第6章(その6)
そんな折でした。つい今しがた上空であのバラクロアと激しくぶつかり合っていたはずの魔人が、攻撃をひらりとかわしたついでに、その高度をぐっと下げて、魔物の軍勢の方へと降りていったのです。
魔人は彼らの頭上すれすれの低い高度を保ったまま、両手を左右に広げました。すると、まるで鳥が羽根を大きく広げるかのように炎の幕がぱっと広がったのでした。
まるで、身体に合わない長いマントをずるずると引きずるかのごとく、魔人は炎の幕をひきずったまま魔物どもの頭上をゆっくりと通過していったのでした。
それはまさに地獄の劫火と言えたかも知れません。炎に巻き込まれた魔物どもはあっという間にその身を炎に包まれ、熱さにのたうち回る事となるのでした。大勢がひとところにひしめき合っているものですから、一匹が火に巻かれればあとは次々と燃え移っていきます。互いに助け合って火を消す、という知恵もろくに回らないのか、闇雲にのたうち回るばかりで隣で誰かが燃えていたとしても魔物どもは気にも留めないものですから、やがてはそんな炎が群れを伝っておのれの身を焼くまで、ただ漠然と行進を続けるのみでした。
むろん、多少の火などものともせず……身体が炎に巻かれるに任せて黙々と進軍を続ける者も多くいました。そうやって燃えさかったままの軍勢が、川辺や橋にたむろっているさまは、一種異様なものがありました。
バラクロアもそれを黙って見ているだけのはずもなく、魔人を阻止すべく低い高度まで降りて来ますが、魔人はといえばまるでそれをあざ笑うかのように、逆にひらりと上空へ逃れて行きます。
誰の目にも、バラクロアが次第に苛立ちを募らせていくのが分かりました。上空に浮かぶ炎の魔像が、怒りに全身をわなわなと震わせ……いきり立って突然火柱を噴き上げたかと思うと、魔人に向かってそのまま力任せに二本の腕を振り下ろしたのです。その腕が自軍の魔物どもをなぎ倒すのもお構いなしでした。魔人はと言えば、そんなバラクロアの炎の腕を、きわどいところでひらり、ひらりとすり抜けては、折を見て魔物の軍勢の頭上に、大きな炎のかたまりをぼとり、ぼとりと落としていくのでした。
魔人が散々に火をつけて回ったのと、バラクロア自身が怒りに任せて薙ぎ倒したのも合わせて、今や魔物どもの軍勢は総崩れに近いありさまでした。整然と行進していた軍隊は、いまや炎に巻かれ滑稽な素振りでのたうち回るあわれな亡者どもの群れとなって、ただ右往左往するだけに成り下がっていたのです。
それでも彼らは、河をどうにか渡って人間たちの都に肉迫しようという当初の目的に、健気にも忠実に従おうと懸命になっていました。橋には多くの群れが殺到し、まるで石造りの橋そのものが燃え盛っているようでした。橋までたどり着けないものは、河の流れに足を踏み入れたかと思うと、そのまま流れに足を取られて流されていくか、沈んでいくかというありさまだったのです。
敵はもはや総崩れでした。それでも、炎に包まれながらも人間の版図を少しでも脅かそうと、懸命にこちらににじり寄ってくるさまは、哀れでもあり、またまるでこの世界の終末のその時のような薄らさみしい光景のようでもありました。
人間たちがそんな事を考えていると、上空にただ一人残されてしまっていた魔王バラクロアが、地の底から響くような野太い咆哮を、怒りに任せて虚空にまき散らすのでした。
人々はいよいよ恐れおののきました。ついに魔王が、哀れな民衆を炎で焼き付くさんと自ら動き始めたのです。魔王は恐ろしげな形相のまま、ゆっくりと人間達の頭上にやってきたかと思うと、人の半身を模したその形状を崩し、巨大な火の玉へと変化していくのでした。
その火の玉が、巨大な災厄となって今まさに人々の頭上に降ってこようかという、まさにその時――。
その一瞬をまさに狙いすましたかのように、炎の魔人は低い位置から一気に急上昇し、まっすぐに魔王の火の玉へと向かっていくのでした。これぞまさに乾坤一擲、魔人の一撃がその火の玉を一瞬にして貫通したかと思うと……火の玉は次の瞬間ぎゅっと収縮し、そしてその次にはまばゆいまでの閃光とともに、勢いよく四散してしまったのです。
その炎の破片は、衝撃波とともに人々の頭上から雨滴のごとく降りそそいでくるのでした。破裂する前の巨大な火の玉よりはましと言えたかも知れませんが、それでもこのままではあの哀れな怪物たちと同じ末路を、今度は人間たちの方が辿る羽目になろうというものです。
人々はうろたえ、我先にとその場から逃げ出そうとするのでした。そんな中、賢者ルッソは彼方の空をしかと見据えたまま、必死に何か呪文のようなものを唱えていたのです。
「賢者さま! はやく逃げないと!」
「今更逃げた所で間に合いはせぬ! リテルよ、私の背中に回って、身を屈めているのだ。決して私よりも前に出るのではないぞ!」
ルッソはそう叫んだかと思うと空に向かって両手をかざしました。炎の固まりが今まさに降り注いでくる中、えいや、とばかりにまるで押し返すように手を上に伸ばすと、炎はまるで見えない壁にぶつかったかのように跳ね返っていくのでした。
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