第1章(その3)

「こら。笑うんじゃない」

 魔人も、少しへそを曲げてそう不平をいっただけで、リテルの態度をそれ以上たしなめたりはしませんでした。

 気が付くと、周囲の壁面にぐるりとたいまつのような灯火がともっていて、洞穴の中が見渡せるようになっていました。天然の洞穴とは思えないほど、そっくり綺麗にくりぬかれたように整った丸い形状の大広間でした。中央部分が少し低いくぼみのようになっていて、どこからか地下水が流れ込んでいるのか、広間の真ん中になみなみと水がたたえられているのが分かりました。

 その灯りも、暗闇ではまったく目の利かないリテルのためのものだったのでしょう。意外に親切な魔人の配慮にリテルはほっとして、ここにやってくる事になったこれまでの経緯を語りはじめたのでした。

 幼い頃に家族でこの地に入植してきたこと。作物が思うように育たず両親が苦労していること。今年の水不足はまさに干ばつと言ってもよさそうなほどで、いよいよ村もおしまいかもしれないこと……それもこれも火の山に住むというバラクロアの呪いなのだ、という話が大人達の間でまことしやかに囁かれていたこと――。

「その、バラクロア、というのが、俺のことなのか?」

「火の魔人は火の山の洞穴を住処にしている、と聞き及んでいます。ここがあなたの住処だというのなら、やはりあなたがバラクロア様なのでは?」

 魔人は、ちがう、とひとたびは否定しましたが……そもそも自分で自分の名前すら、これだ、と考え抜いて決めたことさえありませんでしたから、外の人間達が自分をどのような呼び名で呼んでいたところで、彼の預かり知るところではないのもまた事実でした。火の山に魔人が住んでいて、その魔人に用があってこの少女はここまでやってきたのですから、名前のことでこのリテルに文句を言っても仕方のないことだ、と魔人は思い直すことにしたのでした。

「だが、さすがに呪いというのは違うぞ。俺は別に何もしていない」

「……本当ですか?」

「疑ってどうする。大体この山が火山なのも、雨が少ないのも、別に俺のせいじゃないからな。それにおれはここで静かに暮らしていたいだけだ。人間などと関わりを持ったところで、面倒ごとが増えるだけじゃあないか」

 そういうと、魔人は足元の水面に――その時に初めて気付きましたが、魔人は先ほどからずっと広間中央の水場の真上に浮かんでいたのです――さっと手をかざしました。

 促されるままにリテルが覗き込んでみると、最初は彼女自身の顔が、広間の灯火に照り返ってぼんやりと映っているだけでしたが、やがてそうではないものが、そこには見えてきました。

 初めのうちは何が何だか分かりませんでしたが……やがてそれが、自分の住んでいる麓の村であることにリテルは気付きました。山裾の荒れ地に何軒かの小さな家が身を寄せ合うようにして立ち並んでいるのを、ずっと空の遠いところから見おろしている光景だったのです。当たり前のことながらリテルは空を飛んだことなど一度もないので、そのような高さと角度から、自分の村を見おろしたことなど一度たりともなかったので、すぐには気付かなかったのです。

 そもそもそのような光景が水面に写り込んでいることからして不思議としかいいようがありませんでした。ただただ驚くばかりのリテルをよそに、水面の像は村の建ち並ぶ家屋が視界いっぱいになるまで徐々に高度を下げていくのでした。

「お前の家はどれだ?」

 魔人に不意にそのように問われて、リテルは慌てて指し示しました。目抜き通りを指でなぞって、一軒、二軒と確かめるように数えて……思わず指先が像に触れれば、それは確かに水たまりで、波紋がやんわりと広がっていくのでした。

 けれど、それを不思議な手妻だと驚いていられたのはそこまでで、リテルが自分の家を指さすと、今度は別の意味で驚かされることになるのでした。魔人が次にそこに映し出したのは、その家の中にいる、両親の姿だったのです。

「お父さん! お母さん……!」

 それはもう、見てはいられない有様でした。さすがに夜も更けて弟はベッドに入って眠っていたのでしょうが、両親はと言えばおのが娘を生け贄として送り出したことを悔やみに悔やみ抜いて、さめざめと泣き崩れるばかりでした。母親はとにかく悲嘆にくれるままに泣き叫び、それをどうにかなだめようという父親の方も悔しさにわなわなと身を震わせていたのでした。そのうち、やはり娘を連れ戻しにいくべきだ、などと父親が言い出しはじめるのを聞いて、リテルは困惑するしかありませんでした。

「ほうら、どうせ迎えに来ると言っているんだ。お前もいい加減、ここを出ていくんだな」

 魔人はそう言いますが、リテルの態度は歯切れの悪いものでした。せっかく議論を重ねてようやく決めた生け贄が、すごすごと引き返してきたりしようものなら、村の人たちがたいそう気を悪くするのでは、などと案じていたのです。そういう心配をする余裕があったのは、今ここで目の前にいる魔人が思ったほど恐ろしげでもなく、酷い目に遭わされることもなさそうだ、と安心しきっていたからに他ならないのですが。今や自分の身など案じるまでもなく、水面にこうやって映しだされている両親だとか、村の様子の方が彼女にはよっぽど気がかりだったのです。

 やはり、魔人の言うとおりにした方がいいのだろうか……などと思案していると、急に魔人は目の前の水面の像を消してしまいました。

 見れば、もはや魔人はあの少年の格好をやめ、形のない炎の姿に戻ってしまっていました。

(どれ、出ていく気がないなら、俺が送り届けてやるよ)

「え? ちょ、ちょっと……!」

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