓ははち切れそうなほど強く、速く脈を打つ。それでも鼓動の音は彼女の声をかき消してくれず、体の芯が焼かれたように熱い。
欲しい。欲しい。欲しい。
彼女が、欲しい。
「どうしてそこまでしてこの婚約を維持するのですか?」
いつかアリエルがそう尋ねてきたとき、自分の感情の熱量を彼女に悟られるのよう隠すのに必死だった僕は、なんて答えたんだっけ。
。。。
声の毒性は年々と増していき、アリエルはいろんなひとを魅了していった。
学園に入る頃には、公爵家のあいつと筋肉ダルマ、あとは神殿の次期枢機卿はよく溶けていた。ああ、あのだらしない教師もか。
アリエルの声に失神しないところは認めてやるが、何を言われても幸せそうにするのはちょっとどうかと思う。
そろそろ駆除した方がいいかもしれない。
そういえば入学式でアリエルを罵倒した命知らずの男爵令嬢もいたが、卒業式の今日では立派な忠犬だ。
深呼吸する。
緊張を紛らわせるために思い出に浸っていたが、いい加減勇気を出そう。アリエルの声に耐性をつけた僕に怖いものは無い。
。。。
あの日よりずっと綺麗になったアリエルは、僕の言葉にあの時のよりずっと幼い顔をした。
最初こそなにか勘違いしていた彼女は、じわじわ現状を理解し出したようだ。とはいえ、長い間隠してきたこの感情には彼女も戸惑うだろう。
彼女を困らせないようにと言葉を続けようとした僕だが。
「ディラン」
「あっ、返事は急いでないよ!父上たちもアリエルの事情分かってるから、急がなくていいって言ってくれ」
「私も好きです」
「ミ゜ッ」
久しぶりにとんでもない音を漏らして失神した。
その後の記憶は無い。
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