第6章(その2)
(そなたらは我の名を知っているはずだ! 知らぬとは言わせぬ、我が名はバラクロア! そなたらがかつてあの忌まわしき火の山に封じ込めたはずの、暗き闇の国を統べる王だ! その名を聞いて存分に恐れおののくがよいわ!)
声はまるで雷鳴のように、けたたましく夜空に響き渡ったのでした。人々はその恐ろしげな大音声に、ただただ首をすくめて震えていることしか出来ませんでした。魔王は……空に浮かぶのが当の魔王自身の本体であるのか、人々にその姿を晒すためのあくまでも虚像なのかは分かりませんでしたが、その炎の腕を軽く振り回すだけで、なるほど何物をも簡単に焼き尽くせるのではなかろうか、と思わせるものがあるのでした。
それを見上げながら人々が不安に打ち震える中、リテルは賢者ルッソに連れられ、人波をかき分けて、王国軍の本陣を訪れたのでした。無論そこかしこで見張りの兵に呼び止められはするものの、皆ルッソの姿を見るなり、かしこまった様子でそのまま先へと通してくれるのでした。
天幕を奥へと進んでいくごとに、すれ違う兵士が一般の兵卒から、立派な甲冑を着た騎士になり、さらにはその上官となっていくにつれてリテルなどは自分が場違いなところに紛れ込んでしまったような気持ちになって恐縮するしかなかったのですが、あれよあれよという間に、いつの間にか一番奥へとたどり着いてしまったのでした。
そこで初めて、これまですれ違ってきた兵士や騎士たちに会釈を返していただけだったルッソが、自分から膝を折ったのでした。
「フレデリック殿下。ルッソ、ただいま戻りました」
流れるような一連のルッソの所作を呆然と後ろから見ていたリテルですが、賢者が誰を前にしているのかにすぐに気付いて、慌てて見よう見まねで片膝をついたのでしたが、何か作法を間違えてはいないかと、気が気ではありませんでした。そこにいたのはホーヴェン王子の兄、一番上の長兄にあたる王太子フレデリックその人だったのです。
王太子、とは言いますがあのホーヴェン王子ですら三十代も半ば、その一番上の兄に当たるこの御仁は齢すでに五十に差し掛かろうといった所で、威厳に満ちたその佇まいはそれこそ一国の王たる者のそれであり、高齢の父王の無二の右腕として、また名代として、国政のかけがえのない要たる名君主その人でありました。
そんなわけで、リテルごときが本来目通りの適う相手ではないというのに、事前に何も告げられずそんな場に引き出されてしまったのですから、彼女が目を白黒させるのも無理はなかったかも知れません。
「ルッソ。その娘は?」
「は。例の火の山の洞穴に住み着いた妖躯に、生贄として身柄を押さえられていた者です。洞穴に留め置くわけにもいかず、ふもとの村の者どももあの軍勢から避難した後とあって、村に一人置き去りにするのも忍びなく思い、伴ってまいりました」
そのままルッソはかいつまんで、火の山で起きた一連の出来事について報告の弁を述べました。話を聞き終えた王太子は、やれやれと、溜息を深々とついたのでした。
「ホーヴェンも仕方のないやつだな。功を焦ってとんでもない事をしでかしてくれたものよ。……あやつが魔物討伐とやらに向かった先が火の山だったとあらかじめ分かっておれば、最初からあの粗忽者ではなく、万全の備えをした上でそなたを送り出したというに」
「私めが山に到着した時には、すでにバラクロアは封印を破ったあとでした。……とは言えこの私がその場であやつを倒し、あらためて封印が叶えばそれに越したことはなかったのですが……」
「それはやむを得ぬ。今になって言っても詮無きことであろう。いかな賢者とはいえまだ若いそなたに、役目以上の過分な働きを期待するわけにもいかぬからな。……とは申せど」
「……いかにも。何をもっても、バラクロアを封じぬわけにはまいりますまい」
「正直、おぬしに何かうまい手だてはあるのか」
「王都を灰燼に帰す事だけはせめて避けねば。それにホーヴェン王子殿下の身柄も」
「あれのことは、もうこの際よいのではなかろうかの?」
王太子までもが困惑顔で、ぞんざいにそのように言い放つ始末ですから、ホーヴェン王子の人望の無さが窺い知れるというものでした。
そこまでの話の流れには一切参加せずに、その場に黙って佇んでいただけのリテルでしたが、ルッソが意図的に魔人に関する話を避けているのは分かりました。封印云々もあくまでもホーヴェン王子が火の山にちょっかいをかけたのが原因で、その彼が討伐に熱を上げていた「魔物」が何者であったかなど、たくみに話題にならぬようにうまく話を誘導してさえいるかのようでした。リテルの知らない間に、道中どこかでこちらと連絡を取り合っていたのか、火の山での経緯はすでに王太子も把握しているようでしたが……。
ともあれ、結局ルッソと王太子の面談の中で、今後の具体的な方策について満足に話がまとまるでもなく、二人はその天幕を後にして引き下がるのでした。
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